2021/12/05

Night11ネオンでドライブ

 瞳の奥から、海の音が響いている。


「先輩」


 おれは飛び起きた。飛び起きた先、伸ばした手を見る。

 ――腕と足が綺麗さっぱり治っていた。


「確かに、きみには手取り足取り仕事のことを教えてあげたつもりだけど」

 キャラメリゼされたみたいな、暗く甘い声が耳の底にとろけた。

 横を向くと、夜に浸された部屋の中に、灯火のような光がくすぶっている。

 煙草を咥えた夜嘴さんが、亡国の女王みたいな感じで優雅にソファに座っていた。

「上司に取れた手と足の世話までさせるのは、あまり良くないね」

 彼女はそう低く囁いて、おれが寝ているベッドまで歩いてくる。

 流れる紫煙が見慣れた天井のファンまで吸い込まれていった――それで思い出した。ここは『凪浜グラフ』の仮眠室だ。彼女は社屋を自宅兼オフィスとして契約していて、仕事のあとはいつもこのベッドでそのまま床に就いているのだった。

 道理でちょっと煙草のいい匂いがすると思った。


「夜嘴さんは無事だったんですね。良かったです。尾武はどこですか」

佐備沼さびぬまくんとウトさんが連れて行ったよ。監視付きだけど、もう解放された。そもそもそこまで大したことしてなかったし」

『佐備沼』はあの金髪の男性だろう。とすると、名前の響きから察するに、ウトさんは折口とおれを拘束した老婆のことか。

 恐らくあの攻防のあと、おれは夜嘴さんに傷を治されて『凪浜グラフ』に運ばれたのだろう。というか今考えると、ガールズバーで折口さんに襲われたあとにも彼女に皮膚癌を治して貰ったのだろうし、彼女がいなければおれは二、三回くらい死んでいたはずだ。もっとも――

「きみさあ。私が助けに来るのを見越して、あんな無茶したろ」

「はい」

 つまるところ、おれは夜嘴さんに頼りっぱなしという話だった。

 夜嘴さんは大きく溜息をついて片眉を上げる。

「そもそもさ。私がきみを閉じ込めた張本人だって解ってる?」

「捕まった時は知りませんでした。でも、捕まった時に公安無記課の人が『環からの口添えがなければ一緒に処分した』という旨のことを言っていたので、まず夜嘴さんが公安無記課の中でも相応の地位にあることが解りました」

 おれはベッドから立ち上がり、ソファに雑に座る夜嘴さんを見た。


「貴女が今までおれに協力していたのは、実際におれをある程度泳がせることで公安無記課が拘束に値する要件を作り、彼らによっておれを捕まえることが目的だった。今までの動きから見るに、公安無記課がロレム・イプサムを積極的に捕まえることはあまりないらしいから」

 何となく、おれも夜嘴さんの隣に座った。

 部屋の照明は付いておらず、夜嘴さんがこまめに世話をしているアクアリウムのネオンだけが桃色の電光をゆらつかせていた。

「あの酸素を操る金髪の人、ええと」

「佐備沼くんね」

「はい。その人がおれを攻撃した時も、『後でおれをスカウトする』と言っているわりには、何だか洒落にならない威力でおれを攻撃してきたように思うので。少なくとも、自分や他人を回復させる手段は確保しているはずだと考えていましたし、それが夜嘴さんであっても不思議ではないように思えました。

 なら、あそこで死ぬまでやり合ってそちらに人的被害を与えるという緊張感を演出しつつ、適当な所で止めて貰うという方向性で纏めるのがベストかなと考えたんです。損得計算の出来る相手なら、おれ如きに殺される前に止めたり割り込んだりするはずですし、そもそも一人でおれと戦わせるわけがない」

「ふゥん。きみさあ、あの一瞬でそんなこと思いついたわけ?」

「いえ。長い間閉じ込められていたので、少しずつ考えました」

「あっそう」


 夜嘴さんはつまらなそうに鼻を鳴らして、給湯室(というかキッチン)の方へ引っ込んでいった。そのままガサゴソと言う音が聞こえて、しばらくすると資生堂パーラーのプリンを二つ掴んで戻ってきた。

 無言で一つ、おれの目の前に置く。

「疲れただろう。食べなよ。きみが倒れてる間に買って来たんだ」

「あ、プリンだ! ありがとうございます」

「あのさ。きみ怒ってないのかい?」

 夜嘴さんはやにわに顔を上げて、おれに尋ねた。


 確かに彼女は先輩の捜索を手助けすると偽って人を泳がせていたし、折口と交戦した時点で容疑が固まったから尾武ともどもおれを逮捕したり、色々とやりたい放題ではあったが――


「おれを適当な所で戦いから遠ざけようとしてくれていたんでしょう。そのために〈代数能力アルゼブラ〉も奪おうとした。おれはきっと、先輩を見付けるまでは止まらないから」

 ち、と軽い舌打ちが聞こえた。

「ああ、クソ、そうだよ。その通りだよ。きみに怪獣になる才能がなかったら、話はもっと楽だったんだろうな! なのにきみ、最初から異常に動じないし、どんどん強くなるし、『記述迷路』だって物ともしないから!」

 夜嘴さんは怒鳴って、大の字でソファに寝転んだ。

 おれの膝に彼女の頭が当たる。夜の沙幕みたいな髪がほどけた。

「……有動くんはさあ。私に何も聞かないで、その結論に辿り着いたんだね」

「夜嘴さんはまともじゃないですが、面倒見が良いって点では信用してますから。去原さんが死んだことは説明して貰いたいですけど」

「ああ」

 夜嘴さんは忘れていた買い物を不意に思い出したような調子で言う。

「覚えてたんだ。あの猿マスクのこと」

「お墓参りに行きたいんです。間接的に、おれたちの戦いで死んだ人だ」

「馬ァ鹿じゃないのか? きみ」

 彼女はだるそうに吐き捨て、寝ながらプリンを掬いじぶんの口に入れる。

「電話でも言ったろ、アイツは死んだよ。目の前で、いきなり溶けてね。そもそも襲って来たのも去原だ。〈舞踏会〉の口封じだろ。接続症例マルセツの死なんて気にすることはない」

「それは子供の理屈です。おれは誰かが死んだことで止まる気はありませんが、起こったことの責任は誰かが取らなければいけない」

「出たね、お人好し。正義の味方にでもなる気かい」

「自分をそんな風に思ったことはありません。でも、彼を悼む人間が誰も居ないと言うのなら、そうします」

 おれは乱れた夜嘴さんの髪を梳きながら言った。


 完全な夜の闇の中では、人は息ができない。誰にだって光が必要だ。

 母が死んだ日から、おれにとって光とは、何もかもを壊させないことになった。

 誰かを助けることになったのだ。

「確かに〈代数能力〉は、自分勝手な力です。力に溺れた去原さんが死んだのは当然の報いかもしれない」

「そうさ。きみが神様になってやる必要なんて、ないんだ」

「あります。誰かがやらなきゃならないことだ」

 そういう物事は、世の中に必ず存在する。

 誰が強いたわけでもない。だけど、自分自身がそう感じること。

 ならばその心に従うべきだ。

「夜が来れば朝が来る。人は人の作ったルールの中で生きていて、その航路を越えた時は、それを正す人間が必要なんです。人としての正しいことを守るために、誰かがやらなきゃならない。貴女だって本当はそのことを理解しているから、無記課にいるんだ」

 尾武がそれを気付かせてくれて、先輩がそれを肯定してくれて、夜嘴さんがその正しさを何度も問いかけてくれた。だからおれは迷わない。

 人を助けることを、悪いことだなんて思いたくない。

 おれは自動的に人を助ける。風に揺られて進む船のように。

「――なあ」

 夜嘴さんは、石膏のようにしろい手を伸ばして、おれの頬をなぞった。

「そこまで言うならさ、きみ、無記課に来なよ」

「おれが?」

「うん。今まで有動くんのこと暇潰しで傍に置いてたけどさ。なんだか、きみが死んだり嫌な思いするところを見るのは本格的にイヤになってしまった」

 だから、と夜嘴さんは続ける。

「きみが無記課に入ったら、私が一番近くで面倒を見れるだろう。戦力的にも申し分ないし、給料だって悪くないぜ。結構死ぬけど」

 夜嘴さんは既に自分のプリンを全部食べ終えており、何故かおれのぶんにまで器用に片手でスプーンを伸ばしている。おれは食べやすいように容器を差し出した。

「無記課の人さ。ウトさんと佐備沼くん以外は大体居なくなっちゃったんだ。皆強かったんだけど、誰かを庇って死んだり、無理やり働き続けて『条件』の代償で廃人になったりさ。そりゃあ人から負わされた傷は何とかできるけど、流石の私も自分から死にに行かれたら助けようがないんだよねえ」


 プリンを咀嚼し終えた夜嘴さんは、ゆっくりと身体を起こしておれを抱き寄せた。

 彼女も不安なのだろうと思い、あやすように背中に手を回した。ホテルでも感じたことだが、少し力を籠めたら手折れるくらいに夜嘴さんの身体は軽い。

 おれはふと夜嘴さんと最初に出会った時の感触を思い出した。

 大学一年の冬に酔っぱらって川で溺れているこの人を助けて、掴んだ手首の細さと冷たさを思い出した。

 あの時から彼女はずっと死にたそうな顔をしていたことに、今ようやく気付いた。


「ごめんなさい。おれは無記課には入れません」

「はあ? 意味が……分からないな」

 言葉の調子とは裏腹に、

「判れよ。私がいま、どういう気持ちでこんなこと言ってるか」

 夜嘴さんの腕がきつく回される。

「じゃあ、凄く傲慢なことを言いますね」

 だからおれはそのほそやかな手を握って言った。

「いつか貴女たちが、そういう仕事をしなくて良いようにしたい」

「……おい」

 がばりと夜嘴さんが顔を上げる。

「ふふふ。ちょっと待ってくれよ。きみまさか、この街のロレム・イプサムを全部一人で背負い込むって、そう言ったのかい。本物の正義の味方になるって?」

「そうです。今すぐというわけには行かないですが、佐備沼さんも、音籾さんも、知ってしまったらそれはもう、おれが壊したくない人の一人なんです」

「馬鹿げてる。きみは――」

 おれは彼女の手を剥がして、ゆっくりと呟いた。

「おれは夜嘴さんの力になりたい」


 一瞬だけ。

 夜嘴さんの表情が、一際歓喜に満ち溢れたように見えた。

 ネオンの月に照らされて、夜の港を渡る鳥のような美しさだった。


「そうかい」

 無論、それはほんのわずかな間のことだ。

「じゃ、勝手にしなよ。私も勝手にどこかに呑みに行ってやる」

 彼女は鼻を鳴らしてずんずん事務所のドアへと向かっていく。

「いいかいきみの処遇は当面公安の民間協力者ということにするよ。有動航は一生私のオモチャだからな、後で捜査に関する誓約書とか色々書いて貰おう! あと、住居は一旦ここに移しなよ。きみの家もう〈舞踏会ワルツ〉の奴らに調べられてるし」

「夜嘴さん」

「何だい、まだ何か文句が――」

「夜嘴さんがいるから、おれは壊れないでいられる」

 判っている。彼女は自分に踏み込まれるのが嫌いだ。

 きっと余計なことをおれはしている。

 それでも。これで最後になるとしても、おれが夜嘴さんに感謝しているという事実だけは伝えておかなければならないと思った。

 夜嘴さんはわずかに眉を上げた。

 しばらく、沈黙が落ちる。

 特に何を言う必要も感じなかった。

 夜嘴さんが、形の良い唇から、何かを言おうとしていて――

 

 ぴぷぷぷぷ 


 突然の電子音。

 夜嘴さんのスマホからだ。彼女は着信画面を開き、スピーカーをONにする。

『環かい? 有動航デカ男の様子はどうだい』

 着信の主は音籾さんだった。

 夜嘴さんは肩を竦めておれを見る。

「有動くんなら元気だよ、ウトさん。お盛ん過ぎてこっちの身が保たないくらいさ」

 マジか、とおれは思った。この人職場でもこうなのか? 

 頼むから、そういう類のジョークはおれだけにしておいて欲しい。

『気色の悪い冗談はやめな。……ま、そっちが大事無いのは何よりさ。何せこっちでちいとマズいことが起こったんでね』

 だが夜嘴さんの軽薄な冗談を余所に、当の音籾さんは緊迫した様子だった。

『有動の坊も居るなら、よく聞きな。『暗闇を移植する』〈代数能力〉を持ってる接続症例――蔵内保くらうちたもつが留置場から消えたよ』


 おれは弾かれるように顔を上げた。

『暗闇を移植する』男――おれと夜嘴さんを喫煙所で襲った奴だ。

 彼は夜嘴さんが灰皿で殴って気絶させて、警察に通報したと言っていたから、無記課の預かりになるとばかり思っていたのだが。

「……なるほどね。”消えた”って、どうやって消えたんだい? 『記述迷路コールド』が機能してなかったのかい?」

『文字通りしたのさ。『記述迷路』にぶち込んだ後は蔵内の能力も喪失が確認されてたが、それ以前に逮捕直後からどっか人形みたいだったらしくてねえ……正直『迷路』に入れるまでもなかったくらいさ。あんた、灰皿で蔵内の頭殴ったって聞いたよ』

「まあ、それは置いておこう。それで……人形ね。折口は何て言ってる? 行先に心当たりはありそう? もしくは〈代数能力〉による誘拐?」

 夜嘴さんはスマホのスピーカーをおれの方に向けながら訊いた。

『黙秘してるに決まってるだろう。手が足りないから、尾武嵐にも捜査協力を要請するよ。〈21〉で逃げた奴等と合わせると〈舞踏会〉の上級構成員は残り二人――考えようによっちゃ、奴らを一網打尽にするまたとない機会じゃないか、ええ?』

「感謝するよ。ということは、こちらも働かないとならないみたいだね」

『当たり前だろ。若い燕とじゃれ合うのはまたの機会にしな』

「おいおい、酷い言い草だなァウトさん! 言っておくけれどね、私の××を××したのは有動くんの方からで」


 ぷつり、と音籾さんの通話が一方的に切断された。

 溜息を吐いて、夜嘴さんはスマホ片手に振り返る。

「あー、そういうワケで」

 何がどういうわけになっているのかは全く不明だったが、

「わるぅいお姉さんと一緒に、ドライブと洒落こもうか。有動くん」

 夜嘴さんはそう嘯いて、車のキーをかるく掲げた。

 アクアリウムの中の熱帯魚が、ぱしゃりと飛び跳ねる音が聞こえた。

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