畳に座り込んだ幸子は、うつむいたままままかすかに震えていた。

 その姿を見おろす洋は、ぽつりと置かれた折りたたみのテーブルを椅子代わりに腰掛けた。疲れ果てたような溜め息をもらす。

「食事はしたのか?」

 幸子は洋を見上げる。

「食事……?」

 病院から帰る前に、夕食が出された。だが、箸はつけなかった。最後にいつ食事をしたか思い出せない。空腹感もない。

「身体を温められる食べ物はない? 飲み物でもいい。元気を出さなけりゃ。これからどうするかも考えられない」

 幸子はぼんやりと洋を見つめるばかりだ。洋は諦めたように立ち上がり、冷蔵庫に向かった。ドアを開け、中を覗き込む。

「なんだ……空じゃないか」

 幸子はこのところ、多くの夜を浩一の部屋で過ごしてきた。夕食が共に食べられない時は、コンビニかバーガーショップに頼る。料理もしない自分の部屋に、食料を置く理由はなかった。

 幸子はつぶやいた。

「ごめんなさい……」

 振り返った洋はかすかに微笑む。

「謝ることはない。何か買ってくる」

「いらない……」

 洋の目に厳しさが戻る。

「食べろ、と命令しているんだ」

 幸子は驚いたように洋を見た。

「なぜ……?」

「言いたくなかったが……はっきりさせておこう。君は昔から気が弱かった。ナイーブな点は、詩を書くための長所でもある。だが、こんな場合は迷惑だ。そんなだから、事件に巻き込まれて身動きできなくなる。事件そのものは君の責任じゃない。だが、君がもっと冷静で強ければ、これほど混乱しなかった。ろくな食事は取っていないんだろう? だから肝心な時に意識を失ったりする。立ち向かうべき時に、気持ちが逃げる。しっかり食べて、考えろ。そうしなければ、現実を直視する精神力が身に付かない」

 幸子は驚いたように洋を見つめる。

 洋は幸子の返事を待たなかった。

「そこのコンビニで買ってくる。それまで待ってるんだ。三枝を見つけたいなら、絶対に逃げるな。しっかりするんだぞ。僕は君の味方なんだからね」

 洋は出ていった。

 洋の率直な言葉が心を揺さぶっていた。

〝私……やっぱり甘えていたのかも……。浩一さんにも、父さんにも、まわりのみんなにも……。これじゃ、浩一さんと暮らしていけない。二人で生きていくんだから、強くならなくちゃ……〟

 気力を振り絞って立ち上がろうとした。腰に力が入らず、足も小刻みに震える。だが、テーブルに手を付けて支えれば倒れはしない。

〝立てるじゃない。立てるのに倒れたままなのは、甘えているから。誰かに助けてほしかったから。誰かって……洋さんに⁉ それこそ、甘えよ。こんな私が、浩一さんを助けられるの? 頑張るのよ!〟

 幸子は洋が戻るまでに湯を沸かしておこうと、流しへ向かった。壁に手をつきながら、カタツムリのようにのろのろと進む。と、冷蔵庫のドアが半開きになっていたことに気づいた。幸子はドアを閉めようと手をのばし、下に落ちている物に目を止めた。

「なに……?」

 声に出した幸子は、冷蔵庫を閉めてからゆっくりと座り、それを拾い上げた。身体の中で何かが動く音を聞いたような気がした。

「うそ……」

 ボタンだ。グレーのプラスチック製で、植物の葉の模様が浅く彫り込まれている。今、幸子が来ているコートのボタンだ。

「うそよ……うそよ……」

 幸子の中で動いたのは、血だ。全身の血が一瞬で落ちる音を聞いたのだ。ボタンは、赤黒く汚れていた。それが血液であることが、直観的に分かる。

〝なぜ、私のボタンが? なぜ、血が? なぜこの部屋に?〟

 幸子は血がついたボタンを握りしめ、着ているコートの前を見下ろした。いちばん下のボタンがない。畳に座り込むと、裾を持ち上げる。糸が引きちぎられたようにほつれている。

〝どうして……どうして……〟

 答えは、ボタンを見つけた瞬間から出ていた。昨日、この部屋で美樹と会うまで、コートにはボタンがついていた。幸子が落とさないかぎり、冷蔵庫の下に転がるはずはない。

 そして、血……。

 幸子は怪我をしていない。血を流したのは美樹だ。畳のシミも説明がつく。当然、美樹を襲ったのは――。

〝私だ……私が美樹ちゃんを傷つけたんだ……美樹ちゃんは血を流しながら、私のボタンを引きちぎって……私……気を失っている間にそんな恐ろしいことを……〟

 幸子は、血が冷えていくのを感じた。気が遠くなる。悪魔の手招きのように、身体から力が吸い取られていく。その先にあるのは、心地よい暗黒――。

 気を失う前兆だ。

 幸子は叫んだ。

「だめ! 逃げちゃだめ!」

 幸子は冷蔵庫の把手をつかんで身体を支えた。ドアが開く。

「だめよ!」

 幸子はドアの縁に自ら額をぶつけた。意識をはっきりさせるために、何度もぶつけた。

「だめよ! 自分がしたことなのよ! 気絶なんかしない!」

 幸子は冷蔵庫に頭をぶつけ続けた。何分そうしていたかも、記憶していなかった。

 部屋に戻った洋が、コンビニの袋を投げ捨てて叫ぶ。

「何をしている⁉」

 靴のまま駆け込んだ洋は、力任せに幸子を冷蔵庫から引きはがした。床に倒れても暴れ続ける幸子に覆いかぶさり、動きを封じる。

「落ち着け! 何があった⁉」

 幸子は抵抗を止めて、洋を見上げた。額には、ドアにぶつけた跡が残っている。だが幸子は、冷静な声で言った。

「私、美樹ちゃんを傷つけたみたい」

 洋の顔色が変わる。厳しく問い詰める。

「殺したのか⁉ 君が殺したのか⁉」

 幸子は怯えをあらわに、身体をすくませた。

「分からない……。助けて。美樹ちゃんを助けて……」

 洋はしばらく幸子の表情を見つめてから、力強くうなずいた。

「そのために来たんだ」

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