夜と海辺のロレム・イプサム

カムリ

夜と海辺

2021/11/07

Night1:通電の夜

 とにかく、先輩は蒸発していた。

 大学のキャンパス、溜まり場にしていた渋谷のカフェ、新宿駅前の喫煙室。

 そのどこにも先輩の姿はぽっかりとなかった。


こうくんはさ」

「〈超能力〉って信じる?」


 いかにもな前置きを残して、海嶋みしま円果まどかはおれの前から姿を消したのだ。

 しかも、おれとの初デートの約束をすっぽかして。

 断っておくと、先輩に失踪するような体調上の不安はない。健康優良児だ。

 インカレのサークルでもずっと水泳をやっていたし、高校ではIHインハイに出るほどの実力者だったらしい。肺活量も物凄く、カラオケでもよく通りまくる声を枯らして美声を披露しあそばせる関係上、大学の女子の間では『海嶋円果とのカラオケには気を付けろ』というお触れが発布されていた。

 例えば、彼女の危険性を端的に示すこんな挿話がある。

 当時彼女はOASISの『Wonderwall』を歌うのがマイブームだった。先輩が履修していた比較メディア論(Ⅱ)の講義でサイモンとガーファンクルを扱ったとかの影響があったような気がするが、とにかくギョッとするほどのハマりようだった。今思い返せば、先輩にはそういうバランスを欠いた所があり、そしてそれはおれと先輩がカラオケに行った際にも遺憾なく発揮された。

 試験明けでテンションが上がりに上がっていた彼女は、マイクの閾値を遥かに超えるほどの音量で『cause maybeサビ』の部分を絶叫したのだ。

 おれは壊れた機材の弁償代を店舗に支払う羽目になった。


『カラオケでマイク壊れるの、おれ初めて見ましたよ』

『腹式呼吸にコツがあるのだよ、航くん』

『嘘言われてません?』

『嘘から出た真って言葉もあるしね』

『嘘なのは変わらないんですね』

『ともかく、やりすぎちゃった』

『仕方ないですね。店員さんにはおれがふざけて壊したと言っておきます。でも店の機材にもお金はかかっているわけですから、今度からは気を付けた方が良いと思います』

『えっ』

『あと、追加の飲み物は何が良いですか? まだあと二時間くらい残っていますし、弁償ついでにオーダーして来ます』

『ええ~っ……』

 あのとき、先輩は死に掛けのハゼのような顔をしていたと思う。

 理由はわからなかった。

『どうせ先輩、給料日前だし。カラオケ代くらいしか持ち合わせないでしょ』

『あんたさぁ――』

『何です?』

『うりゃえい』

 先輩はおれの尻を蹴り上げた。水泳部のミドルキックはしこたま効いた。

『痛っ、うわ、ちゃんと痛い!』

『極めて善良な青年が災厄に見舞われる! ああ、何たる不幸か!』

 先輩はげらげらと笑った。更に弾みをつけて、何度かを繰り返される。

『何ハラスメントになるんですかこれ。何か悩みあるんだったら聞きますけど』

『アハハ、痛い? そうしないと覚えないでしょ!』

 彼女の白くメッシュを入れた横髪が一筋乱れていた。

 スイムキャップからはみ出して塩素焼けしたのをファッションに転用したらしい。  

 

 結局のところ、そのキックは彼女なりのコミュニケーションだった。先輩と二年つるんで解った。そもそもおれと社交のある大半の人間が先輩のように性格に難のある人物で占められていたこともある。しかしそれ以上に、おれは先輩のことを理解したかったし、傍にいたかった。彼女は闊達で自由に見えて、自分の周りにそう言う人がいると何だか救われるように思えた。とにかくおれは財布を忘れた先輩の代わりに、カラオケのマイクの弁償の仕方を知った。

面倒な書類を何枚か書いた記憶があるが、彼女の面倒を見るのは苦ではなかった。

 先輩が蒸発した今となっては、それも貴重な記憶だ。

 いや……どうだろう? 冷静に考えたら、あまり良くはないかも知れない。

 カラオケに行こうとおれを誘ったのは先輩なのに、なぜ財布を忘れていたのか。

 そんなことをあの人にぼやこうにも、どうにも先輩は消えてしまったようだ。

 いつも懲りもせず絡んでくるので、彼女が傍にいるのが当たり前のように思っていたが、世の断ち別れの常のように、別に全くそんなことはなかった。

 劇的な前触れも予兆もなく、彼女はただ忽然と消えていた。


 先輩はもういない。

 どこにもいない。


 先輩をデートに誘ったのはおれからだった。

『あんた、ほんとに物好きだね』

 そうかなあ、と他人事のように思ったことを覚えている。

先輩はメッシュを一房、くるくると弄んでいた。髪の白さがやけに目に映った。

 彼女は水のような人だった。なくなってから、渇いていたことに気付く。


 彼女が行方不明になってから、一通りのことは済ませたと思う。

 おれは先輩の自宅がある小平に赴いて、泣き崩れる彼女の両親を宥めた。

 そのあと警察に捜索願を出し、彼女の少ない友人には軽々な行動を控えるよう伝え、授業に出て、味のわからない飯を作り、あとは一日中先輩の行方を尋ねたり警視庁の行方不明者週報を見たりして過ごした。何かをしていないと本当に空っぽになりそうだった。

 少し疲れてふと時計を見ると、針は午前二時を指していた。

 部屋には秒針の音だけが空気のように滞っていた。

 ふと、ぶう、と携帯の着信が鳴る。

 画面を開くと、おれのインターン先の上司――夜嘴よるはしさんからのラインが入っていた。文面は簡潔なものだった。


『新宿駅 喫煙所 来て』

『(煙草を吸う猫のキャラクターのスタンプ)』

 

 呼び出されるような心当たりは全くなかったが、彼女の奇行のワケを深く考えても無駄だということはこれまでの付き合いで解っている。

 おれはブルゾンコートを羽織って、アパートの戸を開けた。

 

====


  深夜の新宿駅前は、流石に人がまばらだ。

 この時間帯に活動するような人々は、みんなネットカフェやカラオケに潜ってしまっている。

「それで夜遊びしに来たわけだ。有動くんは」

 ガード下の喫煙所、ぼんやりと闇を照らすガラスボックスの中で。おれのインターン先の上司にして悪友のような女性――夜嘴さんがピースを構えていた。ピースと言ってもチョキのことではなくて、煙草の銘柄の方だ。夜嘴さんは煙草を一日に二箱開けるというお手本のようなヘビースモーカーである。

 彼女の方もおれを見止みとめたのか、誘導灯のように煙草をくいくいと振っている。火の粉が飛び散っていて危なっかしい。

「わるぅいお姉さんに呼び出されて、健気に火を貸しに来てくれる有動少年! ああ、なんていじらしいんだ」

夜色の黒髪が揺れた。月のように白い肌、怜悧な美貌に喜色がにじむ。

「悪いけど、おれそこまで暇じゃないですよ。先輩消えちゃったの知ってるでしょ」

「ああ、あの――」

「あの?」

「きみとのデートの約束ほっぽった子かなァ!」

「最悪の思い出し方しますね。帰って良いですか?」

「だめだよ。喫って行かないと、いいかい。ここで駄々をこねるぞ」

「それは本当にやめてください。おれ煙草やらないの知ってるじゃないですか」

「真面目だなあ。こんなご時世に長生きしたいのかい?」

「おれじゃなくて、夜嘴さんに長生きして欲しいんですよね。人と喫うと、本数も増えるって言うじゃないですか。寿命縮みますよ」

「気色が悪いね、それ。私の他には言うなよ」

 夜嘴さんは、焼け崩れた煙草を灰皿でじゅっと切った。やけにさまになっていた。


「きみね。会社来なさいよ。ずっと休んでるでしょ」

「先輩が見つかるまで会社には行けません。すみません」

 先輩は一週間前――二〇二三年十一月一日から失踪していた。

「きみが居ないと退屈で仕方がない。大の大人が一人消えたくらい放っておけよ」

 自己責任だ、とこぼす夜嘴さんに対し、おれは肯定も否定もしなかった。

「ただの失踪なら良いんですけど。消える前に、気になること言ってたんです」

 興味ぶかそうに、夜嘴さんの顔が上がった。

「『〈超能力〉って知ってる?』って」

 彼女の金縁の丸眼鏡の奥、暗い瞳が夜に反発するようにしばたたいた。


 夜嘴さんはまともな大人ではないが、面倒見のいい大人だ。

 〈凪浜グラフ〉という零細出版社の社長を務めるかたわら文化人類学と言語学の学位も取得しているようで、しばしば仕事の合間おれに眉唾論文の下読みを押し付けて来る。つまり〈凪浜グラフ〉も半分オカルトに片足を突っ込んでいるのだ。この間は『言語理解としての超能力~その再現性~』及び『欲望思想にかかる統語言語論』の二本を読まされ感想を求められたが、どう考えても学部はたけが違ったので論文に使われているマトリクスの恣意性くらいしか指摘できなかった。おかげで機嫌を極めて悪くした夜嘴さんにその日は会社を叩き出された(流石に悪いと思ったのか、後日給湯室の冷蔵庫におれの好物・資生堂パーラーのプリンが置かれていた)。 研究者としての態度にはおおいに疑義が呈されるが、論文じたいはすこぶる面白かったのを覚えている。つまり彼女なら、おれでは及ばない視座から冴えたやり方で現状を打破してくれるのではないかという期待があった。

 夜嘴さんはシガレットケースの中から二本目の煙草を取り出し、エス・テー・デュポンのスリムライターで火を点ける。

「いいかい、有動少年。お人好しも度を過ぎると身を滅ぼすのはこの際置いておこう。〈超能力〉とやらの実在性もだ。仮にきみの言うことが全て正しくて、きみの先輩が〈超能力〉とやらを使った犯罪や事故に巻き込まれていたとしよう」

 でも、と夜嘴さんは続ける。

「それは警察や司法の領分だ。きみのような民間人が立ち入って無事に済む問題ではないし、そうするべきでもない。これは頭のいいきみなら判るね? つまり、身の危険の話なんだ。私はきみの上司でもあるから、きみや、きみの親御さんのためにも、有動航という学生を安全な状態に保つ義務がある」

 建前だ、と直感できる。

 彼女は面倒見のいい大人だが、立派な大人ではない。

「〈超能力〉でズルしてるじゃないですか。煙草買うお金とか」

 退屈な言い分の半分ほどを聞き流しつつ、おれは逆に訊き返した。

無論はったりだ。だが、彼女はこれを無視できないはずだ。

……本当に、〈超能力〉というものが存在するのなら。

おれは先輩が残した〈超能力〉という言葉と、夜嘴さんが研究している〈超能力〉というものの関連性を偶然として片付けられるほど余裕がない。

――彼女なら、おれでは及ばない視座から冴えたやり方で現状を打破してくれるのではないかという期待があった。夜嘴さんの眼鏡の向こうの目つきが鋭くなった。はったりだ。

 

「ばれちゃったか」

 夜嘴さんは口許を緩め、目線を柔らかい闇に埋没させた。


「少し話をしようか。有動くんはさ」

「はい」

「別に、その先輩と付き合っているってわけでもないじゃないか」

「そうですね」

「だとすると、ヒーローごっこ?」

「そうかも知れません」

「損する性格だねえ」

「そうでしょうか? おれは納得しています」

「なぜ?」

「壊したくないからです」

 その答えに、夜嘴さんが首をかしげて身をこちらに寄せた。

 樹木のような香水の匂いが咲いている。

 かるい紫煙の香りに混ざってふわりと燻り、こちらの気分を落ち着かせた。

「――なにを壊したくないんだい?」

「おれが持ってる色々なものを」

 それは、先輩から貰った色々なものだ。

 軽々しく手放せるものではないし、手放していいものでもなかった。


「自分で言うのもなんですけど、おれ、そこそこ人の世話焼く性格じゃないですか」

「そうだねえ」

「だから周りのこと色々やりすぎようとして、少し上手くいかなくて。でも、先輩はおれに上手な泳ぎ方を教えてくれたんですよ」

 大学のキャンパス、溜まり場にしていた渋谷のカフェ、新宿駅前の喫煙室。全部おれが知らなかったところだ。理由はそれくらいで構わない。

 夜の海を泳ぐなら、考えすぎない方がいい。

「おれが今ここで動けるなら、先輩がどうなっていても、思い出は壊れない」

「アハハ! 自己完結してるねえ」

 夜嘴さんは煙を吐き出し、おれのナイーブな考えを笑い飛ばした。

「どうせわたしが止めても聞かないだろ」

「夜嘴さんも、何だかんだ付き合ってくれるでしょ。そういう所好きですよ」

「わがままだなあ。きみのような男はセックスも自己中心的で、女を組み敷いてヒイヒイ言わせることくらいしか能がないんだろうな! なあ!」

 ギョッとしたおれの靴すれすれを、夜嘴さんはヒールでがつん!と踏みつけた。

「な、」

「いいぜ。〈超能力〉について、私が知っている限りのことを教えようじゃないか」

 夜嘴さんは薄く笑った。

「有動くんの下手な鎌掛けに免じてね。わたしもよくよく年下に甘いなあ!」

「……からかわれるのは苦手です」

「世の中には人をおちょくって楽しむ大人が沢山いるってことさ。ほらもっと笑いな」

 何せ夜は長いからね、と夜嘴さんは笑う。

 おれの唇が、彼女の細い指にぐっと吊り上げられた。

 もしかしたら笑っているように見えたかも知れない。

 夜嘴さんの白い肌は、喫煙所の淡い調光に照っていた。

 おれはその輝きに、何事かを言おうとして――


 ばつん、と。


 照っていた光が消えた。

 おれは反射的に上を見た。暗い。何も見えない。

 照明が全て消えていた。

 夜嘴さんの手がおれから離れていることに気付く。

 というより、先ほどまで目の前にいた夜嘴さんの気配がない。


「夜嘴さん」


 どさりと砂袋が落ちたような音がした。

 思わず後ずさると、足裏にぬめった感触。転倒。

 血の匂いが立ち込め始めている。部活の時に何度か嗅いだ鉄錆の匂い。

 同時に風切り音が首の横で鳴った。考えるより先に身体が後退する。

 落ちていた夜嘴さんのライターが手に触れた。反射的に、点(つ)けながら転がる。

 がつという音を置き去りに、灯された光が扁平な闇を舐めた。

 ――夜嘴さんが口から包丁の柄を生やして倒れているのが見えた。

 深々と、喉の奥まで突き刺さっている。

 ナイフを振り上げる人影が、炎のベールに照らされる。

 

 夜嘴さんが殺された。

 目の前には、ナイフを持った誰か。

 

 ――報いを受けさせるべきだ。

頭の中のスイッチが切り替わるような感覚がある。

 姿勢が低くなり、足が前に動いた。

 人影とおれが激突する。揉み合う。ライターが転がって、暗闇に落ちていく。

 再びひゅお、と風切り音。

 肩口に鋭い痛み。斬られた。だが関係ない。

 泡立ち焼けるような痛覚を無視しながら、夜嘴さんの口に刺さっていた包丁の柄を引き抜き、スナップを利かせて峰を人影に叩きつけた。

 包丁が頭蓋にめりこむ手ごたえがあった。部屋がぱっと明るくなる。

 目を細めながら、人影を見る。鍛えられた体躯を持った男のように見えた――血濡れた額で、目をうすく開き、冷静に右手に持った果物ナイフでこちらを刺そうと試みていた。人影を突き飛ばし、押し倒す。首を絞めるのでは両手が塞がる。二の腕だけを敵の首に接着し、体重をかけるようにして押しつぶした。男がえずく。

 更に力を籠め、頸動脈を圧迫し意識を落とそうとする。

 その瞬間、足元で小さく硝子が割れる音がした。ぱりん、という音の出所を見る。

家電量販店で売っているような豆電球がなぜか敵の左手にあった。

男はそのまま左手でおれの太腿に触れる。

 瞬間、視界に暗闇が降りた。

何も見えなくなった、と気付いた時には、既にひっくり返されるような感触があり、男の体重が上から圧し掛かって来ている。内腿が二か所、焼けるように熱かった。刺されたに違いない。

この闇は、なんだ。


『航くんはさ』

『〈超能力〉って信じる?』


 夜ではない闇。光のない黒。最初の停電。職質にも引っかからずに、これほど大量に用意された刃物。キャンパス、渋谷のカフェ、喫煙室。包丁。ライター。炎、血、先輩、水、窒息、血、現実、夜嘴さん、そして〈超能力〉。

 

 とりとめのない思考がパズルのピースじみて急速に陳列されていく。

 最初に喫煙所へ落ちた暗闇は、まだ電装系統の故障の可能性がある。

 だが、おれが今見ている暗闇は。

 そして、大量の刃物を持ち運んでも他人に気取られない方法は。

 目の前のこいつが――物体や視界に、糊のように闇を貼り付けられるとしたら?


「――貴方が、『暗闇』を移植してるんですか」

 直感的に出た言葉だった。

 突拍子もない考えだとわかっていたが、同時にある種の確信があった。

 〈超能力〉だ。先輩の言葉なら、信じることができる。

 おれの上でもみ合っていた男の、止まる気配があった。

 好機だと思った。反射的に敵の鎖骨がありそうな部位に指を引っ掛け、そのまま引っ張ってへし折ろうとした――が、それより先に、

 ごづ、という音。圧し掛かったいたものが離れ、身体が軽くなるのがわかった。

 視界が明転して、思わず声が上がった。

 転がるようにそこから飛びのく。

 見ると、黒い人影が、馬乗りになって金属製の灰皿を振り上げていた。

「ひとの! 男に!」

 死んだはずの夜嘴さんは楽しそうに、襲撃者の頭部を打擲する。

「手出すから! さァ!」

 

 男は屠殺される猪のように呻いていたが、やがてその声も小さくなり、ついには糸が切れるようにくずおれた。持っていた豆電球が辺り一面に散らばった。目の前の異様な光景や、自分が一度殺されたことなど全く歯牙にもかけない様子で、夜嘴さんは返り血を高そうなコートで拭った。振り向き、おれに声をかける。

「これがわたしの知っていることの一つさ。すなわち灰皿には様々な用途が」

「それって」

「ン、どうかしたのかな。有動少年」

「夜嘴さんの、〈超能力〉ですか。死んだはずなのに……」

「もう会えないと思ったかい。そう簡単に、わたしから逃げられると思うなよ」

 そう肩を竦めて、彼女は灰皿を床に落とした。虚しい金属音が響く。吸殻が落ちて、燻ぶった灰がじくじくと灯りに打たれていた。


「わたしは、死なない。そういう〈代数能力アルゼブラ〉だからね」

「でも、捕まりますよ。監視カメラに写ってる」

 アドレナリンとエンドルフィンの離脱症状だ。虚脱感と安堵感に襲われていて、そう悪態を返すのがせいぜいだった。本当はすぐにでも夜嘴さんに抱き着いて生きていたことを喜びたかった。だがほどなくして、騒ぎを聞きつけた警察も駆けつけて来るだろう。いくら人気が無いと言っても、証拠を完全に隠蔽することなどできない。

 だがその考えをあざ笑うように、

「捕まらないさ。わたしたちは、どこにも映らない」

 夜嘴さんはおれのスマートフォンを抜き出して、なぜか素早く暗証番号を解除した。すぐさまおれを抱き寄せ、チョキピースを構える。

シャッター音。それを聞き届けた彼女は、にんまりと微笑みおれにカメラを見せて来る。

覗き込む。

そこには、


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 一面に。

「言った通りだろ? 代数能力者を特定しようとすると、こうなる」

 風景も、人物も、何もかもが。

 白い背景と、ダミーテキストのコラージュに塗り潰されている。

 「これは……夜嘴さんが?」

おれは慌てて何枚も夜嘴さんの写真を撮影した。

 だがそのどれもが、Lorem ipsum――キケロの一節に覆い隠されて消える。


 「無記名の代数ロレム・イプサム。それがわたしたちの名前」

 夜を気ままに歩く、名もない超能力の数字たち。


 夜嘴さんは、世はこともなしと言いたげに煙草ピースを構える。

 体中から力が抜けて、おれは喫煙所の壁に座り込んだ。夜嘴さんはそんなおれを見て、心底うまそうに煙をくゆらせている。

 ふと喉が渇いていたことに気付いたが、水なんて今はどこにも見当たらない。

 まるで体中の水分が蒸発したみたいだった。


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