第2話




 血が、まとわりついている。お母さまに花瓶を投げつけられたあの日から、私の手のひらには消えない熱が帯びている。


 あれは、レイヴェルと出会った冬が終わろうとしていたころのことだった。


 八歳の私は夜な夜な、窓辺で指を組みながらひっそりと涙を流すことを繰り返していた。


 レイヴェルやマリーの前では気丈に振る舞っていたけれど、お母さまに花瓶を投げつけられた心の傷はすこしも癒えていなかったのだ。


「お母さま……どうしてですか。私のこと、嫌いになってしまったのですか」


 見えなくなった目で暗闇に問いかける。傷はすっかり塞がっているというのに、いつまでもずきずきと痛んで、そのたびに手のひらが焼けるように熱かった。忌まわしい血の温度は、私の価値は人形姫として使命を果たすこと以外にないのだと、私に思い知らせるようだった。


 そんなこと、とっくのとうに受け入れたつもりでいたのに、お母さまに拒絶されたことで、途端に生々しい現実となって私の胸に突き刺さったのだ。


 私はこのまま、生贄となるまでこの傷を引きずって生きていくしかないのだろうか。


 そう思うと、気が遠くなるような絶望を覚えた。


 ひとりぼっちは嫌だ。果てのない闇は、この身に宿った孤独を浮き彫りにする。


「姫?」


 ぱっと、頭の中に青空が広がった。息を呑んだ拍子に、涙が頬を滑り落ちていく。


「レイヴェル……?」


 お兄さまが連れてきた朗読師である彼とは、まだ互いに心を開いているとは言いがたい関係だった。


 彼は親切にしてくれているが、それはあくまで仕事上の優しさなのだと嫌でもわかってしまうような表面的なもので、私はこの朗読師との距離を掴みかねていたのだ。


「どうして、ここに……」


 今夜の朗読は、もう終わったはずだった。マリーもレイヴェルもいないと思っていたから、こうしてひとりで涙を流していたのに。


「本を一冊置き忘れておりましたので、取りに戻ったのです。……一応、ノックはしたのですが」


 泣きじゃくっていたせいで、彼の訪れに気づけなかったようだ。


 人形姫でありながら、人前で涙を流してしまったことを激しく後悔した。


 涙をなかったことにするように、手の甲で目もとをごしごしと拭う。


「そのように強くこすってはいけません。……どうして、泣いておられたのです。何か嫌なことがありましたか」


 戸惑うようなレイヴェルの声に、ますますいたたまれなくなった。


 彼は、朗読師として仕事をしにきてくれているだけなのに、困らせてはいけない。


「……御手に触れますよ」


 それなのに、涙に濡れた私の手を取るその温もりが、あまりに優しかったものだから、我慢できなくなってしまったのだ。


「……ずっとね、この手に血がまとわりついているような気がするの。怪我をしたときについた血が。ときどきね、熱くて熱くてたまらなくなって……私は、人形姫なんだ、って思い知るの」


 こんなこと、誰にも言うつもりはなかった。人形姫が弱音を吐くなんて、許されることではないのだから。


 それでも、夜と涙に酔わされているのか、はたまた脳裏に広がるこの優しい青空に絆されているのか、次々と言葉があふれ出してしまう。


「それは別に嫌じゃないのだけれどね……それでもね、ひとりぼっちは悲しいわ」


 彼はじっと黙って耳を傾けていた。呆れているのか、憐んでいるのか、彼の沈黙が何を物語っているのかわからない。


「……あなたはずっと、こうしてひとりで泣いておられたのですか。誰もいない、暗闇の中で」


 私の手を取ったレイヴェルの手が、労るように私の指を開かせる。彼は指先で何度か私の手のひらを撫でた。


「暗いのも、熱いのも……恐ろしいものですよね。僕も嫌いです。ひとりだと、どうすることもできない」


 言葉通り、彼の声は苦痛に耐えるように震えていた。私より六つも年上の相手なのに、まるで自分と同じくらいの少年を相手にしているような気になって、心が揺らぐ。


 ……レイヴェルも、寂しいのかしら。


 なんとなく、もっと彼に触れたくなって、繋いでいないほうの手をわずかに上げかけた。


 だが、彼に撫でられていた手のひらに、何か柔らかなものが触れて動きを止めてしまう。指先ではない、知らない感触だった。


「姫君には、こうしてくちづけを捧げるのでしょう。あなたを悩ませるこの熱を、これからは僕が食べて差し上げます。……だからもう、泣かないでください。コーデリアさま」


 彼が名前を呼んでくれたのは、これが初めてのことだった。


 たったそれだけのことなのに、ぽろぽろと、涙があふれて止まらなくなる。


 ……あなたは私を、見つけ出してくれたのね。人形姫じゃない、コーデリアとしての私を。


 深い闇の中で、ようやく、私と手を繋いでくれるひとに巡り会えた気がした。


「レイヴェル……!」


 人形姫としての矜持も忘れて、私は手探りでレイヴェルに抱きついた。


 すぐにレイヴェルが私を引き寄せ、なだめるように背中をさすってくれる。


 ぐちゃぐちゃに泣きじゃくりながら彼の肩に顔を埋めれば、彼もまた、縋るように私に顔を擦り寄せるのがわかった。


「レイヴェル、もういちど、名前を呼んで」


「いくらでもお呼びいたしますよ。コーデリアさま」


 まるでとても大切な言葉を口にするかのように優しく、彼は私の名前を繰り返した。


 その敬愛が、私にとっては盲目の闇を照らす光となったのだ。






 それから私たちの距離はぐんと縮まって、まるで仲のよい兄妹か何かのように過ごした。


 ふたりきりで過ごす朗読の時間が、私たちの唯一の生きがいだった。深い闇の中でも私は確かにここにあるのだと、彼の空色の声だけが知らしめてくれたのだ。


 今にして思えば、依存しあっていたと言ってもいいのかもしれない。お互い、ようやく寄りかかれるものを見つけた安心感に包まれて、私たちは小さな幸福を育んでいた。


 それは今も変わらない。私たちは、ふたりきりで幸せだった。


 親愛と依存から、恋が芽生えたのは必然だったのだろう。言葉にしなかっただけで、私たちは名前を呼び合ったあの日から、ずっと惹かれあっていた気がする。


 レイヴェルと一緒なら、何をしていても楽しかった。何百回と読んだ御伽噺でも、すこしも退屈しなかった。


 私が歳を重ねるにつれて、ふたりで物語をつくることも増えた。まるで、私が生贄となって消えてしまう前に、どうにか形あるものを残そうと足掻くかのように。


 その夜も、私たちはソファーに並んで短い物語をつくっていた。私が十七歳になった冬のことだった。


「コーデリアさまはすばらしい才能の持ち主だ。こんな展開は、僕には思いつきません」


「私に優れた創造力があるとしたら、それはレイヴェルが養ってくれたおかげでしょう? あなたの手柄だわ」


 物語の骨組みは、レイヴェルが作り上げてくれることが多かった。ふたりであれこれ言いながら、それに肉付けしていくのだ。


「こんな優しい結末は、僕には書けませんよ。あなたがいなければ、幸福も平穏もありえない。物語にも、この世界にも」


「ずいぶん大胆なことを言うのね」


 口もとに手を当ててくすくすと笑えば、レイヴェルもまた、笑うように吐息をこぼしたのがわかった。


「冗談で言っているつもりはありませんよ」


「ええ、あなたは私に正直だもの」


 紙とインクの香りに包まれながら、彼と笑いあう。何にも代えがたい大切な時間だった。


 でも、それだけでは物足りなくて、手探りで彼の肩に寄りかかる。


 ネグリジェ越しに、じんわりと彼の温もりが伝わってくるこの感覚が好きだった。


「どうなさいました?」


「……ちょっとだけ寒いわ。火を大きくするほどではないけれど」


「では、こうして寄りかかっていてください。すこしは暖かくなるでしょう。……肩に触れますよ」


「……ええ」


 睫毛を伏せ、彼の温もりに酔いしれる。


 ふたりきりでも、「寒さを凌ぐため」なんていう大義名分がなければ触れあえなかった。


 そうしなければ、どこまでも求めあってしまいそうで。


「……薔薇の香りがします」


 いつもよりもずっと近い場所で、空色の声が響く。その甘やかさに頬を緩ませながら、すりすりと彼の肩に頭を擦り寄せた。


「レイヴェルはいつもそう言うわね。薔薇の香りは好き?」


「咲いている薔薇についてはなんとも思わないのですが、不思議とこの香りは好きです。……あなたは、幸せで、良い匂いがして、色彩にあふれた美しい物語そのものだ」


 酔いしれるように呟いたかと思えば、レイヴェルは肩に触れていた手を滑らせて、そっと私の左手を取った。


 そのままゆっくりと手を掲げ、手のひらに唇を触れさせる。柔らかな熱が触れられた箇所から広がって、今にも溶けてしまいそうだった。


「あなたにそう言ってもらえるなんて、光栄だわ。……どうか最後まで、見届けてね」


 離れがたい気持ちを飲み込んで、静かに希う。彼は私の手に指を絡め、縋るように私に寄り添った。


「はい。あなたの物語が終わるそのときまで……おそばにいさせてください」


 その誓いだけが、ふたりにとっての希望だった。道標だった。最後まで彼とともに生きるのだと、心から信じて疑わなかった。


「レイヴェル、私が眠るまでもういちどお話をして」


 彼と、抱きしめあったまま一緒に眠ることができたらいいのに。


 今生では叶うはずのない願いを抱いて、ふたりで肩を寄せあう。


「はい……あなたが望む限り何度でも。コーデリアさま」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る