シェイプ・オブ・ウォータードロップ

部屋のドアを開けた瞬間、シズクが飛び出してきた。

と同時に、一瞬で戸惑いの表情になる。


「おかえりなさ…。」


「説明は後で。とりあえず、失礼します。」


伊澄がお構いなしに足を踏み入れると、シズクは反射的に伊澄の肩を掴む。


「おい!」



しかし、伊澄もなかなかの剣幕だ。


「張り合ってる場合じゃないでしょ?状況見て下さいって。」


シズクはヴ…等々うめき続ける私を見やや冷静さを取り戻したようだが、目つきが尋常じゃないくらい怖い。ていうかこいつら、放っといたら殴り合いでも始めるんじゃないの??私の部屋で…。



頭痛に加えて謎の心配事が増えた私の頭は、いよいよ本格的に痛み始めた。



「イダ…ッ」


「あ、やべ!すみません。」



伊澄はシズクを置いてさっさと私をベッドに横たわらせると、中腰で話しかけてきた。


「ゆっくり休んでくださいね。」


「ありがと…「言われなくてもそうするわ。」


「こ、こらっ!」


「先生は休んでて下さい!…帰りますよ。これでいいですよね?」



しかしシズクは、去りかけた伊澄の前に立ちふさがる。



「状況くらい説明してくれ。大体でいいから。」



伊澄は渋々という感じでうなずいた。




「…昨日から僕と先生は出かけてました。


誤解の無いよう言っておきますけど、二人で出かけたのはあくまで『僕の』わがままです。


あと、行き先遠くて割と早い時間に電車無くなっただけで外泊はあくまで『仕方なく』。それから普通に別れて帰る予定だったんですけど、帰りの電車で先生が急に頭痛くなったんで、部屋まで送ることにした。これで終わり。


…とにかくこの件に関して先生は何も悪くないんで、言いたい事あったら全部俺にぶつけて下さい。」




伊澄はいともスラスラと言い終えたが、シズクの理解は追い付いていないようだ。



「…はぁ。」



もしかしたら、『ガイハク』の意味を知らないのかもしれない。




要領を得ないシズクの反応に、伊澄はだるそうに息をつく。


「言いたい事特に無いみたいなんで、失礼します。先生、また来ます。」


「え…?」「はぁ!?おいっ」



えっもう来んでええよっ!!全力の心の叫びは声にならず、空しくわが胸の内でこだましたのだった。




・・・




伊澄が去った後、部屋は何とも言えない空気が流れた。


シズクはしばらく呆然と突っ立っていたが、突然私にかがみこんできた。




「マキさん。空気悪くしてすいません。」


「え?あぁ…いいよいいよ?!」




シズクはふいに私の額に手を置き、悲しそうに目を細める。




「…まだ辛いですか?」


「えっ…あ、うん。」



あぶねぇ、うっかり恋に落ちそうになったわ…頭も痛いけど、今君にそんな顔されたら色気すごすぎてヤバイんだよ色々…



シズクは黙って目を伏せつぶやいた。


「そうですか。何か俺に、出来る事あったら…」



とっさにいつも飲んでいる頭痛薬が頭に浮かぶ。


「じゃあ、頭痛薬買ってきてもらえるかな?」




シズクはなぜか一瞬ぴくっとしたが、すぐにいつもの忠犬スマイルに戻った。


「あ、じゃ、行ってきます。」


「ありがとう。」


「何かあったらすぐ呼んでください。」



シズクは私の手にぎゅっとスマホを握らせてから、笑顔で部屋を出て行った。


一人になった途端なぜか私は少し不安になったが、いつの間にか眠っていた。





・・・





薬局に到着したシズクの脳内は、人生史上最大レベルの混乱を極めていた。





いやいやマキさんとあのヤバい男が『ガイハク』てさ…普通にヤバいだろ「いらっしゃいませー」



まさかとは思うが、同室じゃないよな?ていうか『わがまま』って何?ていうかマキさん仕事って言ってなかった??「1470円になりまーす」



状況説明されたけど…肝心なとこ明かされてなさすぎて何がどうなってんのか全っ然わかってないわ「ありがとうございましたー」




シズクが無意識下に買い物を済ませ店を出た途端、目の前の人とぶつかりそうになった。「あっあのっ!」「うぉわっ。」



やばい、超ナチュラルに前見ないで歩いてた。今度から気を付けよ。行く手をはばんでいたのは、大学生くらいの女子だった。「…すいません。」



軽く会釈して通り過ぎようとしたが、なぜか呼び止められる。



「ち、ちょっといいですか?」


「え?」



目の前の女子の顔は、なぜか真っ赤だ。


「いきなりごめんなさい。ツイッターであなたを見かけてから一度お話してみたいと思ってたんですっ。」




予想外の出来事続きで、シズクは一瞬思考停止した。



ついっ…あーマキさんがよく見てるやつか。そういえばなんか前もこんな感じで声かけられたな…ていうかこんなとこで時間食ってる場合じゃない。



焦ったシズクは、やや冷たい声になる。



「お話してみたいって…なんで?」


「え、なんでって…。」


「すいません、何でもないです…あとごめんなさい、今ちょっと急いでて。」



会釈して強引に去りかけると、今度は腕を掴まれた。意外と力が強くてびっくりする。



「待って下さい!!ずっと探しててやっと会えたんです、だからせめて連絡先受け取って下さい!」




シズクの頭に、ただシンプルな疑問が浮かぶ。



「…何でよく知りもしない人に、そんなこだわれるんですか?」



見知らぬ女子はえ、と言いやや後ずさった。


「なっ何でって…。好きになっちゃったからです…。」



え、話した事もないのに?疑問はいよいよピークになって、いよいよ帰りたい。

しかし彼女は勝手に語り出してしまっていた。




「名前も知らないのに、気持ち悪いですよね。でも付き合ってる人いるのかなとか考え出すとしんどくなってきて、何か行動したいって思ってたんです。」




シズクは思わず問いただしていた。


「それがいわゆる『好き』なんですか?というか『好き』って、どういう事なんすかね?」「…え?」




明らかに引いてるけど、まぁいいや。シズクは構わず畳み掛ける事にした。




「それって、『好き』な相手が他の奴と仲良くしてたら腹立ったりその人に頼られたら嬉しくなったりあと離れてても早く顔見たいなって思ったり、とかいう事ですか。」



前のめりにまくしたてると、見知らぬ女子はドン引きしながらも「あぁ、たぶんそんな感じだと思います」と言う。




あ、そーかそーか俺マキさんの事、恋愛的な意味で『好き』だったんだあー。分かってしまえば、なんてことない気分だな。




シズクはきちっと礼をし、踵を返した。「分かりました。ありがとうございました。」


「あ、いえいえ…えっ?」




シズクは結局連絡先も受け取らず、マキの部屋まで走り出した。




いつの間に好きになってたんだろ。

っていうか、あれ?ペットが飼い主の事を恋愛的な意味で『好き』って…結構ヤバい?





・・・





新しい悶々が増えたような気がするが、とりあえずせめて今は普通にしていよう。シズクは笑顔を作り、ドアを開ける。




「マキさーん、薬買ってきましたよ。」


「あ、ありがとうっ!」




帰ってきたはいいけど、なぜか逆にマキさんのほうがソワソワしていた。

唇をきゅっととがらせて目を落ち着かなげにキョロキョロさせるのは大体、『何かを気まずく思っている時』の仕草だ。「あの…なんか大丈夫ですか?」



マキさんはピッと小鳥のような変な声を上げビクンとした。…明らかに大丈夫じゃない。



「いやー…あ、あのさー。行ってもらってから気付いたんだけどさあ。」


「…はあ。」


「良かったらあの…前やってもらった『あれ』やってもらったら~今回も一発で治るんじゃないかなあ~~~とか…思って…。」


「『あれ』とは…あーあの、『口移し』ですか?」


「えっ!あっ!あぁ…うん、はい。」



マキさんは顔を真っ赤にしてうつむく。自分から言ったくせに何で照れるんだろ…とは思いつつ、正直頼られてめっちゃくちゃ嬉しい。

家出る前のタイミングで頼まれなかったのは、単に忘れてただけか。嫌がられてた訳じゃないと知り、ちょっと安心する。



「じゃあ、口開けて上向いて下さいね。」


「あ、ふぁい。」



前と同じように軽く顎を持ち上げ、口をつけようとした瞬間ふと気付いてしまった。







これって普通『好き』同士がやるやつだよ??






気付いた瞬間ぶわわわわわと何かがこみ上げて、俺は反射的にマキさんから飛び退いていた。「あ、あれ…ごめんなさい、なんか…。」



しかし俺の発声と同時に、マキさんも同じ距離だけ飛び退いていた。


「え!ごめんごめんごめんっ!」


「え!?あ!いやいやいや!?」


「いやごめんホント。ホンットすいません!!」


「な、なにをおっしゃいますやらっていうか全然、俺の方が全然アレなんでっ!」





絶叫に近い応酬の後、部屋にははぁ、はぁという謎の息継ぎだけ響き渡った。





いや、なぜあなたが先に謝る!ていうかさっきのぶわーーてなに!?




震えながら脳内で「?」を消化していると、マキさんはめちゃくちゃ明るい声を出そうとしている。


「とりあえず薬飲むよっ!ホント、なんかごめんね!」


「す…あ、はい。どうぞ…。」


「ありがとありがと。ゴクッ!もっかい寝るわ!」「あ、ああはい!」



マキさんは謎のテンションで意気揚々と布団にくるまり、そのまま何も言わなくなってしまう。失望されたのかもしれない。






ハンマーで殴られた後みたいにショックだ。ハンマーで殴られた事ないけど。





・・・





翌日。あれからなぜかお互い避けるように夜を明かし、マキさんは何事もなく仕事に出て行く。


「行ってきまーす^^」


「あ、いってらっしゃーい^o^」



バタンとドアが閉まってから俺も外出の支度を始めたが、昨日の事が頭にありすぎて仕事する気にはなれない。



結局近所の川沿いの手すりにもたれかかり、ぼーっと昨日の事を考えることにした

。知らない親子が楽しそうに散歩をしている。「ママァーいけめんがたそがれてる〜」「しっかり目に焼き付けておくのよ。目に良いから。」





…自分の感情に振り回されて、マキさん助けられなくてどうすんだ。ぼんやり目の前の水面を見る。





俺が居るべきは、結局こっちか。





シズクは静かに決心した。…俺もう、人になるのやめよっと。

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