第七章

 199X年12月24日


 ふと目が覚めた。

 最初に見えたのは、見覚えのない白い天井。

「ここはどこだ?」と、声に出したつもりだったが、喉の奥がひりついていて声にならなかった。そして記憶はすぐにはっきりしてきて、今自分がいるのは病室だろうと予想がついた。

 頭をめぐらせて、室内に誰かいないのかと確認した。誰かいるのでは、エレインがいてくれるのではないかとネイサンは期待したのだが、室内には誰もいなかった。

 エレインはネイサンが手術室に担ぎ込まれるまでずっと側にいて、ネイサンの手を握ってくれていた。だからなんとなく、目が覚めて一番最初に会えるのはエレインだと、心のどこかで期待してしまっていたのかもしれない。

 ナースコールで人を呼び、今の状況を聞かなければと、ネイサンは思う。だが、エレインがいないというだけで、エレインが自分の庇護下からでてしまったというだけで、体中の力は抜け落ちていった。自分の存在価値など、まるでないように思え、抜け殻のように感じた。


(エレインは、今、何を思っているのだろうか)


 とんでもない男だと、最低の男だと思われているかもしれない。きっと次に会ったとき、愛しているという告白はそれとなく撤回されるだろう。

 だが、それでもいいじゃないかと思えた。ネイサンの冷たい態度の理由も誤解だったと納得しただろうし、少なくとも一人はエレインを死ぬほど愛している男がいることも知ってもらえた。エレインの孤独を少し埋めることができた。それで十分すぎるぐらいだと、ネイサンは思う。

 不思議と穏やかな気分だった。エレインを愛していると自覚してからずっと、心の中に業火を抱え、その火に焼かれていたようだったというのに。今、エレインへの想いは、もっと穏やかなものにかわり、身の内からじんわりと自分自身を温めてくれているようにさえ感じた。

 あんな形でもエレインを抱けたから、心の中の業火がおさまったのではない。エレインに告白できたからだ。自分のすべてを知ってもらえたからだと、そう思えた。

 自分のすべてをさらけ出すことを、ずっと恐れていた。だが、さらけ出してしまった今、エレインを手に入れようと心に決めたあの時より、ずっと強い開放感を感じていた。

 エレインの全てを欲しいという想いは、エレインに自分の全てを知って欲しいという想いと、同じだけ強くあったのかもしれない。

 静かに息をつき、ネイサンは目を閉じる。すると、扉が開く軽い音が聞こえてきた。薄く目を開けて見ると、大きな花瓶を抱えたエレインだった。

 側にいてくれたのだという喜びと驚き、そして花を抱えたエレインの美しさに、ネイサンはしばし言葉を発することを忘れた。そして、エレインを見つめているだけで、じんわりとしみてくるように心が温かくなっていく快い感覚に、我知らずため息をついていた。



 ネイサンのため息に、エレインはネイサンが目を覚ましていることに気がついた。


「ネイサン。目が覚めたの?」


 急いで花瓶を置くと、エレインは枕元に駆け寄った。


「気分は? 大丈夫?」


 ネイサンの顔を覗き込んで視線があうと、ネイサンは微笑を浮かべた。その穏やかな表情に、エレインは目を奪われ、言葉を失った。

 こんな表情のネイサンは、初めて見る。エレインよりも年下の青年のような、素直な笑顔だった。


「足の調子は?」


 逆にネイサンから聞かれて、エレインは我に返る。


「私は大丈夫よ。ただの捻挫だから。もうちゃんと歩けるわ」

「よかった」

「無事に帰ってこれたのは、ネイサンのおかげよ。本当にありがとう」


 また微笑んだネイサンに、今度はエレインも微笑み返していた。


「気分はどう? お水を飲む?」

「ぜひ、いただきたい」


 水差しから水をくみ、ストローでネイサンに飲ませてあげようとした。だが、ネイサンはストローを断ると、ベッドを操作して背中を上げ、コップを受け取る。普段よりも動作が緩慢だったが、ごくごくと水を飲む姿は、とても手術を必要とするような大怪我をした怪我人には見えなくて、エレインはほっとした。

 結局、ネイサンとエレインは、ふもと近くまでネイサンの部下達と合流することができなかった。テロリストのヘリは執拗で、ネイサンは最後まで道を選ばなければならなかったし、ふもとから登ってきた部下達も、ネイサンを探すよりもまずヘリを撃退しなければならなかった。部下達がヘリを撃ち落し、ようやく合流できた時、ネイサンは出血多量で危険な状態だった。

 その時のことを思い出すと、エレインは背筋が寒くなる。

 エレインを背負っていた間、ネイサンはとても元気だった。足取りもしっかりしていたし、エレインを元気づけるために声をかけてくれさえした。だからエレインは心配しつつも、ネイサンは大丈夫なのだと安心していた。

 だがそれは、ネイサンがエレインを心配させないために無理をしていただけで、本当はかなり危険な状態だったのだ。もしかしたら、ネイサンは自分を背負ったまま力尽きて倒れたかもしれないと思うと、ぞっとする。気づかなかった自分の迂闊さに腹もたった。

 だが、ネイサンは『大丈夫だ』という言葉どおり、今、まるで何も危険なことなどなかったかのような顔をして水を飲んでいる。つくづく、丈夫な人というべきか、それとも有言実行の人というべきなのか。本当にネイサンには不可能な事などないように思えて、エレインはほっとため息をついた。


「あなたの副官のマックスがね、昨日、お見舞いに来たの」


 空になったコップを受け取りつつ、エレインは話し始めた。


「他の部下の方から報告を聞いて、お医者様からあなたの状態も聞いたら、さっさと帰ろうとするから、私、とっても驚いたのよ。大切な上司が命にかかわるような怪我をしたのに、あんまりにもそっけなさすぎると思って。そうしたら、マックスはなんて言ったと思う?」

「これぐらい大したことはない、とか?」

「あなたは普段から血の気が多すぎるから、ちょっとやそっとの出血で、どうということはないんですって」


 ネイサンは怒る様子もなく、苦笑をもらしていた。


「でも、しばらく休養してくださいって。すぐにでも動きたいでしょうけど、ちょっとは部下を信用してくださいって」

「それは無理だな。信用しているしていないの問題じゃない」

「駄目よ、休まなきゃ。それに、急いで帰っても意味があるとは思えないわ。テロリスト達は私が脱出したことをちゃんと知っていて、あれ以後、交渉の連絡をしてこなくなったそうよ。マックスが山小屋や撃墜したヘリを捜索してくれたそうだけど、何も見つからなかったって」

「国内外で動きがあるかもしれない」

「それも、お姉さまがあとを引き受けるって。ネイサンは少し休めって。罪滅ぼしだそうだけど、どういう意味?」


 ネイサンはむっとした顔で、この場にはいない誰かを、アンドレアだろうか? を睨んでいるように見えた。二人の間でなにがあったのかわからないが、エレインの問いには答えてくれるつもりはないようだ。


「それに私、マックスからあなたがちゃんと休養するように見張っていてほしいと頼まれたんだから」


 エレインは腕を組み、わざと威張って言ってみせたのだが、さっとネイサンの表情がこわばるのに気がついて、ドキリとした。


「マックスもとんでもない奴だ。エレイン様に監視役を頼むなんて」

「ネイサン?」

「あなたはどうぞ帰国してください。そのほうが安全だ。それに、陛下がそれをお望みでしょう」

「私、自分からあなたの看病をするって申し出たのよ」

「あなたが俺の怪我に責任を感じる必要はありません」

「責任とか、そういうことじゃなくて」

「それに、俺の怪我はすぐによくなります。休養の必要もありません」

「ネイサン、駄目よ。休養をちゃんと取って」

「エレイン様」


 きっぱりとした口調でさえぎられ、エレインはきゅっと口を閉ざした。

 丁寧な話し方で、きっぱりと拒否をしてくるネイサンは、この事件が起こる前の慇懃無礼な彼に戻ってしまったようだった。

 エレインは、自分の中で不安や戸惑いが、どんどん大きくなっていくのを止められない。もしかしたら、こうやってネイサンに拒否されるのではないかと、恐れていたのだ。生還して日常に戻り、冷静になったら、自分とのことを後悔するかもしれないと。


(でも……)


 エレインはネイサンには気づかれないように、そっと静かに深呼吸すると、枕元の椅子に腰を下ろし、ネイサンの顔を至近距離で覗き込んだ。


「私を追い払いたいの?」


 驚いた顔で見上げてくるネイサンを、エレインはまっすぐに見返した。


「それなら、ちゃんと前言撤回をして。私を愛しているって言ったのは嘘だったと、ちゃんと言って」

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