二章 3.寒椿

「須賀さんが帰っとん、知っとったか?」吉井が聞いた。

「いや。知らん」努は今年になって、須賀さんと会ったことは無い。

須賀さんは中学で野球部の先輩だった。

須賀さんも秋山も同じ高校へ進学したが、野球部へは入部しなかった。

「見とらんか?」と吉井が云うと、「見とらんなあ」努は答えた。

桃川橋の袂まで来ていた。

「学校が始まるっちゅて、東京へ戻る時に駅で一辺、会ぅたんや」

桃川橋の改修工事が始まっている。

川沿いに道を南に行くと製材所の材木置場の手前に仮設の橋が架かっている。

材木置場の前の桃川の土手には筏が係留されている。

今も川岸にモーターボートで押して材木の筏が着いた。

どこから運んでくるのか筏に組んだ丸太を製材所の川岸まで運んで来ている。


「けど、また、こっちへ帰って来とるんや。アッきゃんが休んどる時や」

何が楽しいのか、吉井が燥いでいる。

「何でやろ?ヨッさん知っとんな?」努は、あまり興味が無かった。

「うん。聞いた」

吉井は楽しそうに答えた。

さほど興味は無かったが、理由を聞こうとした。

「そしたら、また来週な」吉井は、肝心なことを云わない。

吉井が急いでいるようだったので、そこで別れた。

吉井は、その仮設橋を渡って、信号機のある交差点を真っ直ぐ通って仲町まで帰る。

努は駅前通りから桃川橋の袂から、北へ川沿いの道を通って帰って行った。

川沿いの道は舗装されていない。

川が大きく西に曲がったところで、続く道は川と別れる。

道は古い町並みの北堀に続く。

北堀を過ぎると旧武家屋敷の建ち並ぶ北堀に突き当る。

長く続く土塀に沿って帰宅していた。

どちらから帰っても、結局は扇変圧工場前の三叉路を通ることになる。

中学校は、駅と逆方向だったので、滅多に通らなくなっていた。

高校に進学して汽車通学になり、また、この道を通っている。

北堀に入ると、青木家の門前に沢山の椿が咲いてかいる。

元町長の青木善造氏の屋敷だ。

椿屋敷と呼ばれている。


努は椿を見ていた。

開いた門から庭が見える。沢山の椿が咲いている。

門の前を通り過ぎようとした時、男が出て来た。

丁度、目が合った。

「ああっ!アッきゃん」男が努に声を掛けた。

「須賀さん」つい、さっき吉井と話していた中学時代の先輩の須賀さんだった。

須賀さんは東京の大学へ進学して、その後、何度か顔を見かけたことはあるが、話をしたことはない。

「前に、駅で会わんかったんかのう?雪ん日」

「雪の日は会っていません。吉井が会うたって言ってました」

「そうか。青木の爺さんに用があったんやけど、今日は、ここまでや」

「今度、遊びに行くわ」

須賀さんがそう云った時、一台のオートバイが猛スピードで迫っていた。

「おいスガ!」轟音とともに大きな怒鳴るような声だ。

「カッタカ!どしたんや!」慌てたように須賀さんが怒鳴る。

「ええきん。乗れ!」カッタカと呼ばれた男に、見覚えがある。

西山カズタカさんだ。

やはり中学の水泳部の先輩だ。

西山さんが、ヘルメットを須賀さんに渡した。

須賀さんはオートバイの後部席に跨った。

須賀さんを乗せてオートバイは物凄い勢いで、筋向いの路地へ走り込んだ。

努は帰ろうと、オートバイから目を逸らせた瞬間、何かが目に映った。

すぐ、また轟音だ。

今度は二台のオートバイが向かって来ている。

物凄い土埃が巻き上がっている。

爆音を轟かせて迫って来た。

もう、目の前だ。椿屋敷の前で止まった。排煙が強烈に臭う。

「こら!今ここにカッタカが来たやろが」

オートバイに乗った革ジャンパーの男が努に向かって怒鳴る。

二人とも知らない顔だ。

怖くて声が出なかった。

努は頷いた。

「どっち行った!」革ジャンパーの男が怒鳴った。

努は北山の方を指さした。

「ほんまやろのぅ!嘘やったらこらえへんぞ!」

頷くことしかできなかった。

二台のオートバイは、北山公園の方へ轟音を響かせて走り去った。

情けないほど怖くて動けなかった。

まだ膝が震えている。

落ち着こうとする努の前に自動車が停まった。

男が降りてきた。

五十年配の男だった。

椿屋敷の門を通って入って行った。


帰ろうと歩き始めた時。

「あっ」思い出した。

見付けたのだ。

もう一度、門に目を遣った。

あった。

その門の金具に、揚羽蝶の家紋が打ってある。

フミさんから押し付けられてそのまま預かっている指輪と同じだ。

慌てて、門へ走り寄ると金具を見た。

間違い無い。

努は、夢中で青木邸の門を通った。

門から真っ直ぐ続く踏み石を通って玄関へ向かった。

呼鈴を押した。

応答がない。

玄関の引戸を開けてみた。

「ごめんください」声を上げると同時に五十年配の女性が玄関に出てきた。

「どなたですか?」

「ああ。申し訳ありません。突然、おじゃまして」

つい、興奮して門をくぐっていた。

今頃、躊躇が出てきた。

「はい」女性は、特に怪しむ様子は無かった。

「あのう、突然おじゃまして、いきなり、こんな事をお聞きするのも、何ですが、あっ。いや、ええっと。私は秋山努と言います。ええっと西通の内藤の所に居ます」名乗ることも忘れていた。

「ああ、西通の。はい。それで、どういうご用件でしょうか?」

「門に揚羽蝶の家紋を見付けたのですが」努は、咄嗟に言葉が思い浮かばなかった。

「揚羽蝶?ああ。それで?」

怪しんている様子はない。

「青木さんの家紋は揚羽蝶なんですか?」


「あれはねぇ。以前、門が傷んだ時に、庄原の米原さん所の門をむこうで、ばらばらにしてね、こっちへ運んで、建替えたのよ」

おばさんは、親切に答えてくれた。

庄原の米原さんといえば、努の中学時代の同級生の家だ。

そこの門をそのまま移築したという事なのか。

「ああそうだったんですか」そんなことがあるのかと思った。

「他に何かあるの?」

おばさんは、何か楽しそうに尋ねた。


「それでは、その揚羽蝶の家紋について、お尋ねしたいことがあります」

「そう。分かったわ。お爺ちゃんなら、今、来客中だから、会えないわね。ちょっと待って貰えたら、聞いて来てあげるけど。どうする?」

「お願いします」答えて、庭の椿を見ていた。

赤い椿が庭一杯に咲いている。


「どうぞ。お上がりください」おばさんが戻ってくると、努を中へ招き入れた。

「お邪魔します」努は緊張していた。

小さな和室に通された。


一時間くらい待った。

青木元町長が入って来た。

「失礼します。私、西通の秋山努と云います」

こんな経験は初めてだ。

「青木です」

この人が元町長か。

広報の写真で見るより優しそうだ。

「お忙しいところ申し訳ありません」

こんな挨拶で良かったのか?

「いや、もう前と違うて、忙しいは無いんや。来る人も、あんまりおらんしなあ」

元町長は、親しそうに挨拶を返してくれた。


努には、こんな時の話題が無かった。

「あのう。早速ですが揚羽蝶の家紋のことで、少しお話をうかがいたいのですが」

すぐに本題に入った。

「揚羽蝶か。けどあんたは、何で、また」

何故、興味を持ったのかという事だ。

「ちょっと、平家物語に関して、調べている事があるんです」説明した。

「平家物語?」青木元町長は、不審に思ったようだが追及はされなかった。

「建礼門院を入試問題に執拗に出題する大学教授がいるんです。配点は小さいんですけど、受験勉強していて興味が湧いてきたんです」努自身、驚いた。ただ、要らない言い訳だったかもしれない。

よくこんな出鱈目が口から出るものだ。

元町長が信用したかどうかは疑問だ。


「ああ。大学かあ。どこの大学、受けるんや?」

元町長は興味津々の様子だ。

「あっ、いやまだです」考えている大学はあるのだが、云えない。

「言われへんのか。東京か?」

どうも、好奇心旺盛のようだ。

「いや、関西です」また、第一希望の大学名を思い浮かべた。

「そうか。あっ、そうや。ごめん。揚羽蝶やったのう」

元町長は我に返ったようだ。

「あのう、門にある金具。揚羽蝶の家紋を彫った金具ですけど、ああいった物は他にもお持ちでしょうか?」

揚羽蝶の家紋について高校の図書室で調べてみたが書籍はなかった。

百々津図書館に図案の載った書籍を見付けていた。


「そうやのう。家には無いなぁ」

「そうですか」努は少し考え込んだ。

「どんな物を探しとんや?」

親切だった。

「はい。指輪です。貴重な品があると聞いたものですから」形振り構わず尋ねた。

「そうか。ええっとなあ。それやったら、ちょっと待てよ」

青木元町長は、部屋から出て行った。

戻ってくると、一冊の古い書物を持っていた。

「これに書いてあるように聞いた事があるんや」

元町長はその書物の中程を開いて、二三頁捲って見せた。

「ばあさんが嫁にくる時、持って来たんや」

「書物?」

「そう。庄原日記と表題に書いてるやろ?」

「日記ですか」努にも、それは読めた。

「表装は傷んどったんで、後になって修繕したらしい。ちゅうこっちゃ」

まだ、何か説明し足りない様子だ。

「町長。読めるんですか?」

元町長だが、青木さんと、さん付けで呼ぶのも失礼かもしれないし、元町長と呼ぶのも違和感があるので、町長と呼ぶ事にした。

「ほとんど読めへんわ。だいたい儂らは、学校へは行かしてもろとらん。早うから丁稚奉公に出されとったしな」

町長と呼ばれたことを気にしてはいないようだ。

「読めないのに、どうしてこれに書いてあるかもしれないと思われるんですか?」

失礼だったかもしれない。

「ああ、それはのう。前に庄原の米原が言うとったんや」

全く気にしていないようだ。

「分かりました。どうも、ありがとうございました」


しかし、折角、目の前に揚羽蝶の指輪の由来が記述されているかもしれない書物があるのに、このまま帰る訳にはいかない。

「また今度、訪ねてくれ。待っとるからな」

青木元町長に甘えてみよう。

「承知しました。是非、お願いします。それと、ええっと。これをお借りできませんか?」

迷ったが思い切って云ってみた。

「ああ、ええよ。構んで」

拍子抜けだ。

「そうですか。ありがとうございます。なるべく、早くお返しいたします」

いやに、あっさりと借りる事ができた。

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