第3話:白雪姫と夏の記憶


 高校一年の夏。

 私こと白雪しらゆき冬花とうかは、名門私立白凰はくおう高校に入学し――『幼なじみの男の子』と再会を果たした。


 その人の名前は、葛原くずはら葛男くずお


 正直に告白すると、最初はちょっと怖かった。

 高校生になった彼は、腐敗した魚のような目をしており、人を寄せ付けない雰囲気をまとっていたのだ。


 最後に会った小学生のときから、外見や雰囲気は大きく変わっていたけれど……根っこのところは何も変わっていなかった。

 みんなに優しくて、困っている人をそれとなく助ける、とても優しい人。

 そんな彼を見ることができて、本当に嬉しかった。


 ただ……同時に不安もある。


 葛原くずはらくんは登下校のとき、怪しげな大人からよく声を掛けられている。

 白凰高校での交友関係はとても狭く、唯一の友達らしき人は金髪ピアスの不良。

 あまりよく眠れていないのか、授業中は基本的にずっと居眠りしており、目元にはいつもクマがあった。


 彼のご家庭の事情は……幼なじみということもあって、それなりに知っている。


 小学六年生の頃、葛原くずはらくんの御両親が営んでいた会社が経営破綻。

 多額の借金を抱えた彼らは、白雪家うちの隣に立ち並ぶ豪邸を売り払い、近所の小さなアパートへ移り住んだ。


 それからほどなくして、母親は消息を絶ち、父親は放蕩ほうとう生活。

 葛原家は蝋燭ろうそくに火をともすような極貧生活を送っている。


 これは妹のゆいさんから聞いた話だけれど……葛原くんがずっと眠そうなのは、無茶なバイトが原因らしい。

 根が真面目な彼は、自由奔放なお父さんに代わって、家計を支えているそうだ。


(貧困の螺旋らせんを断ち切るのは、決して簡単なことじゃない)


 でも幸いなことに、葛原くんは日本一の名門高校――白凰はくおうに合格している。

 ここをきちんと卒業すれば、明るい未来が開ける。


 だから――。


「――葛原くん、お勉強をしましょう」


 私はあるとき、勇気を出してそう声を掛けた。


「……なんで?」


 彼は露骨に嫌そうな顔をする。


 眉根まゆねを引きつらせたその顔が、言外げんがいに『面倒くさい』と語っているその表情が、小学生の頃から何も変わっていなくて、なんだかちょっと可笑おかしかった。


「一か月後、駿鉄すんてつ予備校で全国統一模試があります。一緒に受けませんか?」


 これは持論だけれど、『人間の意思力』は弱く、『環境の矯正力』は強い。

「勉強を頑張ろう」「勉強をしよう」という意思だけで、これを成すことは難しい。

「勉強せざるを得ない環境」「勉強が当たり前の環境」に身を置くことで初めて、勉強という苦行を成し遂げられるのだ。


 つまり、まず変えるべきは環境。

 過程と結果は、後から自然についてくる。


「いや、そういう模試ってけっこう高いだろ? うちの家にそんな余裕はねぇから」


「それなら問題ありません。今は夏の新入生募集期間中、白凰はくおうの生徒ならば無料で受験できます」


「……無料」


 葛原くずはらくんの数少ない弱点――それは『無料』。

 長きにわたる極貧生活のためか、彼は無料と言う言葉に滅法弱い。

 これは既にリサーチ済みだ。


「……無料、無料か……」


 葛原くんの鉄壁の意思が揺らいだところへ、追撃の一手を繰り出す。


「しかも今回は、受験者全員にシャーペンと消しゴムが無料で配布されます」


「…………まぁ、たまにはテストもいいかもな」


 彼は筆箱に入った小さな消しゴムを指でつつき、コクリと頷くのだった。


 一か月後、駅前にある駿鉄予備校へ。


 偶然にも、私の一つ前が葛原くずはらくんの座席だった。


(試験慣れとかしてなさそうだけれど、大丈夫でしょうか……。忘れ物とか、マークシートの書き方とか……)


 そんな風にチラチラと様子をうかがっていると、背中越しに彼の受験登録シートが見えてしまった。


氏名:アソパソマソ。


「……っ」


 思わず、き出しそうになる。

 こういう変な名前で受験する人がいるという話は、ちまたの噂で聞いたことがあったけれど……。

 まさかそれが自分の目の前で行われるとは、まったく予想だにしていなかった。


(はぁ……。まぁ、いいでしょう)


 今回の目的は、『受験戦争』という場に葛原くんを引きずり出すこと。

 試験会場に来た時点で、その目的は達成されたも同然。


 その後、問題と解答用紙が配られ――第一回高校一年生全国統一模試が始まった。


 最初の科目は英語。

 単語のアクセント・文法の正誤・短めの会話、本格的な長文読解。


 順調に問題を解き進んでいき、机上に置いた腕時計に視線を向けたところで――気付いた。


(あっ、もう寝てる……)


 葛原くんは机に突っ伏し、完全に沈黙している。


 試験終了まで後三十分強。

 どうやら、途中で力尽きてしまったようだ。


 それからしばらくして、『キーンコーンカーンコーン』とチャイムが鳴った。


「――試験終了です。筆記用具を置いてください」


 その後、試験監督の指示に従って、答案用紙を後ろから前へ回していく。


 私はまったく微動だにしない寝坊助さんの背中をちょいちょいとつついた。


葛原くずはらくん、英語のテストが終わりましたよ。こちらの答案用紙を前の席の方へ渡してください」


「ん゛ぁ……。あ゛ー……おぅ……」


 彼は寝ぼけまなこをこすりながら、言われた通りにプリントを回した。


「随分と眠たそうですが……昨日はあまり眠れなかったんですか?」


「ふわぁ……まぁな。遅くまでずっと内職ないしょくしてたから、ちょっと寝不足気味だ……」


「内職、ですか……。それは何時ごろまで?」


「確か、七時過ぎだったかな……」


「夜の?」


「今朝の」


「それ、もはや徹夜じゃないですか……」


 葛原くんはその後も、ずっとうつらうつらと船を漕ぎながら、なんとか試験に向き合っていたけれど……。

 いつもだいたいテスト時間の半分ほどで、すやすやと眠ってしまっていた。


(……内職、ですか……。それは仕方がありませんね)


 家計を支えるための大切なお仕事。

 そこは、私が口を挟んでいいところではない。


 もしかしたら……先生が葛原くんになんの注意もしなかったのは、彼の過酷な生活環境を知っていたからかもしれません。


(…………余計なお節介、でしたね)


 全てのテストが終わった後、私は葛原くんに謝った。

 自分の手前勝手な善意を押し付け、彼の希少な時間を奪ってしまったことを謝罪した。


 すると彼は、「気にすんな。ちょうど消しゴムを切らしてたところだ」と言って、ぶっきらぼうに笑った。


 葛原くんは、やっぱりとても優しい。

 ぶっきらぼうで、ひねくれていて、素直じゃないけれど……根っこのところは本当に温かい。


 それから一か月が経ち、試験の結果が返却された。


「……や、やった……」


 私の結果は600点満点中――537点。


 今回は『難問奇問のオンパレード』だったため、総合点は前回よりも少し下がってしまったけれど……。

 席次せきじとしては、自己ベストの『全国5位』。


(これなら、お父様にも喜んでもらえるはず……っ)


 私は期待を胸に膨らませながら、書斎しょさいへ向かった。


 しかし――。


「はぁ……くだらぬ」


 お父様は深いため息のもと、軽蔑けいべつの眼差しを向ける。


冬花とうかよ。『白雪』たるもの、常に『勝者』でなければならぬ。勝者とは何か? それすなわち1番だ。ナンバーワンだ。2位であろうが5位であろうが、100位であろうが最下位であろうが……全て同じ塵芥ちりあくた! 1番以外に価値はない!」


 激昂げきこうした彼は、手元のグラスをこちらへ投げ付けた。

 ガラスの砕け散る音が響き、私の足元にいくつもの破片が飛び散る。


「まったく……どうしてお前は、こんなに出来が悪いのだ? 本当に儂の血を引いておるのか? えぇ゛!?」


「……申し訳ございません……っ」


「いいか、よく聞け。お前のしているくだらぬ努力など、なんの意味も持たぬ。一銭の利得りとくさえない。全ては結果、結果なのだ! 結果を出せぬ者に生きている意味はない! 『白雪』の一員と認めてもらいたくば――この・・神宮寺じんぐうじなぎさ』を見習い、確かな結果を示せ!」


 お父様はそう言って、席次表の頂点を指さした。


 神宮寺渚。

 その名前は、これまで嫌というほど聞かされてきた。


 神宮司財閥の次期総裁候補筆頭。

 中学・高校の全国模試で、『常に1位』を獲り続ける怪物。


 私のような『偽物』ではなく、『本物の天才』。


「……むっ、あの神宮司が2位? であれば1位は…………ふんっ、ふざけた名前だ。気に食わん」


 お父様は席次表せきじひょうを投げ捨て、書斎しょさいを後にした。


(……ふざけた・・・・名前・・?)


 一つだけ、思い当たる節があった。


 だけど、さすがにそれはあり得ない。

 いくらなんでも、そんなことがあるわけない。


 私は恐る恐る学力ピラミッドの頂点を確認し――唖然あぜんとした。


「……う、そ……」


 1位600点アソパソマソ。


 葛原くずはらくんは、超が付くほどの天才だった。

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