直視

 目が覚めると、朝だった。夕方からご飯も食べずにずっと寝ていたようだ。それだけショッキングな出来事だ。


 私は改めて左腕を見る。そこには無数の閉じた瞼があった。意識すれば瞼は開き、見える視界が脳に映し出される。増えた視界に慣れてきたこともあり、もう倒れることはない。


 だけど腕に目があるという異常は嫌悪感を通り越して恐怖に近いものがある。私は腕の瞼を閉じ、冬物の長袖手袋をはめた。片腕だけだと不格好なのと怪しまれそうなので、両腕に。冬には少し早いけど、不自然ではないはずだ。


 臭い物に蓋をした程度だけど、安心したこともあって空腹が襲ってきた。貧血に似た眩暈とお腹への重み。部屋を出て朝食をとる。母親に手袋を見られてけげんな顔をされたけど、追及はされなかった。私の自由を尊重しているのか、私との距離感がつかめないのか。おそらく後者だ。


 朝食を食べて家を出る。黒崎先生の言う通り、朝はしっかり食べたほうがいいのだろう。いつもよりも足取りは軽い。それでも学校が近づくたびに陰鬱になるし、スマホの通知が鳴るたびに心臓が締め付けられる。


 大丈夫。大丈夫。そう言い聞かせて、足を動かした。それ以上歩くなと訴えるように関節が痛み、重く地面に縫い止めるように胃が痛い。それでも学校に行かないという選択肢はなかった。


 行かないとどうなるかわからない。従わないと何をされるかわからない。


 赤川達の顔が脳裏に浮かぶ。その挙動を思い出すたびに、心が締め付けられる。彼女達にされたこと。彼女達に言われたこと。彼女達が嗤ったこと。その全てが私を締め付ける。


 青木の体が脳裏に浮かぶ。嫌らしい手つき。生暖かい体温。異性に対する恐怖と嫌悪感。弄ばれ、嬲られる絶望感。その何もかもが私の体と心を壊す。壊していく。体を重ねていくたびに、激しく強く壊される。


 だめ。考えちゃだめ。耐えないと、我慢しないと。そうすれば、きっといつか。


「は、ぁ……」


 大きく息を吸って、吐き出す。胸のつかえがなくなった気がした。気やすめだろうが何だろうがどうでもいい。それで足を動かす力ができた。私はそのまま校門を抜けて――


「おい、白石。相変わらず暗い顔してるなー!」


 言って肩を叩かれる。遠目には仲のいい学友のように。だけど肩を叩く力に遠慮はなく、そのまま爪を食い込ませるぐらいに力を込めていた。周りからそれを隠すように取り巻きの三人に囲まれる。


 赤川と、その取り巻きだ。そのまま人気がいないところに誘導するように引っ張っていく。いつものパターンだ。一階の女子トイレか、校舎裏か。そこでお金を要求するか、センパイ関係の事で何か言ってくるか、知りもしない理由で嗤ってくるか。


「昨日の話は終わってないからな。センパイにコナかけようとして、ワザと倒れたんだろうが。仮病使ってまでセンパイの気を引きたいとか、サイテーだな、お前」


 肩をつかむ手に力を込めてくる赤川。ああ、これはセンパイのパターンか。と言うことは殴ってくるから外から見えないようにトイレだな。いやになるぐらいに理解できる。


 見た目は仲良く寄り添うようにしながら、見えないところで拳を当てて力を込めてくる。痛い。だけど声をあげると低い声で黙れと脅される。その声で私は恐怖で頷くしかなくなる。逆らおうなんて、とても思えない。


 そのまま予想通りトイレに連れ込まれる。トイレを利用している人が誰もいなくなり、始業のチャイムが鳴った後で私は赤川に頬を叩かれた。他の三人は見張りと私が逃げないように逃げ道を塞ぐ役だ。


「調子乗るなよ。お前みたいな女、センパイが好きになるはずないんだよ!」

「…………っ」

「ちょっと成績が良くて胸が大きいぐらいでいい気になりやがって。か弱いふりして男を誘うとか、ホント変態だな!」

「…………っ」


 叩かれる。叩かれる。制服をつかまれ、頭や体を叩かれる。取り巻きの一人が掃除用具入れの中からバケツを取り出し、水をためて私にかける。濡れた私を見て、嘲笑する。


「これで少しはきれいになったんじゃない? 美化って大事よね」

「男を騙すビッチの匂いを洗い流さないとね」

「いい格好だな。もっと水かけてやるよ」


 ああ、もう今日は帰らないとダメだな。そんな場違いなことを考える。赤川の顔を見るのが辛いし、その方が楽だ。そう思わないと、耐えられない。


 シャッター音が鳴る。濡れた私の姿を、スマホのカメラで撮影したのだ。


「うわ、きたなーい。ゴミみたい」

「女として終わってるわ。もともとか。アハハハハ!」


 もう、どうでもいい。目を閉じて、赤川という嵐が過ぎ去るのを耐える。嘲笑、暴力、尊厳破壊。心に壁を作って、うずまっていればいつかは過ぎ去る。きっと、いつかは――


 目を閉じたことで得たのは、暗闇ではなかった。


 昨日も見た、赤川の視界が私の脳裏に映し出される。


 トイレの壁にうずくまり、嘲笑と暴力を受けてボロボロになり、水をかけられて濡れている自分を。


 なに、これ?


 それが白石瞳わたしだということはわかっている。赤川から見た、白石瞳わたしだということは、分かっている。だけど、だけど――


 あまりにも惨めすぎる。


 自分自身しらいしひとみの姿を直視した。あまりに非常識で、あまりに不格好だ。ここまでされて何の抵抗もしない。そんな自分が惨めになってきた。


「せっかくだし、洗ってやろうぜ」

「臭いメスの匂いをゴシゴシしてあげるわ」

「きれいにしてもらえるんだ。感謝しろよ」


 赤川の命令で取り巻き達がトイレブラシを手にする。それで私の体をこすろうとしていた。汚物のように、そうすることが正義であるかのように。


「汚物は消毒だ、ってセンパイも言ってたしな。洗剤たっぷり使ってやるよ」

「……センパイって、誰?」


 惨めな自分に耐えかねて、私は口を開く。見なければ耐えられえた。だけど見てしまった。見た瞬間に、悔しさが胸を揺るがした。それが、口を動かす力になった。


「ああ!? センパイの事を知らないとか、今更ふざけたこと言うな!」

 

 言って私を蹴る赤川。初めて絡まれた時と同じ言葉。だけど今は遠慮がない。痛みに耐えながら、私は言葉を続けた。


センパイの事なの?」

「……ああ?」

「紺野センパイ? 蘇芳センパイ? それとも桜坂センパイ?」


 私と赤川の間に、小さな緊張が走った。他の人達にはわからない。確かな立場の入れ替わりが生まれる。


「はぁ? 何言ってんの?」

「テキトー言って誤魔化そうとしても――」

「ごめん。ちょっと席外して」


 取り巻き達が笑う中、赤川は声色を変えてそう告げる。


「え?」

「ちょ、いきなり何言うのよサトコ」

「いいから! こいつと話させて!」


 癇癪を起こしたような声。取り巻き達は訳が分からないという顔をしてトイレから出ていく。


 トイレには私と赤川の二人だけになった。私を上から睨む赤川。その形相に怯える私。だけど、立場は逆だった。赤川の秘密を知る私の方が、今は強かった。


「昨日は蘇芳センパイと6時から」

「……っ!」

「その前に、桜坂センパイと」

「見てた、の……?」

「紺野センパイを入れると三股、だよね」


 私の言葉に少しずつ後ずさる赤川。


「なんで知ってんのよ」

「…………」


 言えるはずがない。腕に目が生えて、貴方の視界を見ることができたなんて。


「何か言えよ! この事はセンパイには喋ったのか!?」

「三人には喋ってない。知っているのは、私だけ」


 ゆっくりと喋りながら、立ち上がる。壁を手にして、ゆっくりと。水滴がぽたぽたと床を濡らす。呼吸を整え、たっぷり時間をかけてから言葉を続けた。


「黙っててほしかったら、私に関らないで」

「何命令してんだよ、白石の分際で……!」


 カッとなる赤川に、冷たく続ける私。

 

「赤川が誰と付き合おうが、私には関係ない。だけどこれ以上何かするなら、このことを三人に言うから」

「……っ!? や、やめてくれ! センパイにバレたら捨てられちゃう! 誰も愛してくれなくなっちゃう!」


 私の言葉を聞いて、顔を青くする赤川。あれだけセンパイに執着していたのだ。私の言葉は効果てきめんのようだ。


 立場は完全に逆転した。泣き出しそうな赤川の顔。赤裸々になった弱点を握っている私。私がそのつもりになれば、赤川とセンパイの関係は破滅する。その恐怖に逆らえない赤川の、情けない顔。


「じゃあ、これ以上私をいじめないで。話しかけてこないで。あの三人も私に関らせないで。それだけでいいから」

「あ……!」


 言って私はトイレを出る。さすがに濡れたまま授業に出るのは無理なので、そのまま学校を出た。濡れたままだと風邪をひきそうとか思いながら、最後に泣きそうな顔をした赤川の顔を思い出す。


 やった。やった。ざまあみろ。

 

 濡れて惨めな姿だけど、私は確かに勝利の優越感に満たされていた。


 

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