三時間が過ぎた――。

 幸子はみぞれ混じりの深夜の風にさらされて、芯まで冷えきっている。だが、その場を動けなかった。

 琴似駅に近い場所に、ライブハウスがある。地元のバンドの登龍門であり、稀にメジャーなアーティストが訪れるそこは、客席二百人ほどのコンパクトな施設だった。今では最新設備を備えたホールに栄光を奪われた観があるが、そのライブハウスが札幌の音楽シーンを支えた歴史は誰もが認め、インディーズアーティストにとっての聖地となっている。いまだに多くの若者を引きつける人気スポットだ。

 だが、その前を行き交う酔っ払いも急速に少なくなる時間だった。バスも運転を終え、客待ちのタクシーも残り少ない。

 幸子はウールコートのポケットに両手を突っ込んで震えながら、ライブハウスの裏口を見つめ続ける――。

〝父さん、ごめんね。でも、こうするしかないの……〟

 大介は、幸子が望んだよりもはるかに早く眠りについた。睡眠薬とビールの組み合わせが効果を高めたらしい。後ろめたさを振り切って大介のマンションを出て以来、幸子は浩一を探し続けていた。

 浩一は自分の部屋にも、幸子のアパートにもいなかった。バイト先へも連絡した。しかし電話に出た相手は、憤慨していた。

『今日は来てない。今度仕事をすっぽかすようならクビだ、と伝えておいてくれ。代わりの人間ならいくらでもいるから』

 口調は本気だった。浩一は身を隠そうとしているらしい。

〝探さない方がいいかも……。父さんに見つかったら、刑務所に入ることになるかもしれないし……。いえ、だめ。危険を知らせなければ、逃げきれない。罪があろうとなかろうと、身を守れない〟

 何よりも、本人の口から真実を聞きたかった。聞かなければならなかった。幸子は今夜中に必ず浩一を捜し出すと心に決め、街をさまよった。二人で行ったことのある店へ手当たり次第に顔を出した。行き当たりばったりで見つかるとも思えなかったが、じっとしていられなかったのだ。

 心細かった。自分の無力さに腹を立てていた。誰かに浩一の消息を尋ねたかった。そして、浩一と共通の友人がいないことを改めて思い知らされた。浩一の恋人としての自信が持てなかった幸子は、ずっと仲間に近づくことを避けてきた。浩一と二人だけの世界に閉じこもり、安らぎと希望を見いだしてきた。それは、幻想にすぎなかった。どれほど甘美な幻想であろうと、厳しく立ちはだかる現実をうち砕く力は持てない。

 幸子は容赦なく過ぎていく時間に追われながら、ひたすら繁華街を歩き回った。睡眠薬が効いているうちに発見できなければ、大介が先に浩一を探し出す。腕利きの刑事と人探しを競うほど、幸子は自惚れてはいない。二度と浩一に会えなくなるのだ。

 時間がなかった。必死に浩一の行き先を考えながら歩き回る幸子は、地下鉄の入り口に殺到する女子高生の集団に巻き込まれた。顔を紅潮させた彼女たちは、分厚いパンフレットを抱えて『よかった! よかった!』を繰り返す。パンクバンドのライブ帰りらしい。

 答えが閃いたのはその瞬間だった。

〝あのライブハウス! 夜が明けるまでいたことがあったわ……〟

 ライブハウス自体は、十時に客が引ける。だがスタッフは、後片づけや賄いの食事、ステージにセットされたままの器材を使ったバンドの練習で夜を明かすことも多い。時には盛り上がったミュージシャンが、朝までバカ騒ぎすることもあるという。浩一は、仲間のコネを使って内輪のパーティーに加わることがあると言っていた。

〝もう探せる場所はないし……〟

 幸子は祈るような気持ちで、ススキノから地下鉄に飛び込んだ。

 そして、三時間――。

 ライブハウスが入ったビルには、まだ人の気配があった。近所からの苦情に配慮してか、音を絞った演奏がかすかに漏れてくる。だが幸子は、中に入って浩一を探そうとはしなかった。浩一以外に、知った顔はない。ここにいなければ、他に当てもない。貸しスタジオで聞かされたような、浩一への非難を繰り返されることも避けたい。

 だが本当に怖れていたのは、ライブハウスに浩一の知り合いが存在しない――という事態だった。

 美樹は、浩一はミュージシャンではないと言った。それが事実なら、ずっと騙されていたことになる。貸しスタジオで働いているは確かでも、それがミュージシャンの証明にはならない。

 真実は知らなければならない。だが、知るのは恐い。

 幸子は四車線道路の街路樹に身を寄せながら、ライブハウスの出口を見つめていた。背後にはひっきりなしに車が行き交い、歩道の酔客たちは怪訝そうな視線を向けて過ぎていく。北風を背中に受けながら、それでも、三時間、動くことができなかった。じっと、凍りついたように……。

 ドアが開いた。

 そこに立った男を見て、幸子の唇が開く。

「浩一さん……」

 浩一は幸子に駆け寄った。両腕で抱きしめ、驚きを隠せないようにつぶやく。

「なんでここに……? 待ってたのか? 冷えきって……中に入ればよかったのに……。どこに行ってた? ずいぶん探したんだぞ」

 幸子は必死に涙をこらえていた。

「会いたかった……会いたかったよ……」

 浩一は言った。

「暖まるのが先だ。大事な身体だからな。ホテルを探す」

「ホテル……?」

「風呂に浸かって休むだけだ。何があったか聞かせてくれ」

 普段はラブホテルを嫌う幸子も、タクシーを止めた浩一に導かれるままに車に乗った。

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