第21話 あたたかな涙があふれて頬に落ちた

 親たちはひととおり十八番を歌い終わって疲れてきたらしい。さすがにアラフィフには二時間を超える歌唱はきついのか。ましてや向日葵の両親など小室ファミリーのような激しい曲を入れて踊り狂っていた。この十五分ほどですっかりおとなしくなってドリンクを飲むだけに成り果てた。


 かわって大樹が複数の人間からHilcrhymeの春夏秋冬をリクエストされて熱唱した。彼にはどうもサングラスの男が歌う歌が似合う。しかも先ほど親たちが使ったスタンドマイクで歌ったため身振り手振りを加えることができた。余計に念がこもって見えた。


 母桂子が「次nobodyknows+のココロオドルね」と言って祖母からデンモクを奪い取る。父広樹が声をひそめて「うちの子ばっかし歌わすな、菜々と稔にも振れ」と言う。ちょうど曲が終わったところなので控えめのトーンの声でもはっきり聞こえた。和枝が「いいんですようちの子たちは」と手を振った。


「歌わねぇんなら俺トイレ行くぞ」


 祖母が「わざわざマイクを通じて言わんでもよろしい」と言った。


「いってらっしゃい」


 大樹がスタンドマイクから離れてドアのほうに向かう。叔父夫妻が膝を揃えて大樹が通りやすいようにする。


「じゃ、優里のドライフラワーいこうかな。おばちゃんみのくんの歌声聞きたいなぁ」


 当人の返事を待つことなく、桂子は勝手に割り込み予約をした。稔が「僕?」と困惑した表情を作る。しかし姉の菜々が「ななもみののドライフラワー聞きたぁい」と言ったのできっと歌えないわけではないのだろう。向日葵もドリンクメニューを見ながら「いいねいいねみのくん優里似合うね」と適当に合わせた。


「これは、僕の好感度がかなり下がる歌詞なのでは」

「切ない女心を歌った歌だよぅ」

「ばあちゃんも聞きたい!」


 桂子がにたりと笑う。


「みのくん聞いたよぉ、前のカノジョさんと別れることになった時の話」


 稔が「ちょっと待ったちょっと待った」と言いながら手を振った。


「あんた二股かけてたんだってね」

「違うよ、同時期に僕のカノジョを名乗る女性が二人いただけだよ、ちゃんとタイミングはずらして交際期間が重ならないようにしてだね――」

「くーっ、モテる男は違うねー! 大樹からはそんな話聞いたことない」

「誤解だよ、僕は何もしていないのになぜかこじれていくんだよ。バイト先のカフェまで来られてさ、店先で泣かれて、危うくバイトをクビになるところだったんだから」


 やはり相当嫌な男のようだ。伯父である広樹が「伯父さんはお前をそんな子に育てたおぼえはありません」と天井を仰ぐ。一時期自宅でこの甥っ子を預かって世話をしていた彼からしたらいろいろ思うところはあるだろう。我が家で暮らしていた小学生時代は遠い過去となったのだ。


 稔は話を切り上げるために「歌います」と宣言して強引に前に出た。マイクを握る。菜々と桂子が何かをささやき合ってくすくすと笑っている。そうこうしているうちにイントロが流れ始める。


 おかしなマナー講師に何かを吹き込まれたわけではないが、向日葵はカラオケルームには上座と下座があると思っている。一般的な宴会の席と一緒だ。モニターディスプレイに近いほうが上座で、出入り口に近いほうが下座である。先ほどまで最年少の稔が一番下座であるドアの近くにいたのだが、彼がモニター近くのスタンドマイクを握ったので、その分隣にいた向日葵が下座に移動した。


「ひま、ドリンクいい?」


 一番モニターの近くにいる広樹が言った。向日葵は広樹にドリンクメニューを差し出した。そしてついでに彼の前から空になったグラスを下げる。テーブルの端に置く。そこには先ほど菜々と正樹が出したグラスが並べられている。広樹が「サンキュな」と言って片手を上げ、チョップするように前後に振った。


「俺の分もいいかな?」


 正樹が言うので、向日葵は「うん」と答えた。そしてソファの上に膝立ちになった。

 すぐそこにフロントにつながる受話器がある。これでフロントと通話をしてフードやドリンクの注文をするのも下座の務めだ。


 受話器を取る。コール音が響く。大晦日で忙しいのだろう、五回目でようやくつながった。


「あ、すみません。ドリンクの注文お願いします」


 正樹が「ウーロンハイ」と言うので、復唱するかのようにフロントに「まずウーロンハイ」と告げる。次に広樹が「ビール」と言うので、「次、ビール」と告げる。


「カシスオレンジ」

「レモンサワー」

「スナック盛り合わせ。枝豆のってるやつ」

「はい、はい、はい、順番ね、順番」


 自分も小腹が空いたような気がする。何かフードを頼もうか。つまみになるお菓子盛り合わせだろうか。もうすぐ帰宅して年越しそばを食べるというのにがっつりどんぶりを注文するわけにはいかない。


 ドライフラワーが一番のサビに差し掛かった。なんだかんだ言って稔も歌がうまい。難しい歌なのにメロディラインは完璧だ。


「メニューちょうだい」


 広樹が向日葵にメニュー表を返した。


 その時だった。


「おい」


 正樹がこちらを向いた。

 正確には、向日葵の隣にいる椿を見た。


 椿はずっと縮こまっていた。こういう場での振る舞い方がわからないらしい。大樹は外に出ていってもいいと言ってくれていたのに、外はあいにくの雨で寒く、まるで椿を戒めているかのようだ。彼は二度ほどドリンクバーに立ったが、ホットココアを取ってくるだけですぐに戻ってきて無言で向日葵の隣に座っていた。


 向日葵はぎょっとした。この叔父には椿に絡んでほしくない。椿は嫌々ついてきたのである。ここにいられるだけで花丸だ。これ以上負担をかけさせたくない。


「君も何か歌いなさい」


 最悪だ。


 しかし向日葵は受話器を手にしている。ここで向日葵がしゃべり出したり受話器を置いたりしたらフロントの店員に迷惑がかかる。叔父はこのタイミングを狙っていたのかもしれない。狡猾だ。


「場をしらけさせるな。来たんだから、一曲は歌いなさい」


 大樹はトイレに行っていて不在だ。稔は歌っている。椿に不利なシチュエーションだ。

 菜々が慌てた様子で腰を浮かせたが、彼女は父親に逆らえない。何かを言いかけて口を閉ざした。彼女はそういう子なのだ。役には立たなくても気持ちはありがたい。


 椿は黙って正樹を見つめていた。照明が暗いので表情がわかりにくいが、たぶんおもしろくない顔をしている。

 彼はこちらに引っ越してくるまで音楽を聴く習慣がなかった。大学四年間も一切歌わなかった。最近になってようやく料理をしながらYou Tubeを流す桂子にくっついていろいろ聴き始めたようだが、持ち歌などあろうはずもない。


 向日葵は早口で「あとカルーアミルクとお菓子の盛り合わせお願いします、すみません」と言って受話器をフックに戻した。ちょっと乱暴だったかもしれない、店員には申し訳ない。


「あのね叔父さん、そういううざがらみ――」

「わかりました」


 椿が頷いた。


「ほな菅田将暉の虹入れてください」


 驚天動地である。


「えっ、何て?」


 椿はしれっとした顔で繰り返した。


「菅田将暉の虹」

「はい?」


 桂子が「よし来た」と言いながらデンモクを操作した。向日葵にとリクエストされた大塚愛のさくらんぼと大樹にとリクエストされた湘南乃風の睡蓮花の上に菅田将暉の虹が入った。


 歌い終わった稔が呆然とその場に突っ立っている。そこに椿が出ていく。


「一曲やからな」


 そこにようやく大樹が帰ってきた。いざという時に役に立たない男だ。


 向日葵は手に汗握った。冷汗が止まらない。


 椿が歌を歌うところに居合わせるのは、人生で初めてだ。


 どうか恥をかかされませんように。


 祈っていると、イントロが流れた。


 菅田将暉の虹は最近では一番再生回数の多いウエディングソングだと言われている。明るい曲調に微笑ましいがほんのり切なさもある歌詞の、熱烈なラブソングだった。


「えっ、椿が歌うの!?」


 マイクに負けない声で大樹が叫んだ。椿がもう一回「一曲だけやからな」とマイク越しに言った。


 ディスプレイに流れる歌詞を横目で追いながら、息を吸う。


 向日葵の心臓が破裂する。


 しかし――聞こえてきた歌声は、きちんとメロディラインをなぞっていた。


 そんな歌は、椿には似つかわしくないと思っていた。大きな声を出すこともない、はっきりした言葉で感情表現をすることもない、そんな椿の生き方に本業は俳優で腹から声を出して歌う菅田将暉のラブソングはないだろうと思っていた。そういうタイトルの曲があることを知っているというだけでも驚きなのに、ここまで綺麗に歌えるとは思わなかった。


 安心して歌を聴ける。


 歌詞が染み入ってくる。

 結婚してよかった、と思う。


 そうか、この人と結婚したのか、といまさらながらに思った。


 向日葵の目から頬にぼたぼたと涙が流れ落ちた。


 桂子が手を持ち上げ、親指と人差し指で輪を作りながら「私が仕込みました!」と言った。きっと平日昼間に通って練習させたのだろう。悔しいようなありがたいような、複雑な気持ちで笑った。


「あとまちがいさがしも歌えるんだよーっ」

「一曲やて言うてるやろ!」


 曲が終わった。椿が戻ってきた。向日葵はたまらなくなって椿を抱き締めた。


「僕の気持ち、届いた?」


 その様子を、正樹が眺めていた。



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