第三話 「暁光」①

 三月十五日。その日、張牧は自然と明け方前から目が覚めた。既に旧暦の三月とは言っても、江上では湿気があまりに多く、なかなかに底冷えがする。それに決戦の朝とあっては、相当な神経の持ち主でない限り、呑気に朝日が出るまで寝ていることは難しいであろう。


 張牧は、日の出まえの漠とした薄暗がりの中、机上に呉都・建業の地図を出して、本日の段取りを再点検しておくことにした。まず現在の停泊地、牛渚ぎゅうしょ(安徽省馬鞍山市)から建業(江蘇省南京市)までは、長江沿いに二百里(約80キロ)と言ったところで、川の流れに乗って行けば、四時間もあれば無理せず到着する距離である。


 途中、孫呉の水軍の抵抗があるかもしれないが、大規模な軍事作戦はもう出来ないであろうことは、既に分かっている。実は、三日前の三月十二日には孫呉の中郎将・孔攄こうりょが内通の申し出をしており、その際に、孫呉首脳が国庫を開いて決戦用の水軍を召集しようとしたが、相次ぐ敗北に既に戦意を喪失した兵卒たちは、与えられた財宝を持って逃げ去った、との情報を得ていたからだ。従って、王濬らの目下の眼点は、如何に素早く堅牢な石頭城を無力化し、混乱なく首都全体を制圧するかに有った。


 石頭城は、長江が南北方向から東西方向に流れを変える地点にある建業の北西側にあり、自然の断崖絶壁を利用した山城で、この場所を対岸から渡って攻めるのは極めて困難である。まず難攻不落と言って良いだろう。ただし、その西南角には、運河である秦淮河しんわいがが長江と繋がって波止場となっており、この地を急襲して制圧すれば、逆に秦淮河を通じて建業内部を無数に走る水路の通行を抑える形となる。いわば鎧の内側に潜り込むことになり、これにより建業の防御力はほぼ無力化すると言って良い。


 昨日の軍議では、石頭城を制圧したのち、李毅が率いる巴蜀軍が直ちに南門と東門を占拠、都市中央部の王宮については、王濬と何攀らの巴蜀軍精鋭部隊と馮紞と張牧の豫州軍各五千の混成部隊にて包囲する手筈になっていた。また首都制圧に出撃する各牙門長には、祝義として幾らかの銅銭は持たせるように準備もしてある。こうした金は督軍の役割を担う豫州軍からの資金で捻出されていた。もちろん祝義とは名目上のもので、無益な略奪をおこさせぬ為の配慮である。


 また、石頭城を制圧できれば、早急に対岸にいる揚州軍の王渾、徐州軍の琅邪ろうや王、司馬伷しばちゅうの各友軍に報告しなければならない。また馮紞ふうたんと張牧らの属する豫州軍の本営は、項城こうじょう(現在の河南省項城市)にあり、この地は、巴蜀軍、揚州軍、徐州軍などの今回の征呉の諸軍20万人以上を統括する大都督の賈充と、その副将が鎮する形式上の大本営でもある。項城への直接の報告も優先度は非常に高い。


 一通りの手番の確認が終わると、張牧は気分転換に楼上の居室から甲板へと降りていった。馮紞と張牧の乗る豫州軍の旗艦についても、巴蜀軍から借り受けているものである。そもそも豫州軍が巴蜀軍と合同で建業を目指すことになったのは、今から一ヶ月ほど前の二月十八日(二月、乙亥おついの日)に洛陽朝廷から詔勅があり、急遽、方針が決定されたためである。


 この詔勅は、王濬率いる巴蜀軍が四川から長江を降り、呉の軍事要衝である西陵を初めとして荊州の諸都市をまたたく間に抜いたことに対応するものであった。西陵(現在の宜昌市)は、夷陵とも呼ばれ、三国時代においても晩年の劉備が呉に攻め込んで、孫呉の名将・陸遜に惨敗した「夷陵の戦い」や、近くは西晋の羊祜(ようこ)と、孫呉の陸抗が、孫呉の投降者を巡って争った「西陵の戦い」など時代の動静を大きく左右する重要な戦いの舞台となった場所である。この地は、長江中流域の荊州けいしゅう(現在の湖北省に相当)において、巴蜀との荊州の東西の出入り口に相当し、兵家必争の要衝なのである。


 この西陵を王濬らの大船団は、出発からものの数日で陥落させた。更に王濬らはその後も快進撃を続け、二月十七日には荊州の陸軍を指揮する杜預どよと連動して、西陵の下流に位置する江陵(現在の荊州市)をも陥落させた。相次ぐ捷報しょうほうに洛陽朝廷は歓喜し、また驚倒したであろう。そして、王濬を都督ととく益梁えきりょう諸軍事に昇進させると当時に、大本営の豫州軍から部隊を割いて、次なる戦略目的である武昌(現在の武漢市)を水陸協同して攻略させる詔勅を出した。この時点になって、洛陽朝廷は、巴蜀軍と豫州軍の両軍が合流して一気に建業を目指す方針を最終的に決断したのである。


 これら一連の原動力は、言うまでもなく王濬が率いていた前代未聞の大船団にある。巴蜀の地において、王濬と何攀かはんが数年をかけて製造した巨大な楼船の軍団は、「連舫れんほう」と名付けられていた。一隻あたりの大きさは、「方百二十步(一辺が180メートル程度)」と記載があり、一隻あたり二千人が搭乗することが可能であった。「もやい」とは、複数の船を繋ぎ合わせることであるから、そこに木板を張って、平面を作ったのだろう。その「舫」が更に「連なる」とあるからには、「連舫」と名付けられた船も各々を更に結びつけることで、江上にあたかも陸地を作り出すような芸当もできたのであろう。どれぐらいの数で船団が組まれたのかはつまびらかではないが、最終的には総勢8万人で構成される船団が建業を目指したのであるから、単純計算でも40隻程度はあったのだろう。史書には「船上では軍馬が駆け抜けるほどであった」というから、五隻も繋げれば、総延長は1キロメートル近くにもなる。巴蜀から多数の兵卒が長江を降ったのは史実であるし、あながち中国史にありがちな誇張だとわらって済ますわけにもいくまい。


 張牧がこの連舫の甲板に降りて、長江に並行して南北に走る山並みを眺めていると、不意に後ろから声を掛けられた。王濬の参軍・李毅であった。


「軍司殿、今日は日も登らぬうちから、幾分、早ようにございますな」


 「これは参軍殿、いよいよ決戦かと思うと、目が冴えてしまいまして」


 「はい、それはお互い様にてございますね、まぁ、こうして巨大な楼船から朝日を待つというのも、おもむきがございます。」


 「して、李参軍、如何様な御用件にて、豫州の船まで?」


「いや、軍司殿と今日の手筈について、今一度、確認させて頂きたいと思いまして。」


 張牧は、少々不審に感じつつも、質問には丁寧に応対した。


「なるほど、李参軍は、石頭城制圧ののちは、そのまま東に城門を制圧に向かうのでしたな。既に西方と北方は我が友軍が詰めておりますから、早急に鐘山まで展開すれば、偽帝も逃亡しようとも思いますまい。その際、麾下の各牙門の将軍連には、くれぐれも略奪することなきようお願いしたい。秣陵制圧はおそらくは、数日もあれば事足りますが、その後には、揚州軍に管轄権を引き渡しする必要も予想されましょう。余計ないざこざを避けるためにもその点、改めてお含み置き頂きたい。」


「さすが張軍司、よどみなく応答なさいます。特に揚州軍への引き継ぎは余程気をつけませんとな、気の荒い兵卒同士、それが特に功を焦っておるとなると何が起こるやわかりません故。」


「如何にも」と、張牧は短く答えた。


 束の間の沈黙が流れた。李毅は、意を決した表情で、少々しどろもどろに成りながら切り出した。


「ところで、張軍司、貴殿ら豫州軍の、、何いうか真の目的というのはなんでござろう。我ら同郷のよしみ、同じ巴蜀の人間として特別に教えて頂けぬであろうか?」


「これは異なことをお尋ねなさるな。もちろん、巴蜀軍を援助しつつ、征呉を一刻も早く成し遂げることが、我々の目的にござる。昨日の会議で、馮紞殿が述べた通りであろう。」


 張牧は、そう言いながら自身の言い方が少々非難がましいような色調を帯びてしまったことを少し反省した。昨晩のことで、李毅は王濬からこっ酷くやられたのかもしれないことを張牧は思い出したのだ。


「勅命であるからには、友軍が大功を立てるのを手伝うことは当然のことにござる。我らとしては、巴蜀軍と安東将軍殿の揚州軍との関係が悪くなることは望みませぬが、征呉という大目標のために巴蜀軍が先行することには何の異論もござらん。参軍殿は、相手が太原王氏ということで、龍驤りゅうじょう将軍殿の後々の進退のことを憂慮されておられるのであろうが、心配には及び申さぬ。我ら大本営に属する豫州軍が同意の上のことなれば、この点は大船に乗ったつもりで宜しゅうございます。」


 張牧は、非常に穏やかな表情で一言一言はっきりと伝えた。ところが、李毅の方は少し困惑したような表情で、こう返答したのである。


「軍司殿、お気持ち、お気遣い非常に感謝いたします、我ら巴蜀軍もこれで心置きなく来るべき決戦に挑めるというもの。ただ、吾が知りたいのは、豫州軍の真の目的、もっと言えば、秘めたる意図にござる。」

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