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そんな私たちの膠着状態を破ったのは蘭さんである。彼はソイツを、決して潰さないよう絶妙な力加減で、遠くに蹴っ飛ばして見せたのだ。

「そういう蘭さんは、ゴキブリは全然平気だったね?」

「うん。僕も基本的には虫平気だし」

「あ、そうなの?」

「芋虫もムカデも蜘蛛も触れるよ。でもセミだけは例外。っていうかむしろ論外。昔、口に入れら…、口に、入ったことがあって」

「うわキッツ。トラウマになるね、それは」

「情けないよね、僕」

「誰だって苦手なものはあるよ」

「アキちゃんの場合はゴキブリ?」

「…言っとくけど怖かったわけじゃないから。その気になれば対処できたから」

「へえ?」

「私はただ彼奴らが発生するに至った衛生面での考察と敵の動きを事前に予見した上で最小限にして最大の効果を発揮する攻撃の準備を」

「はいはい。次またキャツラを見かけたら僕が追っ払うから。アキちゃんはセミをよろしく」

「…うむ。苦しゅうない」

ふんぞり返りながら、私は考えていた。さっき蘭さんが、セミを口に「入れられた」と言いかけたのは明らかだ。

…もしかすると、彼はいじめられっ子だったんではなかろうか。

そう思ったのは、実は今回が初めてではない。

かつて、修学旅行でバスに1人だけ乗り遅れ、現地で自力で集合するまで誰にも気づかれなかったという彼の武勇伝。

それも、よくよく考えれば不自然だと私は思っていたりする。だって、普通は出発前にバスの中でも点呼はするものではないだろうか。それで出発前に彼の不在が判明しなかったということは、周りが示し合わせ、誰かが彼のフリをして点呼に返事をし、皆が黙認したのでは。

なんて。

思っても、言わないけれど。

先程の彼を見習って、気遣いには気遣いを。善意には善意で返すのが、私というサイコパスだ。しかし、私は蘭さんがしてくれたように彼の頭を撫でることはできないので、仕方なく抱きついて背中を撫でてみる。すると、そのままぎゅうと抱きしめられた。

相変わらず暖かいお体で。なんて思っていたらぼわーっと盛大な欠伸が出る。そうだ、私徹夜したんだった。そんな私を見て慈しみの表情を浮かべた蘭さんが、頬に流れた涙を唇で優しく吸い取っていく。

「アキちゃん昨日からずっとお仕事部屋にいたみたいけど、もしかしてあんまり寝てない?」

「んー…徹夜したの」

「そっか、お仕事忙しかったんだね。じゃあ、今日は一日ゆっくり寝ていたい感じ?」

「うん。何かあるの?」

「うーん、と、買い物に行こうと思って。あ、アキちゃんが欲しいものあればついでに買ってくるけど」

「行き先による」

蘭さんは某大型電化製品店の名前をあげた。なんと、テレビを買うつもりだという。

「テレビ買うったって、」

別に壊れてないし、今あるのは割と新しいように見えるけどなんでまた。

そう続けるつもりで件のテレビの方へ視線をやって、私は固まった。

「えっと、だから、アレもセミのせいでね?」

「……」

「だって、リビングのドア開けた瞬間目の前に居たんだよ?ビックリしたはずみで思わず、掴んでいたのをバキッと…」

「……」

「そ、それでヤツが部屋の中を飛び回るから、仕留めるつもりで投げ、て、しまい、ました」

「……」

リビングの大型テレビには、真っ暗な画面にそこから蜘蛛の巣の如きヒビが走っていた。

蜘蛛の巣の中央に突き刺さっているのは棒状の銀色の金属。あれは。

「…蘭さん、ドアノブ引っこ抜いたんだ?」

「わ、わざとじゃないんだよ!でもビックリしすぎて手加減とか出来なくて…」

「で、そのままぶん投げたと」

「セミに向かって投げたつもりだったんだよ!……ごめんなさい」

「いや、私に謝られても。ていうか、セミの方がよっぽどビックリしたと思うよ」

「…アキちゃんはセミの味方なの…?」

「いや違うから。フツーに蘭さんの味方」

「ホント…?」

「だから、こういう時は、次からはすぐに私を呼んでね、マジで」

「…ハイ」

「ていうか、私も買い物付いてくから」

「っ!ホント⁉︎」

散歩を告げられた犬のように無邪気な笑顔の彼を見ながら、だってあなた1人で買い物に行かせたら何買ってくるかわかったもんじゃない、なんて。思っても言わないけれど。

その一方で、私は頭の隅でこんなことも考えていた。

この人は、その気になれば力にモノを言わせて私なんてどうとでもできるんだろうな、と。

きっと全身全霊で抵抗したって、私じゃ叶わないんだろうな、と。

でもまあ、蘭さんのことだ、「その気に」なんてならないのだろうし、大丈夫。そう思うくらいには、彼のことを信頼していたのだ。

この時は。



お互い在宅ワークで不規則な仕事をしているせいか、曜日感覚を失念していた。

本日土曜日。学生からファミリー層までごったがえす店内で、蘭さんはガチガチになっている。

ここに来るまではまだよかったのだ。車を駐車場に止めてから、そのまま店内に入らず、裏の川辺をのんびり散歩した。水面が太陽を反射してキラキラしていたし、釣りをしている人や河原で座っている人がいたりして、それはもう穏やかな空気が流れていた。

まあ、ちょっとしたハプニングはあったが。

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