第35話 その頃キール坊っちゃんは④


 ◆ ◆ ◆


 アスラン家の邸宅は、かつてのように活気づいていた。巷では「ようやく喪が明けたのか」なんて言われているらしいが……実際はそうではない。一人の超有能すぎる家政婦がいなくなってしまったため、活気づかないと回らなくなっただけである。


 それでも、今までの環境がおかしかったわけで――正常な辺境伯家に戻ったかのように見えた時、当然の如くそれは訪れた。


「では、こちらが伝票でございます」

「あ、あああ、ああ」


 今日も荷馬車で嗜好品を運んで来た商人から伝票を渡された現当主ザナール=アスランの手と声は震えていた。その授受がされている玄関ロビーには、掃除に勤しむメイドや食材を運ぶ料理人など、多くの者が正常な貴族家の生活を潤滑に回そうと働いている。


「ああ、あああああ、あああああああ」


 そうした中でわなわなし続けている兄を見つめる弟キール=アスランは、小さくため息を吐いた。

 この生活もそろそろ終わりだな、と。




「金がなああああああああいっ!」


 その夜、兄の悲鳴が響いたのは珍しく執務室だ。いつまで経っても二十歳の兄が寝室にやって来なかったので、寝る前に様子を見に来た八歳児である。


 未だ洋服のままのザナールが髪を掻き毟っていた。


「どういうことだ⁉ どうして今まで通り生活しているだけなのに、こんなに出ていく金が多いんだ⁉」

「だって人件費が増えてるじゃん」


 もう夜も八時を回ろうとしている。早起きの良い子には少し眠たい時間だ。

 キールはあくびをしながら、兄の疑問に答える。


「コジマさんがやってくれていたことを補うために、大勢雇ったよね? まずその人件費が二十人分。で、もちろんその人達はここに住み込みで働いてくれているから、彼らの二十人分の食費もプラス。あとはおまけに、今までコジマさんが値引き交渉をしてくれてたけど、兄さんは言い値で買うから。単純に同じものを買うでも一割増しかな?」


 ちなみに余談であるが、アスラン家の生活水準は前当主の時よりも二割増しになっている。当主と嫡男を同時に亡くした悲しみに暮れた義母レベッカが散財するようになったのだ。上がってしまった水準を下げることは難しい。


 あと最近雇った使用人らは当然新規の者が多く、アスラン家に愛着を持ってくれている者はほとんどいない。そのため、『仕事』の範疇を超えた気遣いをしてくれることもなく、薪などの資材や仕事用具等の生活用品を湯水のごとく新調、使用している。


 と、そこまでキールが語るよりも前に、ザナールは問題点を切り替えることにしたようだ。


「税金はどうした⁉ 我が家の収入源はどうなっている⁉」

「領民から納めていただいている税金は変わらずだよ。もうすぐ徴収の時期だけど……でも税金のほとんどはここ数年、戦争で荒れた土地の修繕と兵士らの駐屯所の維持費に使われてるから、当面私腹に回す余裕はないかな。あと期待するのは国からの援助金だけど、前年の国への貢献度によって金額が前後されるから……戦争も終わってだいぶ落ち着いたしねぇ。多分そろそろゆっくりと下げられて行くんじゃないかなぁ」

「ジーーーーザスッ⁉」


 この兄ザナール、基本的に馬鹿で数字にとことん弱い男だが、学がないというわけではない。実は七ヶ国語の言語の読み書き、喋ることができ、世界の芸術に深い理解がある。


 だけど――それらの能力は領土経営、ましてや軍部に力を入れるべき辺境伯としてはとことん向いてなく……たとえ多言語でコミュニケーションがとれようとも、常識知らずが露呈するだけという。ある意味ツイてない兄である。


 その親であるレベッカは家の中に知らない人が増えたため、毎日部屋に閉じこもったまま。一見生活水準が戻ったため、現実逃避をしているらしい。


 ――この生活も、あと一週間くらいかなぁ……。


 キールが『イヌ』と協力して家を回そうとしても、やはり商人らは八歳児をまともに相手してくれることはなく。そして来週には援助金の支給前に国の監査官が来る予定である。帳簿に改ざん等が発覚すれば、罰として援助金が支給が取りやめになるのだ。


 ――没落かぁ……。


 おそらくこの領地は他の貴族に運営を任され、自分らは追い出されることだろう。どこに行こうか。『イヌ』はどうしよう。考えることは山程あるはずなのに、頭がうまく働かない。


「兄さん……とりあえず今日は寝ようよ」


 兄とふかふかのベッドで眠れる時間も、あと僅かだ。今後はもっと硬いベッドで……ベッドすらあるのかな? そもそも兄と一緒の生活ができるかどうかもわからない。家族全員面倒みてくれる都合の良い奉公先なんて、難しいだろうから。


 だから、キールは考えることをやめる。もう眠いんだ。こんな時間だし。だって自分は八歳。もう眠たくなってもいいよね?


 そんな時、珍しく「わふーんっ」とした雄叫びが聞こえた。

 兄はその声に「な、なんだ⁉」と慌てて立ち上がって、震えながらキールを守るため(?)抱きしめようとするも――その腕をするりと抜けて、キールは部屋の窓を開ける。


 いつもは夜に雄叫びなど決して上げない良い子である。だって『寝ている人に迷惑だから』とコジマさんがしっかり躾けたペットなのだから。


「どうしたの?」


 そこには、「わふん」と巨大犬の顔があった。ハッハッと良い子にお座りした状態で、三階のこの部屋がちょうど良い高さなのだろう。顔面の僅かな隙間から、チラチラ白いもふもふのしっぽが左右に揺れていることが見て分かる。ご機嫌だ。


 この『イヌ』はキールが三歳の時からなので、いわば兄弟のようなもの。だから、彼の言わんとすることを、なんとなく察せられる彼は――小さく笑う。


「行っちゃうの?」

「わふんっ」

「コジマさんに呼ばれた?」

「わっふっ‼」


 誇らしく返事をする『イヌ』に、キールは引き止める言葉を持つはずがない。 


「ちょっとだけ待って」


 慌ててキールは踵を返す。「紙貰うよ~」とサラサラ手紙を書いてから。おまけに執務室に置いてあった兄のデザートを一本毟って手紙で巻く。そして戻った彼はそれを『イヌ』の首輪に挟んだ。


「お待たせ、行ってらっしゃい」

「わふんっ‼」


『イヌ』は嬉しそうに頷いてから、嬉しそうにドシドシわんわん駆けて行く。やはり、飼い主と一緒にいれることは彼にとっての幸せなのだろう。それに、コジマさんがこんな夜に『イヌ』を呼ぶということは、きっと緊急事態なんだ。だから自分にできることは、呼ばれた彼を見送ることだけ。


 キールは去っていく真っ白なお尻を羨ましい目で見送って、静かに窓を閉めた。


 ――僕も、コジマさんの所へ走って行けたらなぁ。


 困っているコジマさんに、本当はこんなこと言っちゃいけないんだろうけど。


 助けてって言いたい。戻ってきて。馬鹿な兄と義母は僕がどうにか諌めるから、また一緒に暮らそうよ。せめて、僕だけでも連れ出して。僕ひとりじゃ、結局何もできないんだ。このままじゃ、みんな本当に離ればなれになっちゃうよ……。


 そんな弱音を、決して表には出さずに。


「ほら、もう行ったから大丈夫だよ」


 執務机の下でブルブル丸くなっていた兄に向かって、キールは気丈に笑いかける。

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