ものすごくちこくして、ありえないほど辛い
飼い主を好きになってしまった小魚の俺が、水槽に籠城してからはや数日。
ここ数日俺は、マキさんが家を出たら人の姿で働いて帰ってきたら魚に戻るのを繰り返し、どうにか人体での接触を避けているというわけだ。…なんの役にも立てなくなった俺はせいぜい、魚としてあるべき生をまっとうするだけだから。
最初こそ困惑していたマキさんも、もはや今まで通り接してくれているようだし。
ってかまあ、元々こういう生活を求めてたんでしょう?
「はあ〜暑かった…。」
今日もマキさんは部屋に戻るなり、俺の水槽に近づいてきた。
「今日は何してた?泳いでた?」
泳ぐ以外の何ができるんすか!と軽口を叩いてやりたくなったが、まあ尾ひれをヒラヒラさせることしかできない。
…ホントは俺もバイトしてたんで、知ってますよ。
マジで今日、溶けそうに暑かったっすねぇ。
俺の気も知らないマキさんは、一人で勝手にしゃべりだす。
「そうか、ヒレの筋トレしてたか〜。
…ヒレーニングってやつですか?たははッ!」
マキさんは己のギャグにウケたのか、床を転がり始めてしまった。
「なっ、なははッ!」
えっ、マキさんってこんな…こんな何ていうか残念な感じの動き…する人だったっけ。
初めて見る好きな人(兼飼い主)の不審挙動に、いろんな意味で胸の高鳴りが抑えられない。というかマキさんはふつーに、暑さで正気失ってるのかもしれない。だったらもう、助けるしかない…のか?
しかし突然マキさんは、エキセントリックな動きを止めた。
「…」
往年のヒットギャグ的ポーズで硬直したマキさんは、思い出したようにつぶやいた。
「…もしかして、もう人には戻れない?」
一瞬で頭の中が、真っ白になる。違う……伝えなきゃ。でも俺は、…。
俺が迷っているうちに、マキさんは何事もなかったように起き上がり、どこかに行ってしまう。
…人型になってぜんぶ、ぶちまけてしまえば良かったのかな??びしょ濡れでマキさんにすがりついて。しかし同時に、これまでに俺を見限った元・飼い主たちの顔が浮かんでくる。
困惑、恐怖、嫌悪。
マキさんにあんな表情を見せられたら、俺はたぶん一瞬でダメになるだろう。
マキさんは唯一俺を見捨てなかった人間で、唯一俺が好きになった人だから。
・・・・
どうにも食欲がわかない夜だ。
マキさんが撒いてくれたペットフードも、ほとんど底に沈めてしまった。
もう俺、ただの魚としてもお役御免?
水槽のエアポンプに聞いても、あぶくを返すだけだった。
・・・・
あれから次の日、つまり今日は土曜日だ。
普段は昼まで寝ているマキさんなのに、今日は朝から準備をしている。どこかに出かけるみたいだ…まあマキさんが誰と出かけようが、ペットには関係ないんだけどさぁ…
…でもまあ、気にはなる。マキさん可愛いし。
ってかふつーに好きな人だし。
なすすべもなく水槽をウロウロしていると、突然変な声がした。「…アレッ12時半?」
マキさんはそのままアレアレッと連呼しながらスマホと置き時計を見比べている。首の速さが尋常じゃない。怖い。
置き時計は11:30だが、壁の時計は12:30だ。事態を察した俺は、心の中でつぶやいた。ご、ご愁傷さまです…「ちょっも〜っ…止まっとるやないかいッ!!」
マキさんはきっかり1時間前の時刻を指す置き時計に盛大なチョップをかましたが、ゴロスコという音とともに時計が落下したとたん「敷金礼金」と絶叫し全力でフローリングをさすり始めた。
「ちょも〜さすがに1時間はマズイよマキ殿ッ!!さすがに1時間遅刻ゥは殺されるですゾ!!!!」
完全に自我を失ったマキさんは靴下を履こうとしながらスマホをカバンに放り投げかつ失敗しては床に叩きつけ、今度はスマホを撫でさすり始めた。
は、はわわわわ…
しかし今度は俺が(内心)絶叫する番だった。
「もう絶対いるよなぁ、伊澄………」
は?イズイズイズミって、あのイズイズイズイズミ??
いやまだアイツと決まったわけじゃない。
狂ったように水槽を徘徊する俺に、マキさんが無意識追い打ちをかける。
「秒単位で遅刻認定しそうだもんなあ、アイツ……」
…確かに。いやでもまだ…「なんだかんだいつも眼鏡の奥が笑ってないんだもんなあアイツ……」
はいイズイズイズミ確定!!俺ご愁傷さま!!!!!
一応マキさんの身なりが通常運転なのが不幸中の幸いだ。フルメイクでスカートでも履いてたらいよいよエンド・オブ・俺で水面に浮いてた。
にしてもえ、ふたりっきりで土曜日ランチ…デート…?ってだけでもはや俺死亡確定ですわ!確定申告年末調整!節税節税しぇつじぇ……っ
しかし相当どうかしちゃってる俺を置いてマキさんは「逝ってきます」と宣言し、裸足のままスニーカーで部屋を去っていく。
「…マキさん待って!!!!」
気付いたら俺は水槽の外で仁王立ちし、マキさんの後を追うことに決めていた。
・・・・・・
・・・・
・・
「…というわけでどうしたらいいか分からなくて、ちょっと伊澄君の意見を聞いてみたい…と思いまして、お呼び立てした次第、です。」
「…。」
なんだかチョッピリお怒りモードで私の前に座っている、いつにも増してイケメンな大学生はまごうことなき船頭 伊澄(20)。
そしてこの私、前田マキこと独身アラサー非正規雇用非常勤女(年齢非公開)は今このように…
にわかには信じがたいハイレベルイケメン(←私の事が好き?)の面前で
にわかには信じがたいクレイジーな悩みを
にわかには信じがたい大遅刻の後やらかしているなう(死語)…ですぞ(笑)(笑)
自分自身が生み出したクズすぎる現実をコミカルに意訳して心の安寧を保っている私に、チョッピリどころかもはや明らかバチギレのイケメンは静かにその長い脚をお組みになった。
そうして伊澄はしばらく考え抜いた後、やっと口を開く。
「えっと…まず状況を整理させてください。」
「は、はい。」
こうして、伊澄がブッキングしてくれた超絶オシャレなカフェの個室席にて
いつもよりどこかイケメンな
『冷血の伊澄(判事※
アーンド
ほぼノーメイクかつ実は靴下履いてない
『大遅刻のマキ(被告人※どう考えても有罪)』による、二人っきりの断罪裁判が静かに開廷した………
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