縞馬計画

岡 辰郎

ステージ1

1《チームA》――JST07時34分


            ※※※※※※※※※


 この作品は2016年当時の国際情勢をもとに描いた「架空の世界〈パラレルワールド〉での冒険譚」ですが、現実との乖離が大きくなって公開を断念していました。しかし内容的には捨て難い点も多く、いくつかのアイデアを拙作「オスプレイ・ダウン」に移植しています。ですので数ページにわたって共通、あるいは類似する展開が存在しますが、ご了承ください。

 本作は独立、完結した物語として読めることはお約束します。


            ※※※※※※※※※






 ここが日本であるはずがない――。

 真鍋真一はそう結論するしかなかった。

 未明に航空自衛隊千歳基地を飛び立った時点では、目的地は佐渡島の空港だと聞かされていた。飛行の目的は、真鍋が開発の指揮をとった〝超小型心臓手術室〟である医療コンテナ『ハートユニット』の移送と、その使用法の指導だ。佐渡空港からユニットを下ろしたのちに航空自衛隊佐渡分屯地に輸送し、そこで数か月間の実証試験を行う計画だという。

 確かに、医療へのアクセスが充実した北海道では、あえて実験的な設備で手術を受けようという患者は少ない。本土への行き来が不便な離島でこそハートユニットの能力が活かせるし、開発のコンセプトにも合致する。だが目的地が佐渡なら、機はとっくに到着しているはずだ。

 自衛隊の輸送機――C130Hの巡航速度など知る由はなかった。しかし日常的に航空機で移動する真鍋が、異常なほど長時間の飛行に気づかないわけがない。国内であれば福岡にすら到着しているほど、すでに飛び続けている。

 真鍋には天体の知識も乏しいが、それでも北極星ぐらいは見分けられる。明るくなるまでは、何度も小さな丸窓から星を確認した。進行方向右側に見えていたのは、間違いなく北極星だ。機体は、南には向かっていない。日本海上を西を目指して飛行しているのだ。おそらくは、とっくに日本の領海を超えている……。

 四つのプロペラで飛ぶ、ずんぐりとしたターボプロップ機の内部は、民間航空の大型機と比べれば広いとはいえない。だが、完全武装の空挺部隊員を60名以上収容でき、あるいは数台の装甲車両がすっぽりと収まる大きさがある。しかも床は民間機のように座席で埋め尽くされていないので、逆に開放感すら感じさせる。小ぶりな倉庫そのものだといっていい。

 今は、前半分に巨大な立方体の金属の箱――ハートユニットが積み込まれて空間を占領しているので、空いているのは後ろ半分だけだ。

 真鍋の不安を、無骨でむき出しのジュラルミン製骨格や配管の寒々しさが掻き立てる。

 パイプ椅子状の〝ベンチ〟や、工事現場の足場の鉄板を敷き詰めたような床。グレーの薄い断熱材が貼られ、細かい構造材が縦横に組まれた壁。その壁には、無数の配管や配線が走っている。色彩に乏しい機内で、椅子の座面の赤色が異様に目立つ――。

 この輸送機は、飾りなど必要ない実用一点張りの〝兵器〟なのだ。軍用機では、快適性など考慮する必要がない。民間機と違って防音にも配慮がなされていないため、空間いっぱいに甲高いエンジン音が響き、細かい振動が絶えることがない。

 離陸してから数時間、ずっとそうだ。

 機体の両側には横向きにベンチが並んでいる。背もたれも座面も、幅広の赤い樹脂テープをざっくりと編んだだけのそっけない造りだ。進行方向に対して体が横向きになるため、機体が揺れると体が横に揺さぶられる。その度に、真鍋は足元のフレームを掴んで体を支えなければならなかった。千歳を発ってから、背中の軽い痛みに耐え続けている。

 真鍋は、丸窓から薄暗い室内に視線を戻した。

 搭乗しているのは10名。大半は制服の自衛官で、真鍋たちの正面に向かい合って座っている。皆、静かに本を読んだり、目を閉じている。騒音の中で会話を交わすのは、面倒なのだろう。彼らの姿からは、緊張は感じられなかった。

 明らかな民間人は3人で、真鍋たちの側に離れて座っている。

 一人は、チノパンにノースフェイスの登山用ダウンジャケットを羽織った真鍋自身だ。

 もう一人は小型のレントゲン機器を中心にハートユニットの開発を担当した『ツシマ精機』から派遣された、小柄で若い女性だ。ポニーテールの化粧気のない技術者は、会社のロゴが刺繍された作業着を当然のことのように身につけている。

 彼女は出発直前に後部ランプ――車両などを載せるためにスロープ状に開く機体後部のハッチから、息を切らせて飛び込んできた。真鍋はハートユニットの開発中に京都のツシマ精機に何度も通って議論を重ねたが、その際には顔を合わせたことのない女性だった。だがすぐに機内はランプを閉じる騒音に満たされてしまったので、黙礼を交わしただけでまだ言葉もかけていない。

 真鍋の隣に座っているのは、後藤俊哉と名乗った中年男だ。多少くたびれてだぶついてはいるが、グレーのスーツをきっちりと着てネクタイまで締めていた。街中ではありふれた身なりだが、軍用機の中では異様に感じられる。真鍋は、後藤は自分より少し年下だろうと判断していた。

 後藤は離陸を待つ間、自分は北海道を拠点に活動する医療ボランティアのNPO法人――『ピースハート』の代表だと説明した。20名ほどの有志を束ねて、開発途上国などに基礎的な中古医療機器を寄付する活動を行っているという。医師や看護師ではないが、海外での災害派遣などを支援することも多く、自衛隊と活動を共にすることも珍しくないのだという。

 後藤が軽く咳き込みながら、室内の騒音に逆らって真鍋に話しかける。その声からは不安がにじみ出ていた。

「まだ着かないんですかね……⁉」

 後藤の口調は見た目と同様、ボランティアというよりは世慣れた営業マンを思わせた。

 真鍋は、彫像のように身じろぎもしない自衛官たちを気にしながら、後藤に身を寄せた。

「目的地は佐渡なんかじゃありません。多分、もう国外へ出ています」

 後藤は驚いたそぶりは見せなかった。

「ですよね……大陸方面へ向かっているんでしょう?」

「なぜお分かりに?」

 真鍋は、後藤が外の星には関心を示さなかったことに気づいていた。GPSを組み込んだスマートフォンは、機器に悪影響を与えるからとの理由で搭乗寸前に取り上げられている。そこまで厳格にしなくてもいいだろうにとは思ったが、出発前の緊迫した雰囲気の中では異論を唱えにくかったのだ。現状では、天体を頼りにする他に進行方向を知る方法はないはずだった。

 後藤は、心細そうに答えた。

「なぜ僕が呼ばれたのか、ずっと不思議に思っていたんです。確かに自衛隊の医療ユニットの運用に関しては色々意見を求められてきましたが、いきなり運搬に同行しろなんてね……。まるで拉致されるみたいに連れてこられたんです」

 その言葉が、真鍋の不安を倍増させる。

「拉致?」

 真鍋には、〝拉致〟という言葉に敏感にならざるを得ない事情があった。

 後藤がさらに身を寄せる。

「アパートの玄関にいきなり車が4台もやってきて……。ま、僕の仕事はNPOの専業だし、独り者ですから誰が迷惑するってこともないんですけど……。『人に会いに行く』っていうから、こんな格好で来ちゃいましたけど、なんか、場違いで、間抜けに見えますよね……。僕、モンゴルには何度か行き来しているんです。だから目的地はモンゴルで、現地の事情に詳しい人間が必要だったんじゃないかと思うんです。あっちなら知り合いも何人かいますし」

 真鍋にとっては、意外な返事だった。

「内容も説明されていないんですか?」

「もちろん尋ねましたけど、ただハートユニットの移送に参加して欲しいというばかりで……詳しくは教えてもらえませんでした。何か、都合が悪いみたいで……」

 それは真鍋も同じだ。

 北海道DMAT――災害時派遣医療チームを通じた正式のルートで同行を依頼されたのだが、まさか目的地が国外だとは予想もしていなかった。佐渡に運ぶと信じて疑わなかったのだ。当然、パスポートも携帯していない。出発が未明だということに違和感はあったが、深く詮索する理由もなかった。だが、目的地は説明もなく変更されている。

〝騙された〟という感じが拭えない。

「そんなあやふやな情報だけで、なぜあなたは依頼を受けたんですか?」

 後藤は、怯えたようにかすかに首を横に振った。

「断るなんて、とんでもない。僕たち、とても立場が弱いので……。ピースハートは自衛隊から廃棄予定が近づいた医薬品や機材の提供を受けているんです。毛布とか保存食とかもです。それを途上国に運んで現地の医療に役立てているんで、わがままは言えないんです。自衛隊が一番大口の〝お得意様〟ですからね。一般の企業からも支援は受けていますが、これほど気前がいい相手はいません。北海道の景気はまだ冷え込んでいて、他人を助ける余裕はまだ少ないんです。官公庁関連のルート以外、確実なものはありませんからね。自衛隊との関係が絶たれでもしたら、ボランティアは続けていけなくなるかもしれません。真鍋先生こそ、なぜこんな場所に?」

 真鍋は機体前部のコンテナを顎で示した。

「そこのハートユニットの開発を担当していたんです。佐渡で実地試験をするから、向こうの担当者にユニットの使用法を詳しくレクチャーして欲しいと頼まれましてね」

「でも、航空機動衛生隊は小牧の航空支援集団がベースでしょう? なぜ千歳から出発したんです?」

「ハートユニット本体は千歳基地に保管されていたんです。私が手術の合間をみては調整を進めていたのでね。今日もこの輸送機は、小牧基地から飛んできたはずです」

 答えながらも、真鍋は考えていた。

 総合的な最終試験さえ満足に終わっていないハートユニットを国外に運ぶ理由は、何なのか――?

 目的地は、一体どこなのか――? 

 世界地図を頭に思い浮かべた。方向からいえば、ウラジオストク方面だ。ロシアと北朝鮮の国境にあたる。その先は中国で、確かにそのまま1000キロほど直進すればモンゴルへ到達する。

 だが、北朝鮮や中国上空に自衛隊機が入れるとは思えない。医療ボランティアの業務のためだとはいえ、中国共産党が日の丸を付けた自衛隊機の侵入を許すはずはない。モンゴルヘ入りたいなら、中国の領空を避けて北へ大きく迂回しなければならない。

 ならば目的地は、ロシアのウラジオストク以外に考えにくい。ロシアがハートユニットを必要としているなら、医療支援として秘密裏に運搬しようとするのも分からないではない。本来なら歓迎すべき医療協力なのだから隠す必要はなさそうだが、それができない政治的な事情が日本にはある。

 ここ数年、ロシア大統領と日本の総理は極めて関係が良好だと言われている。北方領土返還の具体的成果はなかったが、日本での首脳会談も円満に行われた。どうやら、個人的にも〝ウマが合う〟らしい。経済的に協力を深めてウィン・ウィンの関係を築きたいという双方の願いが、着実に動き始めている。

 エネルギー安全保障の観点から、日本は天然ガスなどの資源を安定的に、できるだけ安価に供給できる調達先の多様化を必要としていた。一方のロシアは採掘権料収入、極東地域開発の資金とノウハウ、そして生産設備の移譲を求めていたのだ。特に経済基盤が脆弱なロシア側にとっては切実な問題だった。

 原油価格の暴落で国の経済の根幹が揺さぶられれば、工業生産力の蓄積がないために、その衝撃がダイレクトに襲いかかる。売れるものは天然資源と兵器のみという貧弱な経済構造は、世界市況の変化に極めて弱いのだ。ヨーロッパの自動車会社が生産拠点を移転するなどして、工業生産のポテンシャルは上がりつつあるが、それでも充分とはいえない状態だった。早い話、電化製品や生活必需品はもちろん、チョコレートやビスケットに至るまで輸入に頼らざるを得ないのがロシアの実情だった。

 しかもシベリアから極東にかけては、産業の空白地帯でもあった。中国人の大量流入も問題化している。陸続きであるために潜在的な脅威である中国の資本を引き入れることは、長期的に考えれば好ましくない。資金力や技術力、そして国民性を勘案すれば、援助を求める相手は日本以外になかった。実際に一時は、戦後体制の象徴でもあった北方領土問題を一気に解決しようという雰囲気さえ醸成されたものだ。

 だがクリミアとウクライナの紛争で全てが変わった。ロシアは自由主義世界の鬼子として忌避されたのだ。その対立構造も、混迷を深めるばかりの中東情勢を巡って揺らいではいる。さらに、大量の難民をコントロールすることで、ロシアがEUへの発言権を強めるという図式さえ生まれた。そこに、選挙を終えたばかりの〝アメリカ新大統領〟の親露的な発言が融和的な要素を付け加えた。

 それでも大量の〝国家親衛隊〟を創設したロシア大統領への不信感は、西側諸国の指導者からぬぐい去られてはいない。特にロシアに隣接する周辺諸国からは恐怖心が消えない。

 G7の立場に同調しなければならない日本の総理が、今、公然とロシアを援助するには、国際的な反発を覚悟しなければならないのだ。それが全うな人道支援だとしても、だ。水面下でロシアとの取引を続けているEU諸国にさえ、口汚く罵られることになろう。

 だがそれは反面で『公にさえならなければその限りではない』という証左でもある。

 米軍は監視衛星などを使って世界各地の航空機の移動をキャッチしているといわれる。だが、仮にアメリカがロシアに向かう自衛隊機を捕捉していたとしても、小規模な医療支援が目的ならば大目に見ることもあろう。そもそも自衛隊は、アメリカ軍の枠組みから外れて行動することはできないという。実際に輸送機が飛行している以上、米軍から『しばらく目をつぶっていてやるから、こっそり事を済ませてくれ』という了解を取り付けたのかもしれない。ロシアにハートユニットを引き渡すことが、どこかでアメリカの利益につながっている可能性もある。

 国際政治の複雑さは、真鍋の理解を超えている。しかし同時に、国家の指導者たちが握手をしながら殴り合う――あるいは殴り合いながら手を結ぶことがあることぐらいは了解している。

 それが〝大人の関係〟というものだ。

 後藤が自信なさそうに問う。

「やはり、行き先はモンゴルでしょうか……?」

 真鍋は断言した。

「ウラジオストクだと思います。自衛隊機で中国を突っ切るわけにはいかないでしょう。いくら早朝でも、撃墜されるか国際問題になります」

「ですよね……。でも、ロシア? 僕、ロシアとは関わったことはありませんけど……。それにロシアなら、なんで夜中にこっそり飛ぶんです? 国交も定期空路もあるし、船だって頻繁に行き来してるんだから、堂々と運べばいいのに。積荷は国際問題にならない医療機器だけなんだし……」

 確かに、隊員たちは制服に身を包んではいるが、武装しているようには見えない。そもそも航空機動衛生隊は、武装しないことがほとんどだ。自衛隊機の中だとはいえ、真鍋たちは武器類を一切目にしていなかった。

「それでも、日の丸をつけた自衛隊機ですからね。目立ちたくない事情があるんでしょう」

「事情って……なんか、怖いな……」

 拉致同然と思えるほど唐突に連れてこられた後藤がそう感じるのは、無理もないと思えた。それは、目的地が佐渡ではないと気づいた時からの真鍋の気持ちでもある。

「なんだか、おかしなことが多いですからね……。私も、不安です」

 後藤が、話題を明るくしようとしたのか、唐突に尋ねる。

「真鍋先生のお噂はよく伺っていました。カテーテル治療なら真鍋先生が最高だ、って。心臓の血管治療の専門家だからハートユニットの開発に関わったんでしょう? あれって、今までの医療ユニットとどこが違うんですか?」

「これまでのユニットはご存知で?」

「何度か国外で使うところに立ち会ったことがあります。ほら、インドネシアの津波の後とか。あの時も、これと同じ型の輸送機でユニットを運んでいました。当時も心臓関連ではバルーン入れる程度のカテーテル治療もできるって聞いてはいましたけど、それをグレードアップしたんですか?」

 真鍋は、後藤が言っているのは2006年の国際緊急援助隊のことだと判断した。現場に移動できる〝集中治療室〟の機能も持つ機動衛生ユニットの初仕事であり、実地試験でもあったはずだ。

 患者の移送を安全に行う目的で作られたユニットを、目的外の〝臨時小型病院〟として使用したために積極的に広報はされていない。だが、被災者が集中する地域に常駐して大きな成果を上げたと聞いている。

 機動衛生ユニットは航空自衛隊機動衛生隊――AEMSの切り札として開発された医療システムで、〝空飛ぶICU〟ともいわれる装置だ。

 有事や災害時には多数の傷病者が一斉に発生する。と同時に、その地域の医療機関の診療機能が著しく低下する。特に重篤な患者を受け入れられる医療機関が限定され、搬送距離も長くなる。この長距離を搬送するためには航空機の使用が不可欠で、自衛隊が行う場合には輸送機を利用することになる。しかし航空機は傷病者搬送に不利な点もあり、これを克服するために機動衛生ユニットが発案されたのだ。

 外形はコンテナ型で、横幅2・5メートル、高さ2・4メートル、全長5・1メートルの〝金属の箱〟だ。前面の真ん中にだけ、縦177センチ、横77センチのドアが付いている。ドアにだけ小さな窓があるが、それは防弾効果を持つポリカーボネート製だ。自衛隊の輸送機――C130Hであれば、2機のユニットが搭載できる。

 その中にストレッチャーにもなる主ベッドが1台、取り外しができる簡易ベッドが2台、充分な照明、酸素、電源、医療機器搭載スペースを装備している。さらには、防音、電磁遮蔽性も備え、高性能患者監視モニター、人工呼吸器、採血をその場で分析できる血液ガス分析装置等も搭載している。飛行中でも、一般病院の集中治療室レベルの医療監視と処置が可能になっているのだ。その他にも、経皮的心肺補助装置や大動脈内バルーンパンピングを部外医療機関から持ち込んで対応できるように、100V交流コンセントを装備している。

 だがこれまでの機動衛生ユニットは患者を医療機関に運ぶまでの生命維持を主な任務としていたために、治療自体は最低限しか行えなかった。傷の縫合などの簡単な外科手術は可能でも、当然、心臓や脳の疾病の対処には限界があった。

 しかし自衛隊が求めた〝医療コンテナ〟の完成形は、さらに一歩進んだ〝本格的治療〟を可能とする〝超小型病院〟だった。そして最終的には、導入が決まったオスプレイで運べるまでコンテナを小型化することを目標としていた。それは、東日本大震災での経験から求められた災害派遣の究極の手段であり、万一自衛隊が戦場に赴く時には隊員保護に必要となるツールでもある。

 大震災の被災地では、無理な避難と重すぎる喪失感、そして不自由な環境でのストレスから多くの内科的重症患者が発生し、命を失っていった。その多くは脳と心臓の疾患による。もしもそれらを治療できる機動衛生ユニットが数多く存在し、避難所に運び込むことができたなら、患者の多くは助けられたはずなのだ。

 高度な治療を可能にするユニットが欲しいという要請は、自衛隊と連携を組むことが多い日本DMATに届けられ、数人の開発適任者がリストアップされた。ハートユニット開発には、札幌を中心に実績を重ねる心臓カテーテル治療の第一人者である真鍋が選ばれたのだ。

 真鍋が手がけたハートユニットは、汎用性が高い機動衛生ユニットの機能を心臓関連に特化させたものだ。同時開発で、脳神経外科を扱う『ブレインユニット』と人工透析を行える『透析ユニット』の開発も進行しているが、こちらはハートユニットよりも小型化が困難で計画が遅れているという。

 ハートユニットも、容易に完成したわけではない。

 被災地で外科手術を行えば、術後の管理も難しい。胸を切り開けば手術後数日は急変の恐れがあり、予断を許さない。治癒まで長い時間がかかるし、感染症のリスクも高まる。大規模災害時には多数の患者を同時に治療しなければならない。一人の患者にユニットを長時間占有されるのは好ましくない。そのためにハートユニットでは、心臓カテーテル治療の能力強化が求められた。

 心臓カテーテル治療は、足の付け根の血管などから管を差し入れて、先端に取り付けた治療器具で血管や心臓を内部から治療していく方法だ。代表的なものはステントで、動脈硬化などで詰まった血管の内部をチタン製の網でできた管で広げて血流を回復させる。

 他にも心臓自体の不整脈を引き起こす部分を高周波で焼灼するカテーテルアブレーションや、レーザー治療が広く行われている。カテーテル治療の分野では新たな器具が日々開発され、治療できる心臓疾患も広がっている。体を大きく切り開く必要がない分、回復が早い治療法なのだ。

 真鍋に与えられた役目は、できる限り多種の心臓疾患治療が行えるユニットを構築することだった。もちろん、カテーテルだけでは対処できない疾患も多い。カテーテル治療中であっても、血管閉塞や病変への到達が困難な場合、開胸手術に移行することもある。そんな場合は外科手術も可能にすることも求められていた。

 真鍋には心臓外科医としての経歴もあった。外科治療とカテーテル治療の双方の知識と経験を持つことが、開発担当医の選定の切り札になったと言われていた。 

 およそ3年の時間をかけて、AEMSや医療機器メーカーと共に開発したのがハートユニットだった。特に画期的なのは、手術中に体内の様子をリアルタイムで透視する超小型レントゲン装置だった。大病院の手術室のようにサイズに制限がなければ、従来からある大型機器を持ち込めばいい。しかし空輸することを考えれば、コンテナのサイズを拡大することはできない。重量の制限もあるために、開発が格段に困難になったのだ。

 その壁を破ったのが、一点ものの医療機器開発を得意とする京都の老舗メーカー、ツシマ精機だった。レントゲン装置を支えるフレームやディスプレイをコンテナの外壁と一体化し、スペースの無駄を極限までそぎ落としたのだ。何よりもレントゲン装置自体の方式が従来と根本的に異なり、常識を超えた小型化が実現できたのだった。

 大病院の術中レントゲン装置は、X線を発生する部分とそれを感知するイメージングプレートの二つの部分を1セットとして構成され、それらを半円形の大きく太いフレームでつないでいる。その間に人体を挟むようにして、放射したX線を体内に透過させて得られた画像を解析するのだ。血管造影時はX線を遮断する造影剤を注入し、血管の形や太さを黒くはっきりと映し出す。透過する場所を変えるためには、巨大なフレームごとモーターで駆動しなければならない。結果として装置の小型化を困難にし、巨大な手術室を不可欠にしていた。

 しかし物体にX線を照射すると、透過する成分と同時に、反射する『後方散乱X線』が発生するという性質がある。この後方散乱X線を利用して対象物の内部を〝見る〟非破壊放射線検査技術は、テロ対策や橋梁などの検査に実用化されている。後方散乱X線の利点は、イメージングプレートのようなX線を〝受け取る〟部分が不要なため、片側からの照射だけで対象物を透視できることにある。この装置をトラック1台に積み込めば、コンテナに横付けするだけでその中身を確かめることができるのだ。

 しかしこれまで、後方散乱X線は人体の浅い部分までしか透視することができず、医学的検査には不向きだとされてきた。体の中心に位置する心臓の血管までは、到底〝見られない〟と考えられていたのだ。確かにツシマ精機以外なら、世界中のどの企業もこの画期的な装置は実現できなかっただろう。

 ツシマ精機は精密機器、計測器、医療機器、航空機器の開発力を誇る世界的なメーカーだ。ノーベル賞クラスの研究を行う技術者を社内に複数抱え、実際に受賞した技術者も在籍している。しかも透過X線と後方散乱X線のどちらに関しても、高度なノウハウを膨大に蓄積していた。X線センサーの精度向上、解析装置とスパースモデリング理論を最大限に活用したプログラムによるデータ処理の大幅な高速化、そして各種の情報を組み併せてノイズを除去してコントラストの高い画像を瞬時に描き出す複合技術――それら基本技術の特許をすでに網羅していたのだ。

 ハートユニットの開発要請を受け、全ての知識と技術を統合させて昇華させようとする開発者魂が燃え上がった。後方散乱X線を用いたテロ対策用の手荷物検査レントゲン装置を、血管造影に応用する技術を短時間で確立したのだ。結果、イメージングプレートとその支持部分が不要になった。

 その効果は、装置の小型化だけに留まらなかった。

 装置自体を取り外して移動することができ、ハートユニット内の画像解析コンピュータと無線でつなげることで、外でも自由に透過映像を撮影することが可能になったのだ。

 例えばユニット内で治療を行っている最中に、外で待つ次の患者のレントゲン映像を撮ることができる。その間に手術方針を決めて準備を整えておけば、患者が一斉に押し寄せても効率的に治療が進められる。横たえられた大勢の患者を順番に撮影していくことで、短時間に大量の診断が可能となり、重症患者を順番にレントゲン装置まで運ぶ手間暇も不要となる。

 何よりもイメージングプレートの必要がないために取り扱いが圧倒的に簡素になり、画期的な機動性を実現したのだ。大規模災害の現場でも戦場でも、その有用性は計り知れない。

 しかも大きな手術室を作るスペースの余裕がない一般病院でも、大病院と同じ治療ができる設備を構築できる。ユニットごと設置すれば、離島や過疎地、開発途上国でも高度な手術が行える。ツシマ精機が先鞭をつけた新たな技術は、世界の医療事情を一変させるポテンシャルを秘めていたのだ。

 結果的にハートユニットは、1名の患者を医師、看護師、技師の3人で治療できるコンテナに仕上がった。小さな手術室しか確保できない地方病院でも設置できるという情報を聞きつけて、すでに何件かの引き合いがあったともいう。自衛隊の予算で開発された医療機器の、民間へのスピンオフが始まっているのだ。ある意味、軍から民への技術転換といえる。

 開発に3年以上の時間がかかりはしたが、厚労省への薬事申請や臨床試験期間も考慮すると、この手の機器開発としては異例の速さだった。しかも、それはツシマ精機の次なる事業収入の柱になりうる成果をもたらしていた――。

 と、機体前方に動きが見えた。ハートユニットの横にできた機体の壁との隙間をくぐり抜けるように、航空機動衛生隊指揮官の大越誠一等空佐が現れた。片耳だけを覆うインカム――ヘッドフォンにマイクを付けた機内通信用の機器を装着している。

 その後ろに、誰かが続いている。

 姿を見せたのは、キャリアウーマン風のチャコールグレーのパンツスーツを着た白人女性だ。真鍋には、金髪をショートカットにした女性が30歳前後に見えたが、痩せ型で若々しく見えるのでさらに上の年齢だとも思える。何よりも、そのような女性が自衛隊機に搭乗していることが意外だった。搭乗前には紹介もされていなかったのだ。

 後部に座っていた全員の視線が彼女に集まる。

 大越がエンジン音に負けないように声を張った。まるで、軍事作戦のブリーフィングのような口調だ。

「君たちはもう、目的地が佐渡ではないことに気づいているだろう。行き先を隠した理由は、おいおい分かっていただけると思う。まずは、今回のミッションに欠かせないスタッフを紹介しておく」そして、背後に隠れるようにしていた白人女性を押し出す。「ニーナ・ナボコフ女史だ。通訳として力を貸していただく」

 紹介されたニーナが日本風に頭をさげる。自然なアクセントの日本語で話し始める。声が小さく、エンジン音に負けて聞き取りづらい。

「わたしは通訳のニーナ・ナボコフです。訳あって、今回皆さんに同行することを依頼されました――」

 大越が再び前に出る。真鍋たちの正面まで歩み出て、頭を下げる。

「先生方には何もお知らせできずに申し訳ありませんでした。極秘裏に進めなければならない任務でしたので、ご了承ください」

 言葉は丁寧だが、言い訳にもなっていない。

 真鍋が、不意に湧き上がった腹立ちを抑えながら言った。

「任務って……私たちは自衛官じゃありません! しかも、騙し討ちのように目的地を偽るなんて……何をさせようというんですか⁉ どこに行こうというんですか⁉」

 大越が真鍋と後藤を交互に見る。その目は厳しい。

「国家の命運を左右するミッションなのです。機密保持上の制約で、日本を出るまで内容をお話しするわけにはいきませんでした。お許しください」

「だが私は、民間人だ! 病院の手術スケジュールもぎっしり詰まっている! こんな、拉致同然に――」

 大越が真鍋の言葉を遮る。

「真鍋先生のスケジュールは開けるよう、すでに病院側が対処しています。今回先生が同行することは、DMATも了解済みです」

「だからって……手術を待っているのは、私の患者だ!」

 大越は真鍋の怒声にも動じなかった。

「日本政府――国家安全保障会議からの強い要請ですので」

 まったく予想もしていなかった言葉に、一瞬息を呑む。

「そんな……一体何が起きているんですか……?」

 国家安全保障会議は、日本版NSCともいわれる。総理と官房長官、外務大臣、防衛大臣による『四大臣会合』が中核となって、安全保障上の懸案事項に素早く対処することを目的に創設された。

 真鍋にも、その程度の知識はあった。だが、国家の根幹を成すような組織が、自分に関係があると実感したことなどない。しかもすでにDMATも病院も、真鍋がこの〝任務〟に参加することを前提に動いているという。国の意思が、いつの間にか否応なしに真鍋を取り囲み、締め上げていたのだ。

 何が起こっているのか――

 なぜ自分がこんな場所に連れて来られたのか――

 理解できない事態だった。真鍋は言葉を失ったまま、後藤を見た。

 後藤はじっと足元を見つめているだけだ。驚きも見せていない。観念した――そんな様子だ。後藤も『拉致同然に連れて来られた』と言っていた。こんな事態を予期していたのだろう。

 大越が言った。

「目的地が近づいています。もう、任務の内容をお話ししてもいいでしょう。我々はこれから国外の空港に着陸し、その場で要人を一人搭乗させて日本へ戻ります。その要人は、重度の心臓疾患を患っています。移送の過程で万一の事態が発生しないという保証はありません。絶対に事故を起こしてはならない任務ですから、緊急事態に備えて専門医の同行が不可欠だったのです。ハートユニットを監修していただいた真鍋先生以外に、適任者はいませんでした」

 真鍋は思わず言った。

「そんな……。で、目的地はどこなんです? ウラジオストクですか?」

 通訳として紹介されたニーナは、おそらくロシア人だ。それなら、全てが真鍋の予測に符合する。

 と、大越が耳に装着していたインカムに指を添えた。何か通信が入った様子だ。操縦席からの連絡だろう。

 大越が真鍋を見つめる。

「いま、目的地の領空に入りました。北朝鮮です」

 真鍋がはっとしたように、大越を睨み返す。

「北朝鮮ですって⁉ なぜ⁉ あなたは、私が彼らにどんな思いを抱いているか知っているはずだ!」

 大越は、小さくうなずいた。だが、激しい怒りを露わにする真鍋を睨み返し、視線をそらすことはなかった。

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