ロンドの草稿 その二 2
「グレウス! グレウスや。いるのでしょう? グレウス」
グレウスは母の声で我に返りました。
「はい! 母上」
大変。大変。あんな昔のことなんか思いだしてたものだから、すっかり外国語の勉強時間に遅れていました。
「入りますよ。グレウス」
「はい! 母上」
大あわてのグレウスの寝室に、母、アルテミナが入ってきました。姉たちより、さらにグレウスにそっくりな顔の母です。
母はいつものように、グレウスを金縛りにしてしまう蛇の目で見つめてきました。
「お勉強の時間が始まっていますよ。グレウス」
「はい。母上」
「なぜ、行かないのです」
「はい……」
母上、と言いかけて、グレウスは言葉をのみこみました。
いけない。いけない。ちゃんと答えなければ、また、この人は発作を起こしてしまう。落ちつけ。グレウス。落ちつくんだ。
「それは……その、今から行くところだったのです。ちょっと調べものをしていて」
ピカリと母の目が光りました。
「調べもの?」
「はい。いえ……あの」
母の機嫌のいいときは、これでゆるしてくれるのですが……。
ドキドキしながら、グレウスが母の顔を見守っていると、母自身も今日はこのくらいにしておくか、それとももっと続けるか、自分のなかの悪魔と戦っているようでした。
そして次に母が口をひらいたとき、悪魔に負けたのだと、グレウスは悟りました。
「はっきり言いなさい。嘘をついたのでなければ、すぐに答えられるはずです」
「さ……さっき習った、歴史のことで……」
「歴史のどこです?」
「はい……それは、ええと……」
「ご本はどこです? 調べものをしていたのなら、ご本を持っているでしょう? 見せてごらんなさい」
母の顔に勝ち誇ったような薄ら笑いがこびりついています。
グレウスはさきほど授業で使った本をさしだそうとしました。が、それはどこにも見つかりませんでした。
「あなたの歴史のご本なら、ここにありますよ」
母が
「さきほど廊下でひろったのです」
オスカーとケンカをしたときに、なげだしてきたのでした。
母はふるえているグレウスの上に、のしかかるようにして、水色の目を光らせました。
「グレウスや」
「は……はい」
「嘘をつきましたね」
「…………」
「答えなさい」
グレウスには答えられません。
すると、母の声の調子が、かんだかくなってきました。
「この母に嘘をつきましたね? あなたという子は、なんて悪い子! お母さまに嘘をつくなんて!」
母の手が乱暴に、グレウスを床にひき倒します。
グレウスはただされるままになっていました。抵抗するとお仕置きがひどくなるばかりだし、それに、こういうときの母は女とは思えない力を出すのです。
母は倒れたグレウスを、めったやたらとなぐりつけました。ぶあつい革張りの歴史の本で胸と言わず背中と言わず。
母は決して、グレウスの顔は叩きません。人目のふれるところには傷をつけないのです。
「この悪い子! 悪い子!」
半刻ばかりも続いたでしょうか。
グレウスがグッタリして動かなくなると、母の気持ちは落ちついたようでした。呼吸をととのえて、グレウスを見つめていましたが、急に泣きだして抱きしめます。
「グレウス。わたしの可愛い坊や」
母の涙がグレウスの頬に、なまぬるくこぼれおちてきました。
「ゆるしてね。坊や。こんなことをするのも、あなたのためよ。あなたにはドラマーレ家の立派な当主になってもらわなければならないの。お母さまだって、つらいのよ」
母は気分が昂ると、自分でもどうにもしようがなくなるのです。悪魔の子を見つけたように、グレウスをなぐりつける母も、こうして涙を流して抱きしめてくれる母も、どちらも偽りのない彼女の本心なのです。
「さあ、グレウスや。お母さまをゆるしてくれると言っておくれ。そして、もう二度と嘘などつかないと約束しておくれ」
「はい。お母さま」
母を恐れ嫌悪してはいましたが、グレウスは彼女を憎んではいませんでした。なぜなら、母もドラマーレ家の古い血筋の犠牲者にすぎないからです。
「愛しています。お母さま」
「わたしの可愛い坊や」
母はさきほど、なぐった数と同じほど、たくさんのキスをグレウスにしてくれました。
グレウスがもっと幼いころには、母もこれほどではありませんでした。少し怒りっぽくはありましたが、それはまだ愛すべき欠点の範囲でした。
いつごろから、こんなになったのでしょう。
年々、母の病気はひどくなってきます。次に発作を起こしたら、そのまま、母はもとに戻らないのではないか、そう思うことが、グレウスには恐怖でした。
(お母さま。ぼくが小さなころは、あなたの胸のなかで眠りましたね。あなたはよく笑って、ぼくのためにたくさん歌ってくれた。子猫のように、ぼくを可愛がってくれた。ぼくの髪をなでる、あなたの手が好きでした)
かわいそうなお母さま。
グレウスは母の頬にキスをしました。
そういうとき、ほんの短いあいだですが、母は昔の優しかったころの母に戻り、微笑んでくれます。
「さあ、お勉強に行ってらっしゃい。わたしのグレウス」
「はい。母上」
勉強室へ行くと、グラノア語の教師とオスカーは、すでに授業を始めています。
部屋に入ってきたグレウスを見て、オスカーはなんだか言いたそうにしましたが、グレウスは知らんぷりしました。
(おまえのせいで、いらない争いをして、母上の心を傷つけてしまった。もし母上があのまま正気に戻らなかったら、おまえを殺してやるところだ)
グレウスに悩みはつきませんでした。まだ十二歳にすぎない少年がかかえるには、あまりにも重すぎる悩みが。
彼は生まれたときから、この運命と戦っていたのです。
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