5

 大介は浩一を見ると、ドアに手をかけたまま硬直した。

 父親の険しい表情に怯えた幸子は、声も出せなかった。頭の中で叫ぶ。

〝父さん、やめて!〟

 幸子は身体を動かせず、呼吸すらできなかった。どうすればいいのか分からない。

 わずかでも病室の空気を振動させれば、父親の怒りが爆発するのではないか……。浩一を殴りつけるのではないか……。

 幸子の恐れは的中した。

 大介は異様にゆっくりとドアを閉めて病室に入った。トカゲのように無表情な目が、冷たく浩一を見おろす。

 以前、大介の部下が語ったことがある。百戦錬磨の組員たちが恐れるのは、大介が声を荒げる時ではない。その目が表情を失う瞬間だ、と……。

 幸子は、顎の骨を砕かれる浩一を見たような気がした。

 大介は浩一と会ったことがない。しかし幸子は、浩一にアメリカ人の血が流れていることは話している。相手を間違えるはずはなかった。

 大介は幸子が恐れた通りに行動した。押し殺した声で言う。

「娘には近づくなと命令したはずだ」

 浩一に歩み寄り、革ジャンの衿をつかもうと手をのばした。

 幸子には、大介が必死に怒りを押さえつけていることを感じた。だが怒りを封印すれば、圧力は高まる。増幅された圧力を拳で解き放てば、浩一の命が危ない。

〝お願い……やめて……浩一さんは、私を助けてくれたのよ……〟

 その必死の願いが、幸子の目を曇らせていた。大介が浩一に〝命令した〟という言葉の意味には気づかなかった。

 意外なことに、浩一は大介よりも素早く反応した。ベッドサイドの椅子から立つと、いきなり床に膝をついたのだ。

 浩一の土下座に意表を突かれた大介は、動きを止めた。激しい怒りのほんの数パーセントが、困惑に変わる。

 浩一は頭を床にすりつけた。そのまま大声で叫ぶ。

「お願いです! お嬢さんと結婚させてください!」

 幸子は浩一の言葉に息を呑んだ。バットで打ちのめされたかのように、意識が揺らぐ。

〝まさか……本当に……? こんな時に……本当に言うなんて……〟

 幸子は浩一の愛情を信じていた。自分が愛されていることを、信じたかった。だが、浩一の優しさが弱さに似たものであることも、冷静に嗅ぎ分けていた。

 幸子はいつも思っていた。

 人を愛することは難しくない。出会いの確率は、交通事故よりずっと高い。愛を言葉にすることも、照れさえしなければたやすい。真に困難なのは、言葉を行動で裏づけることだ。命を賭けて愛を貫こうとすることだ。

 命を賭けて――。

 相手を暴力犯罪担当刑事の近田大介に限れば、その比喩は少女趣味のロマンチシズムとは言えない。大介の怒りを買って生死の境をさまよった犯罪者は少なくないのだ。幸子はそれを知っている。浩一にも何度か話している。警官といえども、所詮は一人の人間だ。怒りが狂気を生むこともある。

 だから幸子は、浩一から聞かさせれる歯の浮くような言葉だけで満足していられた。二人きりの時に甘い幻を見られるだけで十分だった。父親に結婚を懇願してほしいとまでは望んでいなかった。

 むしろ今は、性急な行動を避ける時だ。父親の感情が和らぐまでは、怒りに油を注ぐようなことは自重してほしかった。自分はそう願っていると、幸子は思っていた。

〝嘘でしょう……本当に言うなんて……。言ってくれるなんて……〟

 幸子は考え違いをしていた。浩一の言葉が、天にも昇るほどの喜びだった。

〝私、やっぱりこの一言を待っていたんだ……。ありがとう……〟

 しかし、喜びに浸っていられる状況ではない。父親の怒りを鎮めなければならない。

〝父さん、お願い……怒らないで! 浩一さんを傷つけないで!〟

 幸子は祈るような目で父親の顔色をうかがった。

 大介は、床にひれ伏した浩一を見下ろし、茫然と言葉を失っている。浩一の言葉は、幾多の修羅場を泳ぎ渡ってきた刑事にさえ意外なものだったのだ。

 浩一は顔も上げずに、言葉を重ねる。

「お願いです。結婚を許してください!」

 我に返った大介は、ゆっくりとつぶやいた。

「どういうつもりだ」

 その声は、他人の耳には弱々しい囁きにしか聞こえなかっただろう。人生を終えようとしている老人の繰り言のように。

 だがそれは、幸子が滅多に聞いたことがない、また聞きたくもない声だった。

 封印された怒りが壁を破ろうとしている。そのつぶやきは、怒り狂った時にもらす、自制心が崩壊する前ぶれなのだ。

 幸子は、父親の口調の冷たさにおののいた。豪華客船を押しつぶした氷山のような、重い敵意をはらんでいる。

〝お父さん……浩一さんを憎まないで……どうしてそんなに嫌うの……?〟

 幸子が父親の気持ちを読み違えるはずはなかった。やはり大介は、心の底から浩一を憎んでいる。幸子が交際を打ち明けた瞬間から、ずっと憎み続けていたのだ。

 幸子には、浩一がそこまで嫌われる原因が理解できない。

〝なぜ……?〟

 しかし、浩一に大介の心を見抜けと言うのは無理だ。ほんの短い言葉から大介の怒りの激しさを察することは、娘にしかできない。

 浩一は大介の間延びした口調に気を許したのか、立て続けに言葉を重ねた。

「仕事も探します。髪も切ります。お嬢さんにふさわしい男になってみせます。ですから俺を――いや、僕を幸子さんと――」

 大介はいきなり行動に出た。

 素早く屈むと、浩一の髪をわしづかみにする。そのまま引っ張って浩一を立たせ、左手でジャケットの衿を握った。顔を引き寄せる――。

 大介は浩一よりも首一つ分背が低かった。だが、筋肉の量は遙かにしのいでいる。幸子の目にも、大介の方が大きく見えた。

 浩一は何が起こったかが理解できず、目を丸くするだけだった。

 悪夢が現実になろうとしている。

 大介は浩一をにらみつけた。

「ふざけるのもいい加減にしろ! 何様のつもりだ⁉」

 浩一は、ようやく大介が必死に怒りをこらえていることに気づいたようだった。目に、怯えがあふれ出す。

「で、ですから、お嬢さんと……」

「貴様!」

 大介のごつごつとした右手が固く握られ、後ろに引かれる。大介を知る組員たちが恐れる拳だ。直撃されたら、ひ弱な浩一の骨格は粉砕される――。

 幸子は叫んだ。

「やめて!」

 危機が、声を絞り出させた。

 大介の右拳は、引かれたまま静止した。怒りの炸裂をかろうじて抑え、かすかに震える。

 大介は首だけをめぐらせ、幸子をにらんだ。

 幸子は続けた。自分でも信じられないほど、きっぱりと言った。

「浩一さんを愛しています!」

 大介は戸惑いを見せた。瞳に渦巻く怒りが、哀しげな色を帯びる。しかしそれは、瞬く間に苛立ちに変わった。

「許さん」

 いったん口を開いた幸子は、もう恐れなかった。

「許可はいりません」

「孕ませたのはこの男なんだろう⁉」

「そうよ! 私の自由です!」

「身勝手は許さん!」

「もう大人よ! 自分で決めます!」

 大介は一瞬、声を失った。

 幸子の声に、これまで聞いたことのない意志の強さを認めたようだ。驚いている。

「幸子……」

 幸子は、父親が見せたわずかな気持ちの隙を見逃さなかった。本能的に次の言葉が口を突いて出る。

「父さん、私はもう一人前の女です。女にならせてください。浩一さんと結婚させて。自由を奪わないで」

 大介は沈黙した。全身に張り詰めていた怒りがしぼんでいく。

 浩一が幸子を見てつぶやいた。

「幸子……」

 幸子は浩一を見返す。

「一緒に暮らしたい……」

 大介は、ジャケットを握りしめた指を開いた。そして、浩一の胸を平手で軽く突く。

 浩一はよろけて後ずさると、今まで座っていた椅子に崩れるように腰を降ろした。

 大介は幸子を見ようとはしなかった。首をうなだれたまま、つぶやく。

「大事な話がある」

 幸子は父親の言葉を聞いてはいなかった。

「浩一さんと結婚させて!」

 大介は冷静さを取り戻していた。

「焦るな。退院してからじっくり話そう。その前に教えなければならないことがある」

「結婚させてください!」

 大介は幸子をにらんだ。苛立ちをあらわにして叫ぶ。

「くどい! 話を聞いてからにしろ!」

「父さんの話なんか聞きません! 悪く言うに決まっているもの!」

「おまえはこいつの過去を知らない! この男は、おまえを愛してなどいない! 利用しているだけだ!」

「父さんのバカ! もう勝手にします!」

 幸子は毛布を引き上げると。頭からすっぽりとかぶってうずくまった。それは幼い頃から身にしみついた、外界から自分を切り離す〝儀式〟だった。父と母が争う声を聞かないために。毛布一枚で外界を遮断できるはずがないと知っていながらも――。

〝バカ、バカ! 父さんのバカ!〟

 と、唐突に幼い日の記憶が頭の中にふくれ上がり、周囲の様子が消え去る――。

〝声がする……父さんの声……母さんの声……ケンカはいや……恐い……母さんをいじめないで……〟

 ここ何年か思い出したこともない過去――たった一つ残っている母親の記憶だった。

 母は、両手で顔を覆って泣いていた。その母を、若い大介が責めている。暴力は振るっていないが、激しくなじっている。

〝仲良くして……わたし、父さんが好き……母さんが好き……だから仲良くして……〟

 幸子は、部屋の隅で布団をかぶって縮こまっていた。

 たぶん、五歳の頃――。

 なぜか、手のひらの傷がうずく。

〝父さん……お願い……〟

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