Night6:カット・アウト・カット
鞄の中で大切に保管していたはずの先輩の写真が、文字型の穴でぼろぼろに穿たれている。ロレム・イプサムのあの書字だ。勤勉なタイピストがパンチングカードを打ちまくったような、無惨な痕跡だった。
〈
――これが、おれの『条件』なのか。
手が震えた。考えるな。動け。
夜の海を泳ぐなら、考えすぎない方が良い。そうだろ。
おれは一度だけ深呼吸し、スマホに保存していた先輩の画像を店員に見せた。
去年のクリスマスに撮影したものだ。先輩が上野駅のイルミネーションの下でうすい笑みを浮かべている。彼女はあんまり記念写真が好きではなかったので、結局人に見せられる写真はこのくらいだった。
「あ! そうそうこの子。そりゃ凄い美人だけど、明らかにCMって顔じゃないもんね。でも」
「でも?」
おれは思わず尋ねた。女性も、わずかに声を潜める。
「去原さん、他の店の子にも同じこと頼んでたみたいだよ」
吐き出される煙を浴びながら、おれの思考は一気に深い海へと沈下した。
――先輩は〈
だが一方で、〈舞踏会〉という組織がわざわざ痕跡を大っぴらに残すほど、間抜けな組織だとも思えなかった。日本の警察は優秀だ。法学の授業で習った。
99.3%の行方不明者は一週間以内に保護される。
……逆に、二週間以上の失踪の場合、生存率はほぼゼロに等しい。
おれは頭を振ってその考えを打ち消す。
今じゃない。
「大体何日くらい前の出来事かは、覚えてますか?」
「ハロウィンの一週間前くらいだったかな。店の企画考えなきゃならなくて、クソ忙しい時に面倒なこと言って来たからよく覚えてるよ」
「……十月の二十四日」
先輩が消えたのは十一月一日。
去原さんが先輩の行方を歌舞伎町に探し始めてから、彼女が失踪するまで、およそ一週間ほどのタイムラグがあったことになる。
恐らくその間に〈舞踏会〉は先輩の足取りを確保し、そして連れ去ったのだ。
おれはわずかな希望を感じていた。
〈舞踏会〉がなぜ先輩を狙っているのかは不明だが、敵はこれではっきりした。
おれのやるべきことも。
〈舞踏会〉を追い詰めて、必要なら始末する。
その後、おれは警察に自首して罪を償う。
先輩が戻って来るなら、どんなことでも出来る。
奴らに報いを受けさせなければならない。
「……ありがとうございました。助かりました」
おれはテーブルのルーレットを回し、玉を入れてから席を立った。
一回くらいは遊んでいかないと本当に店を荒らしただけになるからだ。
隣のジュークボックスからは、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デヴィ』が流れている。ジャズ好きの母が生前好んで聞いていた曲目の一つ。
「ほんと迷惑だったわ。次はちゃんと指名料払ってね」
「構いませんが、法に触れる商売は止めた方が良いですよ」
「きみ気持ち悪いってよく言われない?」
彼女はおれの回したルーレットに視線を落とす。
玉が何番のポケットに入ったのかは、おれからは見えない。
「よく言われます」
「やっぱり二度と来ないでね」
「また、お礼に来ます」
店員は鼻で笑って、吸い腐しのホープを灰皿に投げた。
ブラックジャックの結果は、彼女だけが知っている。
今はそれで良いと思った。
〈21〉を出て店の前でしばらく待ったが、歌舞伎町のネオンが照らすどこにも尾武の姿は見えなかった。連絡もしているが全く既読がつかない。
ひょっとしたら〈舞踏会〉のことなど忘れて、店の女の子とよろしくやっているのだろうか――電話をしようか迷っていたその時、おれのスマホが振動した。
着信だ。たぶん尾武だろう。相手を見ずにそのまま出る。
「もしもし、聞き込み終わったか――」
『有動くんかい。無事だね、良かった』
一瞬思考が止まった。この声は夜嘴さんだ。
彼女は去原さんを尋問するために、新大久保のビジネスホテル――〈サウザンドイン〉に留まっていたはずだ。
『すぐにその場を離れるんだ。少しばかり厄介なことになった』
「……敵ですか」
『ウフフ。その通り襲撃されてるんだよ私が! 『劣化コピー』だ、あいつの能力! 携帯のコピーを作られた!』
そうか。『劣化コピー』――奴は確かに、物体を複製していた。
そしてその『写し』を更にコピーすると、それは物体を転送する『窓』になる。
つまり“劣化”しているのだ。コピーを繰り返すごとに。
奴はパチモノのクロックスを履いていた。今思えば、それは警察に対するカモフラージュなどではなく、奴の欲望の現れ方の一つだったのだろう。
「本物の携帯を使われて、どこかに連絡されたんですね」
『そうだよ。それで去原も死んだ』
彼女はおれの返事も待たずに矢継ぎ早に告げる。
「死んだ?」
『目の前で溶けたんだよ! 私はちょっと身を隠すから、きみも、』
唐突に、ぶつ、と電話音声が途切れた。
「夜嘴さん?」
返事はない。
おれは目を閉じる。考える。決める。眼を開けた。
状況は急激に悪化しつつある。新大久保の〈サウザンドイン〉に戻らなければならない。そのためには、尾武を呼び戻す必要があった。
おれと一緒に行動している以上、あいつの身も危険に晒されている。
そう思って振り返ったその時、
「有動航だな?」
背後に、男が立っていた。
陰鬱な気配を浮かべた、三十絡みの男性だ。
おれは反射的にすり足で後ずさる。
よく観察すると、男の手には折り紙の手裏剣が何枚も携えられている。
直感する。こいつも〈舞踏会〉だ。だが――行動が早すぎる。
男はおれの逡巡を読み取ったのか、少し顔を上げてこう告げた。
「逃げたら〈21〉を起爆する。お前の友人は、既に俺の仲間が対処している」
簡潔で、実効性のある脅しだ。
こいつは恐らくおれの性向を知っている。
尾武を巻き込むことは出来ない。
あと一秒考えていたら、おれはこいつの脅しに屈していただろう。
だから、迷わず男に突進した。
時間が経過するほどこいつのイニシアチブは増加する。
よって、奴が油断している瞬間に突っ込むのが最も合理的だ。
予想通り、男は起爆しない。
代わりに、素早く手に持った折り紙の手裏剣を横に凪ぎ、おれを迎撃する。
当然だ。一般人を爆殺するのはリターンよりリスクが大きすぎる。
確かにこいつには、店を爆破するに足る能力があるのだろう。
だが、能力を持っていることと、それを躊躇いなく実行できることは別の話だ。
こいつは動く前にまず考える。
だから、おれのような愚か者に比べ、一手だけ遅れる。
とはいえ、十分に余裕のある対応だ。避けることはできない――通常ならば。
おれの膝が在り得ない方向にぐにゃりと曲がる。つんのめる。
そのままの勢いで奴の懐に潜り込んだ。
Lorem ipsum――〈代数能力〉。身体を軟化させ、自分の体勢を崩している。
回避した頭上で、閃光が爆発した。
光。それが、奴の〈代数能力〉なのだ。
光を折り紙に変質させているのだ。そして恐らくは、折り方によってある程度の指向性を付与することが可能だと見るべきだった。
店のガラスに反射して、背後の電柱が真っ二つに切断される。
ずどうと轟音を上げて倒れた。千切れた電線がのたくり、高電圧の火花が地面に吐き散らされる。通行人の叫び声が上がった。
この威力――身体の硬さを弄って受けるのは不可能だろう。
おれは自分の愚かさを呪った。
一瞬でおれたちの居場所を突き止めたにしては雑な脅しだと思ったが、そもそもこいつは本来、脅迫すら必要としないのだ。練度が違い過ぎる。
それを裏付けるように、奴は既に店の方に手を向けていた。
直感=『起爆』の構え。
関係ない。
その動作が脅しだろうと本気だろうと問題ではない。
余計な思考を強制される。対応を迫られ後手に回る。
それこそが最も避けるべき事態だ。
だからおれは、奴も一緒に舞台に上げてやることにする。
「自分だけ特等席だなんて」
おれは男の足元、アスファルトに手を触れた。
l
o
r
e
m,
ぐに、
と、
――コンクリートの路面が歪み・歪み歪み歪み歪み=跳ねる。
おれと男は一気に射出され、ガラスを突き破って〈21〉に入店した。
まるで発条じかけの砲台のようだ。予想した通りだった。
おれの〈代数能力〉――『硬度操作』は、自由自在に物の柔らかさを変えられると言ったような融通の利いた能力ではない。その逆だ。
恐らくは、物体の硬度と靭性をトレードオフしている。
ヒントは、ホテルで壁を陥没させた際にそのまま『転がって』敵の懐へ入り込めたことだ。完全に物体を柔らかくすることが可能ならば、反作用や抵抗は発生しないので、壁を蹴って前転するといった動作はできない。
よって物体を柔らかくするほど、反発力は強くなる――確かに、際限なく物の形を変えてしまっては、それが壊れるのと何の違いもない。
これが、おれの欲望を叶えるための力なら――
「頼むぞ」
吹っ飛ばされた先で、おれは着地点の床に手を伸ばす。
指が木板に接触した――瞬間、再び床に書字が刻まれ/歪み/包み込まれたおれの身体が、再び跳ね飛ぶ。勢いを殺した代償は高くついた。
先程のような高い弾性は得られず、気の抜けたバランスボールのように鈍い反発で放り出される。その勢いのまま背中からジュークボックスに激突し、ビル・エヴァンスが歪んだ絶叫を上げた。頭がくらくらする。
……どうやら物体に対する『硬度操作』の深度は、接触時間に比例する。
だが、自分自身の硬度の操作だけは、例外として扱われるらしい。
共に放り投げられた男は、バーカウンターの裏側に吹っ飛んでいるようで姿がこちらから見えない。おれは背面の硬化を解除し、ジュークボックスの残骸から跳ね起きる。
〈21〉の店内。ここに光の『爆弾』が仕掛けられているとしても、おれと共に店舗の中まで吹っ飛ばされた今、自分を巻き込むような策は打てない。
だがここまでやってもなお、最悪の状況が限りなく悪い状況に変化しただけだ。
男の攻撃はまだ継続している。
「有動くん……? ねえ! どうなってんのさ、これっ」
先程の女性店員が、おれに近付いて来るが――
「逃げろ!」おれは鋭く叫んだ。
カウンターの向こうから、擲弾のように大量の紙屑が放り投げられる。
黄色の紙風船だ。おれは近くの酒瓶を引ったくってその内の数個を弾き飛ばしたが、過たず風船の中から光が漏れ出るのが見える。
フラッシュマグ――その類の言葉が脳裏をよぎった瞬間、
閃光が爆発的に飛散し、おれたちの瞳を乱れ打った。
女性を庇いつつ反射で顔を背けるが、既に視界が真っ白に焼き尽くされている。
完全におれが一般人を庇うことを計算に入れたタイミングでの投擲。
面打ちの強打をもろに喰らったような感覚だった。戦い方に遊びがない。視界を塞がれるのはまずい。追撃が来る――おれは咄嗟に虚空に手を触れた。
脳の回路が通電し、〈代数能力〉が起動する。それが最大限の防御だった。
接触した物体の硬度を操作することができるなら――
「子供に撃つのは、あんまり気が進まねえが――」
ばじゅ。
右腕に痛みの波が浴びせられた。そういう風にしか形容できなかった。
思考すらも置き去りにして、蝕むような痛苦が瞬く間に皮膚を喰い漁る。想像を絶する激痛。ショック反応で倒れ込む。
右腕が床と身体に押しつぶされる。ぐじゅりと湿った感触。
血液の匂いではない。腐ったリンパと角質が混ぜこぜになった、焦げた腐臭だ。
漏れ出そうな絶叫をすんでの所で抑える。考えるな。動け。
攻撃された。片腕が使用不能だ。
物理的な破壊を伴わない攻撃に対して重要な事項は、究極的には二つだ。
死なないこと。そして、冷静さを失わないこと。
ぶずり。
おれは自分の両の瞳に左指を突っ込んだ。
「……何だよ、そりゃ」
その動作を隙と取ったのか、男は迷わず手裏剣を手にして突っ込んでくる――だが、その突進が紙一重で止まった。
おれの手が、男の踏み出そうとしていた床を正確に軟化させていたからだ。
だが、問題の本質は仕掛けられた発条の罠などではない。
眼を潰されたおれが、見えないはずの敵を視認している。この一点に尽きる。
これほどまで周到な相手ならば、その異常性を見逃すことはないと判断した。
おれは、触れていた眼球から指を離す。
瞳孔は、明るい所では光を取り込まないために収縮する。その開閉を司るのは虹彩と呼ばれる筋肉だ。
〈代数能力〉。虹彩筋を『軟化』させ、限りなく瞳孔を閉じた時点で……今度は『硬化』させる。こうすることで、筋肉の疲労を無視して最大限光を閉ざす構造を眼球に構築できる。人体原理を応用した、即席の遮光フィルターだ。
「貴方の閃光はもう通じない」
そう零してふらつきながら立ち上がった。
正直なところ虚勢に近い。戦況は明らかに男の方が有利だ。
おれは右腕に視線をやる。真っ黒だ。フジツボのような隆起が所々に肉付き、クレーターからは傷口の赤が体液を垂れ流してのぞいている。炎症のようだ。
高熱による炭化ではなく、皮膚そのものが異様な染度で変色していた。
この症状は恐らく――
「それがどうした。右腕が動かねえだろ」
勝敗は決したと言わんばかりに、男はぶっきらぼうな調子で呟いた。
「急性の皮膚癌だ。〈舞踏会〉から手を引けば、病院に連れて行ってやる。得意の包丁が一生握れなくなるぞ」
「所属と目的まで明かすなんて随分親切ですね」
おれは脅しには答えずに言った。
「納得させるための必要経費だ。これで帰らなきゃ、次は両足を潰す」
「逆だ。右手しか潰せずに、おれに能力の種を割られてる」
「なに?」
「貴方のさっきの攻撃は『紫外線』ですね」
……おれは目を潰された時、咄嗟に虚空に手を触れた。
つまり、店内に充満している空気――それらを能力で『硬化』させ、固めた空気を盾のように展開することができた。
敵の攻撃は『光』を基点にして行われる。奴が支配可能な『光』の領域には、赤外線や紫外線、電磁波と言った不可視光線も含まれるのだろう。
そして、紫外線や赤外線は大気によってその大半が吸収される。
強烈な紫外線への曝露は皮膚の炎症や癌をもたらすが、大気の盾を纏っていれば潰れるのは攻撃を誘うために突き出した右腕だけで済む。
「なるほど、確かにこいつなら、東京の地盤も沈められるわけだ」
訳の分からないことを少し呟いて、男は再びおれに向き直る。
「お前……やめておけよ。一応、最後通牒だって解らないか?」
「先輩の居場所を教えて下さい。そっちが攻撃したから、おれは反撃してます」
「損得計算が出来ないほど間抜けじゃないだろ。見たとこ、力に溺れてるわけでもない。信念とか決意ってやつか? 割に合わないぞ……イカれてるな、お前」
男はくたびれた溜息を吐き、既に逃げ出している客に視線を向けた。
「こんな戦いで命を落とすなんて……馬鹿馬鹿しいだろ。俺達は別に漫画に出てくるような無敵の超能力者じゃない。こんな力、ちょっと強い銃や爆弾みたいなもんだ。まあ去原なんかは〈代数能力〉に頼り過ぎだがな」
男には、彼らを攻撃するつもりも、かといっておれの質問に答えるつもりもないらしかった。……思えばこいつの態度はどこか歪だ。周囲の生死に一応の配慮が見られるわりには、ロレム・イプサムに対しての襲撃や暗殺と言った剣呑な手段には躊躇がない――なので、考えられる要因はいくつかある。
一つはこいつの言っていた“仲間”の方が、派手なやり口を積極的に採用する人物である場合。そして、もう一つは。
「上司からの命令だ。這ってでも来てもらうぞ、有動航」
いつの間にか、男の手には金色の紙飛行機が握られている。
それが、おれの方向に放たれようとした。
――その次の瞬間の出来事だった。
がん! とバーのドアが蹴破られる音が鳴り響く。
男が音の方を向く。同時に、扉の蝶番に仕掛けられていた折り紙の手裏剣が輝いた。光を折り紙に変える〈代数能力〉で、赤外線を封入していたのだ。その放たれた熱線が、瞬時に侵入者を切り刻もうと瞬き――
「
何の前触れもなく、
おれの目の前で男が停止した。
停止だ。衣擦れすらもなく、剥製のようにその場を動かない。
先程ドアを蹴破った闖入者に、おれは視線を向ける。
そこには、黒スーツを纏った老婆が警察手帳を取り出していた。
「……何だいじろじろ見て。言っとくけど、あんたも後で取り調べるからね。いくらイケメンでも容赦しないよ、覚悟しとくことさね」
老女は鷲鼻を慣らし、掠れた蓄音機のようにぐつぐつと笑う。
「さあて、公安無記課のご登場だ。誰も動くんじゃあないよガキ共」
――もう一つの可能性。
それは、ロレム・イプサムに対処する公権力の存在だ。
日本の警察は優秀だ。超能力者の存在など察知していない道理がない。
『ほら、夜はさ、すべてが許されている気持ちになるだろ』
夜嘴さんはああ言っていたが、おれは賛同しかねた。
いつだって夜が来れば朝も来て、その時には全ての清算をしなければならない。
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