3

 幸子はゆっくりと目を開いた。ベッドに寝かされていた。誰かが顔を見下ろしている。近すぎて、目の焦点が合わない。

 男のようだ。新しい皮の匂い――。

 浩一は、一週間前に黒い革ジャンを買っている。

「浩一さん……?」

 幸子は、自分の声が弱々しく擦れていたことに驚いた。

 浩一が、わずかに顔を離してにっこりと笑う。その姿は、カメラを意識したトム・クルーズそのものだ。

「やっと起きたな。心配させやがって。夜が明けてから、三五回目だぞ」

 幸子の意識は、霧に包まれた森で迷ったようにはっきりしない。だが白い霧のスクリーンに映し出されたように、浩一と出会った瞬間が不意に鮮明に現れる。

〝あ……あの声だ……〟

 四ヶ月前の、あの時――。

 地下街の書店で声をかけたのは、浩一の方だった。正月休みに勉強するために会計ソフトの解説書を探していた幸子は、いきなり肩をたたかれた。

『ねえ君、音楽用のコンピューターのことって、分かる?』

 親しげに話しかけられた幸子は、知り合いと間違われたのだと思って振り返った。背の高い浩一を見上げ、相手は外国人だ――と身構えた。だが、幸子の目をのぞき込む浩一は真剣に念を押した。

『俺、バンドやってんだ。打ち込みってしてみたいんだけど、何から初めていいか見当がつかなくて……』

 母親に甘えるような口調だった。怪我をしたのか、左手が包帯に包まれている。幸子の視線が包帯に止まると、浩一は恥ずかしそうに手を背中に隠した。

『酔っぱらって階段から落ちちゃって……。指が折れたから、ギター、しばらく弾けないんだ。だからさ……』

 幸子の手のひらにも、深い傷跡が残っている。記憶はないが、四、五歳の頃に階段から落ちて花瓶を割り、破片が深く刺さったのだと聞かされてきた。

 相手が似た体験を持っていることを知った瞬間、年下のいとこの相手でもするように気が緩んでいた。男に構えて接する癖が染みついていた幸子には、始めての感覚だった。

 浩一の日本人離れした容姿が、逆に現実感を失わせていたのかもしれない。しばらくの立ち話の後、幸子は浩一に誘われるままに喫茶店に入った。

 浩一は、密かに打ち込みをマスターしてバンド仲間を驚かせたいんだと、熱っぽく語った。しかし、コンピュータの知識が全くないことは、幸子にもすぐ見抜けた。ウィンドウズとマックが違うことも知らなかった。一方の幸子には、音楽の知識が欠けている。会話はかみ合わないはずだった。

 なのに二人はそこで二時間を過ごした。最初は遠慮気味だった幸子は、夢がちりばめられた浩一の馬鹿話に声を上げて笑った。

 そして知った。自分は、他人との接触を求めていたんだ、と……。

〝そう、この声よ……。私を救ってくれた、声……〟

 幸子は暖かい声に安堵し、浩一を見つめた。

「三五回目……?」

 浩一は幸子の唇にそっと人差し指を当てて、小さくウインクする。

「キスの数だよ。お姫様を目覚めさせる、ディープキス。だけど、言うなよ。触るな、って釘を刺されてんだから」

 幸子の舌には、浩一と触れ合った感触が残っていた。だが、いつものように全身がとろけるような暖かさはない。

 何かがおかしい……。

 そして、気づいた。

「ここ、どこ? 何があったの……?」

 幸子は身を起こそうとして、浩一に肩を押さえられた。瞬間、手の温もりが伝わったような気がする。

「起きちゃダメ。ナースから、見張っているように言われてる」

「ナース……って?」

 幸子は周囲を見渡した。

 窓から暖かな日ざしが差し込んでいる。小ぢんまりとした白い部屋。白く塗られた鉄製のベッド。真っ白なカバーをかけた毛布。建物は古そうだが、清潔に整えられている。そして、周囲に漂うかすかな消毒の匂い――。

〝病院よね、当然……〟

 部屋には、二人きりだった。

 浩一がうなずく。

「救急車で担ぎ込まれたんだぜ。場合が場合だから、個室を手配してくれた。他人と顔を会わせるのは辛いだろうって。精神科の先生が口添えしてくれたそうだ」

〝救急車? それに……〟

 幸子はつぶやいた。

「でも……どこの病院?」

 幸子はそう問いながらも、次々に沸き上がる疑問を押さえられなかった。

〝私……どうしちゃったの……? これって、夢? そんなはずはないか……。でも、なぜ病院に……? 精神科って……。思い出せない……〟

 浩一は幸子の動揺には気づかない様子で、寝かせた幸子の肩に毛布をかけた。

「名前、なんていったかな……? とにかく、でっかい総合病院。建物は骨董品並みだけど、評判は良さそうだぜ。産婦人科もあるから、アフターケアも心配ない。警察との連絡もいいみたいで、さっきも刑事さんが顔を出していった。誰かが救急車を呼んでくれたんで、大事にはならなかったって。手当てが遅れていたら、おまえも危険だったらしい。本当に、許せない奴だぜ」

 浩一の口調はしだいに荒々しく変わっていった。目にも怒りがにじみ出している。

 そんな浩一を見るのは初めてだった。誰にともなく腹立ちをぶちまける浩一の顔をぼんやりと見つめるばかりだ。

〝何のこと? 分からない……〟

 浩一が、心配そうに幸子の目を覗き込んだ。表情にいつもの穏やかさが戻る。

「まさか……覚えてないの?」

 幸子は小さくうなずく。

「うん……」

 浩一は幸子の言葉を真に受けなかった。

「あんな事があったのに?」

「分からない……」

 浩一はそのまましばらく幸子の不安げな目を見つめてから、微笑んだ。わずかに引きつった唇に、記憶を失ったことが信じられないという本心がにじみ出ている。

 だが、言葉は優しい。

「その方がいいよな。神様が嫌な記憶を消してくれたんだ。これって、けっこうラッキーなんじゃないか? ま、どうせ一時的なものだろうし」

 幸子は胸を押しつぶされるような不安に襲われた。

〝嫌な記憶……? 刑事だとか、産婦人科だとか……? 何があったのよ……なんで覚えてないの……? 私……どうかしちゃったの……? あ、刑事!〟

 幸子は不意に息を呑んだ。

「父さん、来たの⁉」

 浩一は小さく首を横に振った。

「まだ知らせてない」

「ここに来た刑事って、どこの署の人?」

「しょ?」

「警察署の名前」

「ああ。北署……って言っていたかな」

 幸子はかすかな安堵の溜め息をもらす。

「なら、大丈夫か……」

 幸子の父親は道警本部に勤務している。距離は遠くないとはいえ、よほどの偶然が重ならないかぎり所轄の小さな事件がすぐに知られる恐れはない。

 浩一は、目を伏せてつぶやく。

「知られたらまずいか、やっぱり……」

「父さんには会いたくない」

 だが、浩一はすまなそうに答えた。視線は床に向かったままだ。

「でも俺、しばらくしたら連絡しようと思ってる。支払いがあるし……」

 幸子は素早く毛布から手を出して、浩一の手首をつかんだ。

「貯金がある! 黙ってて!」

 浩一は幸子を見た。

「分かった。おまえがしたいようにするよ。どうせ俺、嫌われるだろうから」

 幸子はまだ、浩一を父親に会わせてはいない。浩一が殴られるのではないかという恐れが頭から離れないのだ。

 まだ父親と暮らしていた頃、テーブルに置いてあったiPhoneに浩一の名前が表示され、先に取られたことがあった。父親は『二度と娘に近づくな』と怒鳴った。本気だったことは、長年ともに暮らしてきた娘ならすぐ見抜ける。

 実際しばらくは、浩一との連絡が途絶えた。その数日間に幸子は、自分がどれほど浩一を必要としているかを思い知った。

「父さん、怒ると乱暴だし……。仕事が仕事だから、仕方ないんだけど……」

 浩一の視線が揺らぐ。口調も弱々しい。

「だけど俺……なんて言ったらいいのか……信じてもらえないかもしれないけど……」

 幸子は首をかしげた。 

 浩一がこれほど自信なさそうに振る舞うのを見た記憶がなかったのだ。いつもは無神経なほど陽気で自信に満ちた浩一が、迷子の幼児のように思える。

「どうしたの?」

「俺……実は俺……怖いことは怖いんだけど……でも、親父さんに会ってはっきりさせたいんだ。正式に許しをもらって、幸子と結婚したい――」

 幸子は反射的に浩一の手首を握りしめた。

〝結婚⁉〟

 息が止まりそうだった。ずっと夢見ながら、口に出せずにいた一言――。それを、浩一の口から聞くことができたのだ。

 頭に血が昇る。唐突に訪れた至福の瞬間に、気が遠くなる。幸子は、辛うじて言葉を絞りだした。

「結婚って……? 私と?」

 浩一は幸子に手を重ね、今度こそ心からの微笑みを見せた。

「他に誰がいる?」

 幸子の目に涙があふれる。

「でも……私なんかと……」

 浩一は幸子に覆いかぶさるように身を寄せ、軽くキスをした。

 わずかに差し入れられた舌が、とろけるほど甘い。

 その時、つい最近、お局様から言われた嫌みが頭に浮かんだ。給湯室の片隅で、耳元にささやかれた言葉――。

『見たわよ、男と一緒にいるの。ホスト? ヤバイよ、騙されてんじゃないの? 釣り合いとれてないもん。結婚詐欺かも……』

 反論できなかった。実際、幸子自身が浩一にからかわれているのではないかと恐れ続けていたのだ。

 だが、金をせびられたことは一度もない。二人で過ごす時は、幸子に財布を出させることもまれだ。芝居じみた嘘や大げさな夢にはいつも振り回された。それでも、損害を受けたり不快な思いをさせられたことはない。信じきれなくても、疑う理由がないのだ。

 そして今、目の前にいる浩一は真剣に結婚を申し出ている。

〝ためらっている場合じゃない! 飛び込むのよ!〟

 浩一は、幸子の決断を促そうと身を乗り出す。

「おまえは俺の女だ。俺の一部だ。結果はともかく、子供ができたんだし……」

 その言葉は逆に、固まりかけた幸子の気持ちを打ち砕いた。

 幸子の身体がぴくんと震える。透明なナイフが心臓に突き刺さったかのように、鋭い痛みが走り抜ける。

〝子供が……できた……?〟

 浩一が身を離した。幸子のかすかな動きには気づいていない。

「だから、どうせ親父さんには会わなくちゃならない。男の責任として、けじめをつける。おまえを愛していることを、信じてもらう。まともな仕事がない俺を認めてくれるかどうか、自信はないけど……。でも俺、精一杯頼む。バンドを辞めても、きちんとした仕事につく。必ずおまえを幸せにする。親父さんも、きっと分かってくれるさ……」

 浩一の声は静かだったが、その言葉には決意がみなぎっていた。

 だが幸子の耳には、浩一のつぶやきは聞こえていなかった。幸せの絶頂が、一瞬で暗転していた。

〝赤ちゃんが……〟

 恐怖の記憶が、じわりと意識の中ににじみ出る。もやもやとした黒い霧が次第に形を鮮明にして、昨夜の出来事を再現していく――。

〝そうよ、赤ちゃんがいたのよ! なのに、入院だなんて……〟

 自分にどんな災難が襲いかかったのか、なぜかはっきりと思い出せない。しかし忌まわしい事態であることは疑いようがない。

 幸子は慌てて浩一の手を放し、毛布の下の自分の腹に当てた。むろん、外から触って分かることなどない。

 浩一が哀しげにつぶやく。

「ナースが、一時間ぐらいで薬が切れるって言ってた。少し痛むかもしれないって」

 幸子は浩一を見つめた。頭の中では、細切れの単語が渦巻いている。

〝病院……産婦人科……精神科……アフターケア……? まさか……〟

 激しい怖れが口を突いた。

「浩一さん……赤ちゃん……私の赤ちゃん、どうしたの……?」

 浩一は毛布に手を突っ込み、幸子の腹を軽くさすった。

「おまえの赤ちゃん、じゃない。俺たちの赤ん坊だ。痛み始めた? ナース、呼ぼうか?」

「赤ちゃんは……?」

 浩一は目を伏せた。

「流産した。まだ形にもなっていない時期だから、母体に負担はないって。出血は精神的なものが大きいらしくて、心配ないそうだ。二、三日休めば、元通りの身体になれる。子供はまた作れるさ。若いんだから」

 幸子の頭に、浩一の言葉の一部分だけが爆発するように轟き渡った。

〝流産……赤ちゃんが……どうして……? 何があったの……?〟

 幸子は必死に記憶を手繰り寄せようとした。答えは霧の中にある。あることは分かっている。だが、黒い霧はそれ以上形を定かにしない。

 自分が病院に担ぎ込まれた原因は見えない。流産の理由も分からない。

〝なぜ思い出せないの……?〟

 幸子は、自分の心臓が激しく脈打ち始めたのを意識した。

 どくん……どくん……どくん……。

 普段は意識したことがない、こめかみの血管のうねりが、陽なたでのたうつミミズのように感じられる。

〝なぜ……? 自分のことなのに……。どうして思い出せないの……?〟

 うろたえる幸子の目は、しだいに焦点を失っていった。

 と、幸子は肩を激しく揺さぶられて我に返った。

 身を乗り出して幸子の両肩をつかんだ浩一が、叫ぶように問う。

「おい⁉ 大丈夫か⁉」

 幸子はじっと浩一の目を見返した。

 かすかにブルーがかった瞳の奥に、心から幸子の容体を心配する輝きがある。

 幸子は理解した。

〝私……愛されている……〟

 そして、気づいた。

〝心配をさせちゃいけない〟

 浩一が、今度は穏やかに繰り返す。

「大丈夫?」

 幸子は微笑んだ。

「うん。ちょっとめまいがしただけ」

「ナース呼ぼうか?」 

「もう平気。急に体を起こしたからよ」

〝記憶が消えたなんて、言えない……〟

 浩一は安堵の溜め息をもらして椅子に戻った。

「なんだかぼんやりしていたから、びっくりしたぜ」

「ごめんね、心配ばかりさせて」

 浩一はにやりと笑った。

「いいんだ。嫁さんなんだから」

 幸子はようやく浩一の言葉を、言葉通りに受け入れた。

「お嫁さんって……嘘じゃないの?」

「おまえに嘘をついた事があったか?」

 あった。ライブに来た矢沢永吉から昼飯をおごってもらったとか、幸子には名前も覚えられないような北欧のロックギタリストが練習風景を真剣に見ていったとか……。

 どれも嘘だと知っている。しかし、許せない嘘ではない。むしろ浩一のそんな夢に、いつも力づけられてきた。

 つきあい始めて間もない頃、バイト先に嘘を言って二日間幸子を抱き続けたこともあった。幸子はそれが、浩一にのめり込むきっかけだったと思っている。

 男への、そして性への恐れが拭い去られた二日間――。

 浩一の嘘は、嫌いではない。

 幸子が浩一に抱きつけない理由は、自分自身にある。

「でも……」

 浩一の愛情は信じている。素直に喜びたい。だが、自分が浩一にふさわしい女だとは、やはり思えない。つき合った期間も長くはない。浩一が心変わりしたらとを考えると、ショックに耐える自信もない。そして何より、父親が納得するとは思えなかった。

 浩一が、うろたえたようにつぶやく。

「いやか……? 俺じゃ、結婚はダメか?」

 幸子ははっと浩一を見つめた。

「とんでもない! 私だって愛してる。一緒に暮らしたい!」

「じゃあ、問題ない。なぜ、ためらう? ちゃんと結婚して、また赤ん坊を作ろう。家族を作ろう」

「でも、あなたの夢が……」

「バンドか? そんなもの、結婚してたってできる。今までだってバイトに追われながらやってきた。才能さえあれば、必ずメジャーになれる。俺の実力を甘く見るなって」

 幸子には、浩一の強がりの裏が読めた。

〝夢を捨てる気でいる……〟

 幸子の頬に涙がこぼれた。

 浩一がつぶやく。

「なぜ泣く?」

「嬉しい……でも、悲しい……」

 浩一は幸子の視線から目をそらした。

「分かってくれよ。俺だってバカじゃない。才能の限界だって感じてる。いいんだよ、この辺でけじめをつけたって。叶わない夢なら、どこかで諦めなけりゃならない。俺は今、家族が欲しい。子供が欲しい。流産は残念だったけど、そのおかげで本当に欲しいものが見えた。だから、もう何も言うな」

 幸子は思わず浩一の手を握りしめた。

「浩一さん……」

「二人で暮らそう」

 それでも幸子の目からは不安が消えない。

「でも、父さんが……」

「聞いてなかったのか? 必ず説得する。それに俺たち、大人なんだぜ。婚姻届にハンコを押せばそれまでさ」

 幸子は、父親を裏切りたくはなかった。だが、浩一を失うことはなおさらできない。

「信じていい?」

「何度も言わせるな。病院を出たら、一緒に暮らす。いいな?」

 幸子は胸のこみあげる幸せに、再び涙をあふれさせた。

「はい」

 その時、病室のドアがスライドした。

 ドアを開けたのは幸子の父親――近田大介だった。

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