Night14:猛るポリプテルス①

 閉館した水族館の中は薄暗く、しかしアクアリウムの青さが闇のへりを幽玄に濡らしていた。まるで人間を収容する深海のようだとおれは思う。事実、空に彫刻されたこの深海こそが、〈舞踏会ワルツ〉との最後の踊り場になる。

 お互いに後がないことを理解しているからだ。


〈舞踏会〉は派手に動き過ぎたし、上級構成員も歯の抜けた櫛のように欠けつつある。一方、公安無記課も〈舞踏会〉を決定的に叩くには至っていないし、彼らのボスの詳細は未だ不明だ。だが、膠着状態に陥れば、決定的に不利なのは後ろ盾のない〈舞踏会〉なのはあちらも理解しているだろう。だからこそ見え透いた罠でも乗るしかないし、ほとんどの戦力を集中させてくるはずだ。


 だがいくら〈舞踏会〉がおれを追っているとしても、彼らが開き直り、民間人を狙うゲリラ活動に徹されたら戦略的には無記課の敗北だ。おれだって先輩を探すどころの話ではなくなってしまう。よって、おれたちは音籾さんの提案で〈舞踏会〉を水族館に引きずり出すための“保険”を用意していた。


 手錠を掛けられたまま、三十絡みの男性が陰鬱な表情を浮かべて暗がりから歩み出る。『光を折り紙に変える能力』――〈舞踏会〉の上級構成員、折口標(おりぐちしるべ)。

 彼を人質として、〈舞踏会〉と交渉する。少なくともそういう口実を作る。

 折口さんの端末の『Promプロム』と呼ばれる連絡用のメッセージアプリは、彼が逮捕された時点で既にアカウントが〈舞踏会〉側から凍結されていたようだが、アプリケーションの基礎構造を解析して送信専用の疑似ソフトウェアを作ることは可能だったらしい。


「本当に、この作戦に協力すれば、妻の病を治療するのか」

 折口さんは静かな口調で夜嘴さんに尋ねる。

 端からこの交渉は罠だ。お互いに存在を知覚していて、それでもなお踏み込まざるを得ない罠。夜嘴さんはその構図を象徴するように、演技がかった口調で折口さんに笑いかけた。


「もちろんだとも。『記述迷路コールド』に入っただろう? 能力も凍結されているきみには、人質としての価値しかないのさ。当然〈舞踏会〉の大半は知り得ない事実だろうから、彼らは折口くんと合流して無記課に一矢報いてやろうと考えるはずだ」

「……そうだな。お前の言う通りだ。俺はあいつの癌が治せりゃ良いと思っていたが、」

 折口は静かに頷いた。

 だが、この場の誰もが知っている。結婚指輪を嵌める彼に、

 重度の皮膚癌で既に死亡しているからだ。無記課の調査によると、抗がん剤治療によって変視症や視力低下を発症していたため、最後には折口さんの顔すらほとんど見えなかったらしい。

 その時期を境として、彼は〈代数能力アルゼブラ〉に目覚めた。

 『光を折り紙にする力』――妻の失った光を手触りとして残す力だ。

 そして、彼の力の「条件」は恐らく。



 夜嘴さんはやれやれといった具合に肩を竦める。

 因果関係の歪曲。認識能力の欠如。

『記述迷路』に閉じ込められた時点で、彼の精神はすでに破綻していた。

 妻が死んだ事実と、妻が生きているという妄想を矛盾なく同時に受け入れ、狂気に陥ることもできずに夢想と現実の狭間を彷徨い続ける。とっくに限界だったのだ。それが彼の無記名の欲望の果てだった。


 壊れている、と思う。

 もちろん〈舞踏会〉は正しくない。彼は彼の責任において能力を用い、然るべき罰を受けただけだ。だが、その道理と、おれがこの結末を許容できるかは別だった。

 折口さんはおれに関わった。手の届く場所にいた。

 だから壊れて欲しくなかったのだ。

 おれに今から出来ることは何だろう?


 闇を踏みしめる、擦れた靴音が居心地悪そうに響く。

 おれと夜嘴さんは音のほうへ振り返った。

 七人ほどの集団が、いつの間にかフロアの入り口、エントランスホール付近に立っている。その内の一人は、背格好からしておれが最初に新宿の喫煙所で撃退した『暗闇を移植する』代数能力を有する男――蔵内保くらうちたもつだろう。

 あの時はあまり顔が見えなかったが、こうして間近で観察すると、猪首頭で鋭い眼光を備えた六十代程の精悍な老人だと言うことがわかる。

 そして脱走した蔵内さんが前面に出て来ているということは、あまり考えたくはないが、交渉の余地はなさそうだった。万引きを謝りにくるときに盗品を見せびらかすような奴は居ないからだ。

 それに、こいつらは顔を隠していない。

 本気だ。

 本気でおれたち全員を相手取るつもりでいる。


 近くには佐備沼さんと音籾さん――それに尾武が潜んで、彼らとの交戦を待っている。全員の耳には無記課の人のくれた骨伝導イヤホンがはまっている。その上無記課の人たちは銃まで持ち出していた。M360PJ。警察官だった父さんの拳銃はM360の調整モデルサクラだと教わったことがあるから、恐らく通常の火器とは規格が違うのだろう。

 正直こういう局面になってしまった以上、尾武にはあまりついて来て欲しくなかったが、あいつは多分意地でも帰らない。これから人を暴力で叩きのめすというのに都合のいい願いだが、誰も壊れることなく終わればいいと思う。


 人影はスロープを伝い、葬列じみてこちらへ静かに歩いてくる。彼らをみとめた夜嘴さんが、場慣れした実演家のようにその美しい唇を開いた。


「やあやあ、〈舞踏会〉の諸君、お早う、今晩は、そしてお休み。ということで水族館に雁首揃えてお集まりだね――いちおう断っておくけど、きみら本当に人質交換する気ある? 悪いけど無駄な腹のさぐり合いにはあんまり興味ないんだ」

 闇に緊と通る声に、蔵内さんは鋭い目線を寄越して返す。そして口を開いた。


「オウ、嬢ちゃん。あんた恥ずかしくねぇのか」

「何が? 私は国家公務員だぞ。福利厚生も最高なんだ、舐めた口利きやがって」

「……そう言うことじゃなくてだな」

 蔵内さんはごま塩の髭をさすって、夜嘴さんを諭すようにつぶやいた。

「儂らの力は世のために役立てるべきモンじゃねえのか、と聞いているんだ」

 短い言葉だったが、蔵内の口調は鋭く打ち込まれる楔のような質感を伴っていた。

 折口さんもそうだったが、〈舞踏会〉の奴らの言動はどうも妙な所で現実的というか、釣り合いをとろうとしている部分があるようにも思える。    

 しかし、

「おいおい、この期に及んで義士気取りかい? 呆けが早いなァ。残念ながらきみたちの主張は人を殺めまたは害した時点で正当性を喪失しているんだよこの間抜け」


 夜嘴さんは煙草を深く蒸かしてから、にべもなく蔵内さんの言い分を一蹴した。

海嶋円果みしままどかは、何処だ? 〈舞踏会〉は何を目的にしている?」

「悪いが海嶋円果はボスが処理した。これ以上交渉を長引かせる道理もねえだろう? 儂らの目的は......そうさな、答えれば嬢ちゃんは儂らに力を貸してくれるのかい」

「いや」

 夜嘴さんはちらりとおれを見た。

「ただの確認さ」

 そう言って彼女はコートの埋から何かを取り出す。それは見慣れたピースの箱ではなく、M360PJ――鈍黒くひかる拳銃だった。


蔵内保くらうちたもつ62歳職業不定ヤクザ、並びにその共同犯に告ぐ。きみたちには誘拐・殺人・器物損壊、違法電子取引に凶器準備集合罪、その他諸々余罪十八件の容疑が掛けられている。所定の手続きは略式で失礼、悪いが連行させて貰う」

 夜嘴さんの宣戦は簡潔だった。

 対する蔵内さんは静かに身を落とし、片手を掲げる。

老板親分

ヅォン把剑给我刀寄越しな

知道了承知しました

 隣の重と呼ばれた短髪の女が、いつの間にか手にしていたギターピックを折る。

 ――かっ。

 水族館の床に向け、鞘に包まれた刀がひとりでに落下してきた。

 おれは天井を見る。暗闇の中から、四角い粘土状の物体が次々と姿を現し、落下しつつある。『暗闇を移植する』〈代数能力〉。恐らくは刀や上に仕掛けていた物体に暗闇を移植し、簡易的な偽装として浮かべていたのだ。

 中国語で『刀』『寄越せ』などを口にしていたことから、隣の中国人の〈代数能力〉は恐らく浮遊、ないしは重量の操作だろう。銃弾は対処される可能性が高いとみて、自身の能力と相性の良い刀剣類を武器に選んだか。

「夜嘴さん! 後ろに」

 おれは叫ぶ。同時に、


「親分はやめろつったろうが、よぉ」

 蔵内さんが、落下してきた日本刀を既に空中で抜き放っている。

 左手には礫のような豆電球。それらが蛇のようなはやさでおれたちに投擲された。


 Ecep▝░eur s░nt o▜cae▝cat cupid▚tat non proid▞▜nt, sunt in cul▰a qui of▊▊cia dese▜runt m▄llit an▜m id e▟st lab▰rum.


 豆電球の周囲にぱっとブラックノイズのような文字が飛散し/吸い込まれ/砕ける。

 一瞬だ。右手の刀身、そしてそれを持つ蔵内さん自身が黒く染まる。

 豆電球の硝子片は散弾じみて、おれたちの初動を対処に限定した。

 佐備沼さんと同等――いや、それ以上の練度。『条件』の発動までをも戦闘機序に組み込んでいる。おれが最初に戦った人間と本当に同一人物なのか?

 Lorem ipsum.

 空気を『硬化』させて、硝子に対して盾を形成するが――

 思考が一瞬行動を奪った隙に、 

 既に粘土のような物体が落下している。全部で四つほど。

 その内の一つは、おれと夜嘴さんの目の前に転がって、

「佐備沼さん!」

 叫ぶ=爆発。箱状の物体から閃光が撒き散らされる。たぶん可塑性爆薬C4だ。

 爆発の威力を調整しやすく、主に構造物の破壊に用いられる。

 

 おれは瞬時に夜嘴さんに飛びつき、伏せた。

 Lorm ipsum――通電。頭の回路を電流が爆ぜる。

『硬度操作』の代数能力。背中を堅く、胸側を軟らかく調整して、夜嘴さんへ流れる衝撃を少しでも軽減する。

「少年!この莫迦、私は能力があるから大丈夫――」

 夜嘴さんが何か言っているが、ぼんやりとしか聞こえない。爆発に備えて鼓膜を『硬化』させていたからだ。

 刹那、腹にずんと来る振動が遅れて響き、肺腑が潰れそうなほどの衝撃に襲われた。声が出せない。『硬化』がなければ一瞬で意識が持っていかれていただろう。気付いた時には空気の大槌でぶん殴られたようにおれの身体がかち飛び、

 景色が/流れて/巨大な水槽に突っ込もうとしたところで――


「ごぎっ、ぶっぐ……!」


 寸前で、もう一度〈代数能力〉。

 ガラスを『軟化』させ、砲弾のようにそのまま突っ込み衝撃を殺す。

 おれはそのまま、下に夜嘴さんを放り投げた。


「……っ、あ! 有動くん、きみ――」

 夜嘴さんが糾弾とも焦燥とも取れない叫びをあげると同時、

ut aut【||】


 吹っ飛ばされた夜嘴さんの細身が、中空でがぐんと止まる。

 音籾さんと佐備沼さんが、揃って〈代数能力〉を発動していた。

 熱帯魚の小さな水槽の横で銃を構える佐備沼さんの身体の周囲には、虫の大群のような『O』の文字が飛び交っている。酸素を操る〈代数能力〉――爆発物の周囲の大気から酸素を奪い、爆轟デトネーションの威力を弱めた。

 だが、これはただの目くらましだと互いに理解している。

〈舞踏会〉の面々は、既にめいめいの武器や能力を構えていた。彼らの曲目は既に開始している。故におれも踊り猛るべく、〈代数能力〉を更に励起させる。


 ……暴力は苦手だ。それでも、やってやれないわけではない。

 ……人を傷つけるのは最低だ。それでも、誰かがやらなければならない。

 怪獣になる才能なんて、おれ一人だけで充分だ。

 下手なダンスを披露する覚悟は最初からできていた。


『――ポリプテルス・セネガルスと言うんだよ』


 夜嘴さんが飼っていた、生きた化石と呼ばれるあの熱帯魚。

 沈む船をつまらなそうにまわるあいつも、ひょっとしたら踊っているつもりだったのだろうか。




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