開眼

 感覚が薄れていくのがわかってきた。毎日が痛いと苦しいで染められていく。


 朝起きてSNSを開くのが苦痛だった。開いた瞬間に赤川とその取り巻きからの連絡が並んでいた。大抵は罵倒と命令だ。トロいだの頭悪いだのと言った単純なモノや、言ったことのない罵倒を私が言ったことにされて責められたり。


 特に赤川からはセンパイ関係の辛みが多い。やれセンパイに近づいただの、やれセンパイがお前の方を見ていただの。そんなの知らないとか、センパイって誰とか返事をすれば、『なんで知らないんだバカ』とか『いい子ぶるなクズ』とか返事が返ってくる。そして学校でそのことを責められる。


 正直返事を返すのも気が重い。相手の思うとおりに返事を返さないとそれがいじめの引き金になる。謝ったら謝ったで『お前は謝ってばかりで行動が伴ってない』『頭使って返事しろ』と言われる。何が正解なのか全くわからない。


 そしてそれに青木が加わった。


 火曜日と金曜日の放課後に呼び出され、身体を求められる。求める、なんて優しいものじゃない。逆らえない私に命令して、暴力的に体を弄ばれる。青木の思うままに、青木の発想のままに、青木が飽きるまで、青木が許すまで、何度も何度も。


 呼び出されない日も、けして解放されるわけではない。スマホに私との行為中の画像を送ってくるのだ。そして詳細にその時の感想と私の反応を文章で送ってくる。気持ちよかった。感じてたんだろ。相性ばっちりだ。その言葉だけで吐気がしてくる。


 自分が何をされたのか。その時の記憶を思い出してしまう。会うたびに増えていく欲望の手が、私をとらえて離さない。白くドロドロした男の欲望が念入りに塗りつけられる。黒くおぞましい手が私をいやらしく調べ、男に翻弄される女体であることを教えられる。


 救いがあるとすれば、青木は学校には来ないことだ。SNSの返事も適当で許してくれる。だけ逆らうことは許されない。断ったらこの写真をネットにばらまく。動画もある。もう青木の中では私は都合のいい道具でしかない。……そして、それは間違っていないのだ。私は青木に逆らうことはできない。


 悪夢と倦怠感から満足に眠れず、胃痛で食べ物もろくに口を通らない。私は朝食も取らずに学校に向かう。なんとかジュースだけ飲んで、空腹と乾いた喉を満たす。それさえも一苦労だ。えずいて吐きそうになるのを必死にこらえた。


 校門をくぐって教室が近づくにつれて、体中が痛くなる。膝が、喉が、胃が、目頭が。だけど足止めることはできない。教室に続く階段の踊り場途中で一旦立ち止まり、何度も深呼吸する。泣きそうになる心をどうにか押しとどめた。


 大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。大丈夫、我慢すればいい。


 何が大丈夫なのか。我慢すれば何かが解決するのか。そんなことを考えたらおしまいだ。希望なんてないけど、逃げたらもっとひどくなる。だから耐えないと。心に蓋をして、いろいろなモノから目を背けて、一歩踏み出した瞬間――


「あ、れ?」


 ぐにゃり、と視界が歪んだ。


 それが貧血と過呼吸で倒れたのだと気づいたのはだいぶ後の話。気が付けば、私はベッドの上で寝ていた。保健室の天井が見える。けだるさのままに横になっていると、カーテンが開いた。黒崎・健介。保健の先生だ。


「大丈夫かい? 貧血で倒れたみたいだけど」

「あ……。はい、大丈夫、です」

「あまり大丈夫じゃなさそうだね。ゆっくり寝ておきなさい。クラスの方には伝えておくよ」


 起き上がろうとする私をやんわり手で制して、黒崎先生はどこかに連絡を取る。職員室だろうか? 起き上がるだけの気力も体力もない私は、そのまま横になった。


「朝ご飯はきちんと食べたのかな?」

「いいえ……。あんまり」

「それが原因かな。朝はしっかり食べないといけないよ。女の子にはいろいろ事情があるんだろうけど」


 朝ご飯を食べなかった理由をダイエットか何かと推測したのか、そんなことを言う先生。虐められて食欲がない、なんて想像の外だろう。胃が痛い。こんな状態だと何を食べても吐きそうだ。


「とりあえず、これでも食べてなさい」

「……ヨーグルト?」

「これならそんなにカロリーもないからね」


 ダイエット関係ない、と思いながらふたを開けてヨーグルトを食べる。喉を通って胃に染み入り、身体に満ちていくのが分かる。胃の痛みが少しずつ和らいでいくのが分かる。私は体が求めるままに手を動かし、ヨーグルトを完食した。


「うんうん。いい食べっぷりだ。先生が太らない食事をまとめておくから、きちんと食事は食べるんだよ」

「……はい……はい……」

「今日はゆっくり寝てなさい。おそらく食事を抜いたことによる貧血だろうから、ゆっくり食べてゆっくり休めば回復するよ。

 あるいは何か思い当たることでもあるかな? 持病があるとか、心配事があるとか」


 確認するように問いかける黒崎先生。


 いじめられているんです。おどされているんです。


 そう言いかけた瞬間に、赤川たちの顔と笑い声が脳内に浮かび、青木に体の奥の奥まで触れられた感覚が襲う。誰かに話せばもっと酷いことになる。今以上に? その恐怖が体を硬直させた。声が止まり、ただ首を横に振ることしかできなかった。


「そうか、分かったよ。とにかく今日は休むんだ」


 ここですべてを話していれば何か変わっていたのかもしれない。あと少し勇気を出して赤川たちの笑い声や青木の感触を振り払えれば。涙を流して、鼻水を垂らして、口から嗚咽を吐きながら、この気持ち悪さを伝えていれば。


(これでいい……。我慢すればいい。そうすれば、大丈夫だから)


 すべてを飲み込んで、ベッドに横たわる。布団をかぶり、胎児のように丸まった。考えるな。考えるな。今は寝よう。寝よう。眠れないかもしれないけど、横になって何もかもから逃げよう。赤川も青木もここまでは来ない。


 スマホの通知が鳴る。軽快な音楽が、赤川の激しい罵声に聞こえる。青木の嫌らしい声に聞こえる。目を塞ぎ、耳を閉じ、丸くなった。もういや。私が何をしたの? 私は何も悪いことしていないのに。


 布団の中で目を閉じても、赤川のいじめが心を傷つける。青木の欲望が肉体を弄る。考えないようにすればするほど、鮮明になってくる。あの日、されたこと。あの日、受けたこと。あの日、奪われたこと。あの日、失ったこと。


 苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い、苦しい、痛い――


「我慢しなきゃ、我慢しなきゃ、我慢してたらいつかは、それまで我慢すればきっと」


 きっと救われる。きっと何とかなる。だって私は悪いことは何もしていないから。ないもしていない。だからきっと、救われる。それまで、待てば――


「無視するなこのクズ!」


 そんな希望を吹き飛ばすように、かぶっていた布団をはがされる。そして制服をつかまれて、強引にベッドから落とされた。


「いい加減にしろよ白石! お前、センパイに保健室まで運んでもらったんだって! 調子に乗るな!」


 そして蹴られた。容赦ない一撃に意識が遠のく。気絶することを許さないとばかりに胸倉をつかまれて、平手打ちされる。


「わざとセンパイの前で倒れたな、お前! センパイの気を引こうとして! のろまで陰キャのくせに、やることが狡いんだよ!」

「し、知らない……! 知らない……! やめて。お願い……!」


 顔をかばうようにして懇願するけど、赤川がそれを聞くはずがない。


「やめてほしいのはこっちだって何度言えばわかるんだこのビッチ! アタシらに逆らったらどうなるか、本気で教えてやる!

 叫んでも無駄だからな。黒崎はアカネ達が連れ出したし、しばらくここに誰も来ないからな!」


 言いながらカッターナイフを取り出して、私の顔に押し当てる。ナイフを遠ざけようとするけど力が入らず、興奮した赤川は逆にいつもより力が増していた。力を込めて引かれたら、顔に傷が残る。


「不細工になったらセンパイもお前に興味をなくすからな。感謝しろよ」


 狂ってる。本気でやるつもりだ。それが十分に伝わってくる。それを止める手段はない。どうして? どうしてこんなことになったの? 私が何か悪いことした? センパイなんて知らない。知らないのに!


 目の前に迫るカッターナイフの恐怖から逃れようと目を閉じた。目の前が真っ暗になる。数秒後に刻まれる顔と心の傷に耐えようと心を閉ざした。


 なのに私の脳裏には赤川の顔が写っていた。目は閉じているはずなのに。


 見えたのは赤川が驚き、そして脱力して倒れる姿。カン、とカッターが地面に落ちる音。私を押さえる力も消えてなくなり、私は恐る恐る目を開ける。


 信じられない光景が二つあった。一つは完全に気を失った赤川。目を押さえ、地面に倒れている。呼吸が生きていることを示していた。何がどうなっているのか、全然わからない。


 そしてもう一つ。それは私の左腕。そこには、目があった。比喩表現ではない。言葉通り、そこには無数の目が存在した。


 まるで無数の吹き出物のように、腕全体に瞳があったのだ。

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