2021/12/25

Night24:夜と海辺のロレム・イプサム

「ああ、なるほど」

 夜嘴さんの表情が、すとんと抜け落ちた。

 期待外れのクリスマスプレゼントを貰った子供みたいだった。

「つまりきみ、水泳女に消された記憶を思い出したわけだ。案外早かったね」

 煙草が運河に落ちる。火の消える音がして、夜嘴さんのおもては闇に包まれた。

「それで? 私が自分に嘘をついている、と?」

「そうです。貴女は、おれに殺されそうになったとき喜んでいました」


 おれは先輩に『取り除かれて』いた記憶を、すべて取り戻した。

 あの全てを壊す力だって、今ならきっともう一度振るうことができる。

 先輩の記憶の中で、夜嘴さんはあのとき、おれに何度も殺されて――わずかに唇を曲げて、喜んでいた。思い返せば彼女はこれまでも時おり、おれに対してそういう歓喜に打ち震えた表情を見せることがあった。


「夜嘴さんがおれに執着するのは、おれが“正義の味方”だからじゃない。あなたもおれと同じだ。弟が死んだ時に人生の形が全部決まって、自分のことがどうでもよくなったんだ――だから、自分の嘘にも気付けない」


 夜嘴さんは、自身の〈代数能力アルゼブラ〉が弟と永遠の時間を過ごすためのものだと語った。それ自体は、少なくともある時点までは真実だったのだろう。

 彼女の弟が死んだその時までは。


「欲望を失えば、能力も失う。それが『記述迷路コールド』の原理ですよね。そして、『記述迷路』を設計したのは夜嘴さんだった。だから、単純な答えです」

 そう。代数能力者同士の大規模な戦いはほとんど存在しないにも関わらず、なぜ夜嘴さんはあそこまで明確なロレム・イプサムの収容の手順を知悉していたのか。

「貴方は一度、能力を失って――そして、再び『巻き戻し』を取り戻したんだ。“永遠に自らを罰して欲しい”という、行き場のない欲望によって」


 これまで戦ってきた〈代数能力〉に、『摸倣』や『無効化』は存在しなかった。

 当然だ。何故なら、〈代数能力〉を発現する鍵が欲望である以上、超能力を『摸倣』したり『無効化』したりするという欲望を抱くには――逆説的に、〈超能力〉そのものを知っている必要がある。だが同時に、〈代数能力〉もまた欲望を叶えるために発現されるという矛盾が存在する以上、ほとんどの人間は『無効化』や『能力の摸倣』を発現し得ない。

 だが、夜嘴さんが過去に能力を失ったのだとすれば、話は別だ。


 ■■■■


『巻き戻し』という力を持ちながら、なぜ弟を助けられなかったのか。

 彼を得意げにからかい、瀟洒で衒学じみた言い回しで煙に巻いて。

 いくら時間を巻き戻しても、あの日々にもう戻ることができないなら。

 いっそのこと、この役立たずの時計で、自分自身を罰し続けて――


 ■■■■


 卵が先か鶏が先かという問題に対するパラドックスへの最も単純な回答は、

『鶏と卵が同時に生まれた』という暴論だ。

 彼女のあたらしい欲望は、彼女の旧い欲望を粉々に壊し、そして新しい〈代数能力〉を彼女に与えた。

『過去の自身の〈代数能力〉を模倣する』という〈代数能力〉を。


「そして――その能力の『条件』は、


 当然だ。罰を自分から望み与えられるのならば、それは既に罰ではない。

 最も叶えたかった欲望を失ったことさえも知らずに、かつての自分を演じ続けるということ。どれだけ得意げに舞台で踊ろうとも、自分が長靴を履いた猫ではなく、不格好なブリキの人形だということを忘れているのならば、それはどれほど深くおぞましい罰なのだろうか。

 記憶とは、感情と認識の総体だ。

 例えそのような望みを抱いたとしても、自身を客観視できなければ認識することはできない。そう――


 静かに涙を流す夜嘴さんは、行き場を無くした猫のようだった。

 彼女はたぶん、夜なんてもうちっとも好きではなかったのだろう。

 夜に生きたところで、自分自身まで他の何かに生まれ変われるわけではない。

 街は闇以外の何の姿も映さず、ただ静かに佇むだけだ。

 

 夜嘴さんはきっと、全てを失い眠れなくなったおれと同じで、朝が怖いから夜に逃げていた。おれたちは互いに大人になり損ね、自分の人生を飾り立てて孤独を紛らわす子供だった。一方は他人の願いで、もう一方はかつての自分で。


 でも、おれはそれでよかった。

 だって――これまでの人生は、悪いことばかりではなかったからだ。

 おれは、先輩と出会うことができた。

 最初は他人の願いだとしても、動き続ければ本物になることだってある。

 先輩がおれという錆びた船の帆を推してくれたように。


 もちろん、思考を放棄してはいけない。

 だけどそこだけに目を囚われれば、現実の朝を捨てて夜に生きざるを得なくなる。だから――この世界を、夜の海を泳ぐには、考えすぎない方が良い。


「貴女はずっと、『巻き戻し』の自分を殺してくれる怪獣を無意識に探してたんでしょう。おれに目をつけたのは、おれだけがその資質を持っていたから」


 佐備沼さんは確かに“正義の味方”ではあるが、東京湾を沈めるような規模の〈代数能力〉を持つ“怪獣”にはならない。

 あの人は、自分の願いも心も持っている。

 おれのような、人の願いだけで動く自動的ななり損ないではない。

 

 だから、夜嘴さんが無記課に籍を置いていたのも、おれを危険から遠ざけて頑なに自分の傍に置こうとしたのも、全部――恐らくは無意識に探していたからだ。

 自分を罰してくれる、たった一人。


 夜と海辺のロレム・イプサムを。


「……それが。それで、ここに夜遊びしに来たわけだ。航くんは……うふふ! デートだと思った私が……バカみたいじゃないか。なあ」

 くつ、くつ、としゃくり上げるような、嗚咽交じりの笑いが聞こえる。

 彼女の夜色の髪が、ぐしゃりと搔き上げられた。

「じゃあきみが、私を殺してくれるのか? あの日みたいにもう一度、全部を壊す怪獣になってくれるっていうのか!?」

 夜嘴さんは、懐から銃を抜き放っておれに向けた。

「いいかい。きみは……きみは、私を暴いてなんかいない。私を理解してなんかいない。他人と他人が解り合うことは、できない」

「そうですね。でも」

 おれは、ちらりと舌を出す。

「解ろうとすることは出来る」


 l■rm ■■sum do■ar si■ amet.


 おれの舌には、ロレム・イプサムの書字が刻まれている。


「先ほどの推論はおれが夜嘴さんの記憶を――先輩の〈代数能力〉で覗いて、その上でおれの憶測を付け足したものですが」


 記憶とは感情と認識の総体だ。

 そして、感情と認識――つまり、『欲望』もまた、記憶の一種であり。

 そして、先輩が先輩自身の記憶がおれに与えてくれた。

 だから。


「おれは今、先輩の欲望を“借りて”いる」


『記憶整除』。先輩の〈代数能力〉。


「夜嘴さん。『巻き戻し』は使えますか」

「……何が言いたい?」

「弟さんのことを、思い出せるかと聞いています。貴女の欲望の根源を」


 その能力の「条件」は、対象への有効な質問。

 そして――おれはウッドデッキに来た最初に、夜嘴さんに尋ねた。


 ――『夜嘴さんの弟さんって、どういう人だったんですか』


 瞳の奥から、海の音が聞こえている。

 夜嘴さんが目を見開き、視線を彷徨わせた。あるはずのない虚空に向かって、何かを手繰り寄せるように、形のいい唇を震わせ……


「返せッ!」


 轟音が響いた。同時=腿に強烈な熱。

 撃たれたと理解したときには、既に右脚から力が抜け落ちている。

 まだ倒れるわけには行かない。伝えたい言葉がある。

 足を踏ん張る。骨を砕くような痛みがおれを襲った。

 当たり前だ。能力も使っていないのに銃弾を避けられるわけがない。

『硬度操作』を起動することは不可能だ。おれはいま、先輩の記憶から最も強い欲望を“借りて“いる。少しでも欲望のバランスを崩せば、この均衡は崩れ、彼女は再び自身の記憶を取り戻すだろう。


「夜嘴さん。おれ、やっとわかったんです。なんで夜嘴さんに、報いを受けさせたいって思ったのか……」

「頼む、口を閉じろよ……! きみは、私のものになってくれたんだろ!?」

 続けて二発。左脛と腕に着弾し、突き飛ばされたようにおれは転倒する。

 腕の筋肉で無理矢理状態を起こし、這うように歩みを進める。

 彼女に向かう航路を、少しずつ。

 彼女に、報いを受けさせるために。


「だって貴女は、罰を望んでた」


 そう。簡単なことだ。

 夜嘴さんは、罰を望んでいた。心から。

 似た者同士だから、最初から、おれは何となくその気持ちを理解できたのだ。

 母が死んで、人生の形が決まってしまった時のおれもそうだった。

 誰にとっても光は必要だ。彼女の場合は、ただ自分を罰する存在だけが。

 でもおれと違って夜嘴さんに先輩のような存在はいない。

 だから、いずれ壊れてしまう。

 そうなる前に、おれが何とか助けたかった。

 彼女のことを壊したくなかった。大切だから。

 だってあんなに酷いことをされて、沢山の人が死んだのに、

 海嶋先輩がくれた海も、夜嘴さんのくれた夜も、

 おれは未だに砕くことができない。


「その夜だけは、本物だった。おれの欲望はもう、借り物じゃない」


 粘ついた、暖かく生っぽい、潮のような血が流れている。

 おれの中にも彼女たちの中にもその血潮は流れていて、おれたち人間である限り、何かを望まずに生きることはできない。


「非道い……非道いじゃないか、航くん、私を、この私を、こんな、こうならないために、誰かに私の怪獣を取られないように、私のものだって傷を付けたのにさ……」


 夜嘴さんは幽鬼のような足取りで、おれの傍に崩れ込む。

 恐る恐る、おれに手を伸ばして、おれの手を握り、おれの背中をなぞる。

 彼女が煙草で刻み込んだ、おれへの傷跡を探すように。


「ふざけやがって。私がきみのことを愛しているってわかれよ。きみがいなければ駄目になる、つまらない女に成り下がったってわかれよ! 航くんのお陰で、折角また、夜が楽しくなってきたと思ったのに……ここで、きみを失うことが……私への罰なのか?」

「……いえ」

 おれは、夜嘴さんの頬を包み込んだ。

「逆です。おれが、夜嘴さんを失うんです」

「イヤだね。そんなのはごめんだ。きみを殺して私も死ぬ」

「良い結末ですね。でもそれは、罰じゃない」

「喧しい。きみが好きなんだ」

「ありがとうございます。知ってます」

「お願いだ。そばにいてくれ。きみのこと、玩具になんてしないから……」

 夜嘴さんは、もう、化粧が崩れるのも構わずに泣きじゃくっている。

 おれは血に濡れた手で、彼女の顔をそっと拭ってあげた。

「すみません……他に好きな人が居るんです。でも、」

 そのまま、ぎゅうと抱き締める。

「どんなに砕けても、忘れません。貴女が大切なこと」


 だから、それが罰だった。

 夜嘴さんは叫び声をあげ、おれを突き飛ばす。

 そのままおれの頭に銃を突きつけ、ごりという鉄の感触が額にさわり、

 そしてついに、引き鉄に指が掛けられた瞬間――


「待ってたぜ」


 おれの口元からは自然と笑みがこぼれていた。

 先輩の『保険』は二つあった。

 一つは、おれが先輩の〈代数能力〉を引き継いだことによる奇襲。

 そしてもう一つは、尾武が十月に先輩と会話していたこと。


 ――ともかく世間話してたんだけどさ、様子がちょっと変なんだ。

 ――色々お前のことについて聞いて来るんだよな。

 ――口許やたら抑えててさ、絶対笑ってたぜアレ。

 ――『アンタになら航くんのこと任せられるかも』って、ぼそっと呟いてさ。

 ――十月の十二日。スタバの新作の発売日だから覚えてる。


 尾武が先輩と最後に話したのは、十月十二日。

 先輩が失踪した日、つまり先輩が死んだ日は、十一月一日。

 つまり尾武に先輩の『記憶整除』が掛けられているなら、

 あいつが全部の記憶を取り戻すのは、おれより約二週間――つまり、夜嘴さんが水族館で無記課を皆殺しにした十二月五日付近になる。

 そして、あいつがあの時、全ての真相をおれより早く理解していたなら――


『状況を理解してるかい。大体きみ、有動くんの何なのさ』

『……


 あのとき、尾武はおれの方を見て、自分のことを重石と宣った。

 だが、あいつは常に、おれの親友を自称する。

 重石という言い方は尾武嵐に限ってはあり得ない。

 ……しかし同時に、重石は綱の切れた船を係留する錨の役割を果たす。

 だからその時まで『俺に構うな』。

 俺からの長いパスを、お前が受け取れ。

 そしたらお前がゴールを決めろ――


「――俺の、親友にッ」

 暗闇に、〈代数能力〉の閃光が疾走する。

『高速移動』。どんなディフェンスも抜き去る尾武嵐の影が。


 Temporibus  ▶▶ autem ▶▶  quibusdam ▶▶  et aut ▶▶  officiis debitis aut ▶▶  rerum ▶▶  necessitatibus ▶▶  saepe eveniet――


 夜嘴さんの背後を書字が切り裂き、次の瞬間には、見慣れたバッシュが夜嘴さんの持った銃を蹴り飛ばしている。

「航!」


 急停止した尾武は撃たれたおれをみとめて叫んだ。

 夜嘴さんは、反射的に飛び込んできた尾武に手をかざすが、

 彼女の〈代数能力〉はおれが封じている。

 そして、その一瞬。意識に空隙ができる――


「夜嘴さん」


 夜嘴さんの動きが止まる。

 彼女がおれのことを愛しているなら。

 おれの言葉を聞いてくれるなら。


「夜は楽しかったですか?」


 おれの最後のことばが、通電する。


 ■■■■


 瞳の奥から、水の音が聞こえた。

 彼女の記憶のなかの、深い夜の海。

 その中で、おれの記憶が占める『海域』は驚くほど広い。

 二人の記憶ひとつひとつを、おれは丹念に壊していく。

 もう二度と思い出せないように。

 彼女を覆って来た、見えない水槽を砕くように。


「おやすみなさい、夜嘴さん」


 夜が来ればまた朝が来る。当たり前のことを思い出してもらう。

 それが彼女への罰だ。


 ■■■■


 気付けば、夜嘴さんは倒れていた。

「……尾武。ありがとう、助かった」

 おれは自分の傷口を『硬化』させながら礼を言う。

 さいわい、太い血管を傷つけられることはなかった。

 この分ならあとで病院に行けば大丈夫だろう、などと思っていると――

「てめえ」

 尾武はサングラスを投げ捨て、おれの胸倉を引っ掴んだ。

 そのまま拳を振り上げ、

「この……クソ莫迦野郎!」

 おれの顔面を打擲する。

 おれは抵抗しなかった。ただ尾武の拳のままに打たれた。

「先輩からの話、全部思い出したぞ! あんな大変なことになってるなら、何で言わなかった!? 俺がお前に追いつけないとでも思ってたのか!?」

 しだいに、尾武の拳の勢いは弱まっていった――というよりそもそも、最初から全く痛痒を感じない威力だった。

 ようやく奴が落ち着いたので、おれは口を開く。

「……追いついてるも、なにも。考えが変わった」

「はあ?」

「前は、尾武はおれのことを追い越して、一周回っておれの後ろにいるんだって思ってたけど――お前さ、最初からずっとおれの隣にいるよ」

「なんだよ、そりゃ」

「なあ、尾武」

 おれは尋ねた。

「おれってお前の何?」

「はあ? そりゃ親友だろ」

「そっか」

「っつか、舐めたこと行ってね~で病院行くぞ」

「待って欲しい。その前に」

 おれはふらつきながら、夜嘴さんの身体を持ち上げて、公園のベンチに寝かせた。その上からブルゾンジャケットでくるんで、ポケットに使い捨てカイロも入れておいた。

「……マジ? 夜嘴だぞ?」

「夜嘴さんとは関わり合いになりたくない?」 

「はあ!? 当たり前だろ。二度とごめんだね」

「そっか。でも、おれは別に凍死して欲しいわけじゃないからな」

 夜嘴さんは、もう罰は受けた。

 おれの記憶と一緒に死ぬことは彼女にとって救いにならない――これからの人生は幾度となくあったはずの欲望に悶え、喪失に苦しみ、人間として当たり前の哀しみを味わうだろう。それに耐えられるかどうかは、知らない。

「お前さ、俺なんかメじゃない女誑しになりそうな気がするわ」

「どうだろう。女の人は、当分付き合う気にはなれないかな」

「何だよ。合コン開いてやろうと思ったのに」

 尾武は笑った。そして数歩歩き、後ろを向いて歩みを止める。

「肩貸すわ。病院行ったら何か食い行こうぜ」

 尾武はもう、おれより先に歩いている。


 ……だから、大丈夫だ。こいつは要領がいいし、友達も沢山いる。

「ねえ、尾武」

「ん? 何だよ航」


 きっと、おれが居なくても大丈夫だ。



 l■rm ■■sum do■ar si■ amet.

 口許を抑え、あいつが追いついてこないように、密かに呟く。


 ――そして尾武嵐はおれの親友から、おれの親友になった。

 おれは尾武と反対方向を向き、そして傷を引きずりながら歩き出す。

 夜明けはまだ遠い。


 ====


 結局尾武は夢の島に置き去りにしてしまったが、心配いらないだろう。

 たぶん、しばらくして目覚めたら、あいつは普通に家に帰って、おれの名前は忘れているだろう。おれの記憶を『取り除く』ついでに夜嘴さんのことも忘れさせたから、ベンチで横たわる彼女のことも歌舞伎町なんかによくいる酔っ払いの一人だと思って気にも留めないはずだ。

 実際のところ、今回の一件で尾武は死に掛けた。

 だからもう、あいつとは関わらない。お別れだ。

 だって、おれのやることは変わらない。

 ゆめのしま海の駅付近の街路樹にもたれ掛かり、おれは呟いた。


「居ますよね。音籾ねもみさん」

「――何だい坊主。気付いてやがったのか」

 しわがれた音が、凭れた樹の裏側から響く。

「はい。夜嘴さん相手に逃げ切った人が、おれの動向を監視してないわけがないと思っていたので」

「はん。だとして、こんな老いぼれに何の用だい」

「貴方たちの『上』に接触できますか?」

「……」

 音籾さんの返答が止まったので、おれは素早く続けた。

「単刀直入に言うと、おれが無記課の代わりになります。自身の能力を以て治安機構の代わりになると『上』に掛け合っていた夜嘴さんをおれが無力化した以上、彼らはおれの話に耳を傾ける可能性が高い」

 そうだ。全て、おれから始まって、おれから終わったことだ。

「これは憶測ですが、夜嘴さんは今回の事態を強行する時に――きっとおれの存在を、ロレム・イプサムの危険性の証明にしたんでしょうし」

「待ちな。アンタ一人で無記課の代わりにでもなる気かい」

「少なくとも、出来る限りは頑張ってみます」


 夜嘴さんはもう能力を使えない。

 そして、無記課は壊滅した。

 なら、誰かが代わりにやらなければならない。

「佐備沼さんみたいな人は。もっと長く生きるべきでした」

 おれは自分のポケットを探り、夜嘴さんから貰った煙草を取り出した。

 Lorem ipsum――指先を『硬化』し、摩擦によって火花を起こす。

 煙草の火が、朝方の空気にぼうと点く。

「もう、“正義の味方”なんてものはおれだけでいい」

 音籾さんのため息が聞こえる。

「……無記課は禁煙さね」

「この一本だけなので」

「……」

「あと、すみません。夜嘴さんの家に熱帯魚がいると思うので、おれの家に運んでおいてくれませんか? 人ごととは思えないんです」

 ち、と舌打ちが聞こえたが、そのあとで軋むような笑い声が響く。

「何でもかんでも抱え込んでやるなら、せいぜい長生きしな」

 音籾さんの言うことも最もだった。魚に『記憶整除』は通じない。

 おれもつられて少しだけ笑った。

 そして、気がつくと――かさりと物音がして、背後の気配はもうなくなっていた。

 代わりにおれの左手は、いつの間にか小さな紙片が握り込んでいる。

 開くと、どこかの住所が書いてあった。

 おれは紙片をしまい込み、ゆっくりと煙草を吸う。

 やり方はl嘴emんを見ていたからよく解っていた――


「ああ」

 おれは自分のスマートフォンを起動して、カメラロールを覗く。

 先輩の写真の他にも、何枚か、


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 きっとその人に、大切なものを沢山貰った。それさえ分かっていればよかった。

 おれはこれからも、多くのものを失うだろう。

 先輩が残してくれた『先輩』の記憶も、もうところどころ虫食いだ。

 やがてまた、彼女のことも思い出せなくなるはずだ。


 それでも――おれは、『記憶整除』を使い続けられている。

 そうだ。全部の繋がりを壊して、そして先輩の欲望を理解できた。

 周りを傷つけないために、一人になりたいという欲望。

 周りを守るために、全てを壊させたくないという欲望。

 たぶん一時的におれの中に混在した二つの人格が、おれの欲望を分離して並立させたのだ。そしてその傷跡だけは、そのままおれの脳に刻まれた。

 厳密には違うだろうが、仮面ペルソナというやつかもしれない。


 よかった、と思った。

 自分の価値を証明したいわけじゃない。ただ、体が自然に動いてしまう。

 世界に代入したくてたまらないほどに、おれの欲望は真正のものだった。

 それを心から誇らしく思える。ただ一人の”正義の味方”であることを。

 人を助けることは、きっと悪いことではない。


 この願いだけは本物だ。全ての繋がりが砕けても。

 みんながくれたものは、おれの中で砕けない化石になった。

 この航路は、これからの夜は、おれ自身が漕ぎ出すと決めたものだ。

 夜の海を泳ぐなら、考えすぎない方が良い。


 おれは誰かから貰った煙草を、一口に呑み込んだ。

 熱い。最低の味わいが口の中に広がる。

 目元からの滲みと共に、傷跡のようにその味を舌に刻み付け、おれは振り返った。 

 遠く響くアナウンスが、始発列車の到着を告げている。


 目じりを拭うと、涙はもう乾いていた。

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