17

 曇りガラスの窓の外が明るくなっていた。再び目覚めた浩一は、幸子の不妊を知って取り乱したことを覚えていない様子だった。幸子の直感は確信に変わった。

 幸子自身が危機に際して意識を失うのと同様に、浩一は幼児期に戻ることで現実を遮断したのだ。記憶は残っているはずだが、病的な虚言症のメカニズムが、思い出すことを拒んでいる。

 普通どおりに目をさまし、普通に着替えをすませた浩一は、幸子に普通に接した。だが幸子は忘れていない。浩一が語った一言一言が頭にこびりついている。長い時間シャワーを浴びてホテルを出る支度をしてから、浩一に尋ねる。

「これからどうするの?」

 浩一も旅立つ準備は終えていた。ベッドに腰掛け、穏やかな表情で幸子を眺めている。

「まず、君の親父さんの安否を確かめる。安全なら、それでいい。何も知らせずに二人で札幌を出よう」

 幸子は賭けた。

「私、子供が産めなくなったの。それでも、一緒に逃げる?」

 浩一の表情がこわばった。だが、取り乱しはしなかった。記憶は、無意識の領域に貯えられていたにちがいない。

 浩一は、困ったように頬を引きつらせる。

「冗談……だろう?」

 幸子は動揺していなかった。

「ホント。明け方にも話したけど?」

 浩一は、ぐったりと床を見つめた。

「意味がなくなる……」

「やっぱりね……」

 幸子は賭けに敗れたことを認めた。

 浩一は幸子を見つめる。

「やっぱり……って?」

「子供が作れないなら、私と逃げる意味はない。そうよね?」

 浩一は驚いたように幸子を見つめた。

「なぜ俺の心が分かる?」

「さっき聞かされたばかり。私は、子供を産む道具だったって」

「俺が言ったのか……?」

 幸子は目を伏せた。

「そう。はっきり言われた。私は、心のない操り人形……。心なんて必要がない、ただの道具。人形使いに操られていただけ……」

 浩一は小さく肩をすくめる。その目に激情はなく、むしろ深い疲労がにじんでいた。

「そうか……俺、そんなこと言ったのか……。でも、なんで不妊に? 一度は妊娠できたのに」

「公園で暴行されたから」

 浩一ははっと幸子を見つめた。

「まさか……そんな皮肉が……」

「私を襲ったのが、あなただったから?」

「おまえ……知っていたのか……?」

「私みたいなバカでも、もう分かった……。ほんとに皮肉」

「いや……そんなことじゃなくて」

「なによ、これ以上の皮肉があるの?」

 浩一は幸子を鼻で笑ったようだった。それとも笑いは、自分自身に向けられていたのか……。

「なんでもないさ。今となっては」

 幸子も、引きつった微笑みを浮かべる他なかった。

「確かに、今となっては何もかも無意味ね。あなた、死んだお母さんに似ている美樹を独り占めにしたかった。それがかなわないから、私を操って美樹を脅かそうとした。なのに、子供ができたから……」

 浩一の目に憎しみに似た色が浮かぶ。

「なんでもお見通し、か?」

「あなたが自分の言葉を忘れているだけ」

 浩一は素直にうなずく。

「そういうところあるよな、俺。時々、自分が分からなくなる」

「悲しいわね」

「悲しい? おまえよりましじゃないか?」

「私より?」

「親父に縛り付けられて逃げ出す気力さえ失った、カゴの鳥」

「それほど不自由に見えた? 気楽に過ごしていたつもりだけど。父さんは、私を縛らなかったもの。あなたに会うまで、気ままな人生を送っていたのよ……」

 浩一はじっと幸子を見ていた。

「知らないのか?」

「何を?」

「おまえの親父の正体」

 幸子には、浩一が言おうとすることが全く予測できない。

「正体……って?」

 浩一は幸子を哀れむように見つめた。

「じゃあ俺、肝心なことは話していなかったんだ」

「肝心なこと……?」

「隠す理由もないよな。どうせ別れるんだから。この事件の核心さ。誰が本当の人形使いだったか」

「あなた……じゃないの?」

「俺も、操り人形」

「どういうこと……?」

「公園でおまえを襲った男――それは誰だ?」

「あなた」

「手を下したのは、確かに俺だ。だが、『近田幸子を襲え』と命じた奴がいる。それこそおまえの親父――近田大介だよ。俺は、おまえの親父から脅迫されて、強姦する芝居を打たされたんだ。俺もおまえも、あいつに操られていた人形なんだよ。それが原因で不妊だと? これが皮肉でなくて、何が皮肉だ?」

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