粗忽スワンプマン
鳥取の人
第1話
コアラの仮装をした太宰治にオオサンショウウオを投げつけたところで目が覚めた。
不思議な現象に見舞われた時に、その場ではそれを不思議だと思えない人は多いものである。とくにエフ氏はひどく恨みがましい上に、考えるべきことは考えないタチだった。
研究室で昼寝していたはずのエフ氏は、目の前の青空をぼんやりと眺め、しばらく逡巡してから「主幹のサンショウウオのせいだ」と結論づけ、起き上がった。辺りを見回し、ようやく驚いた。研究所の前庭じゃないか。研究室にいたはずなのに、なぜだ?
しかしエフ氏はそれ以上考えず、頭を振りつつ職場に戻っていった。唯一頭に浮かんだのは、「俺だけいつもこんなことばかりだからな。他の奴らは何でもうまくいくのに、クソ不公平な……」
エフ氏が研究室のドアを開けると、研究主幹──50がらみの大柄な紳士である──から尋ねられた。
「腹を抱えてトイレに行ったから長くなると思っていたが」
自分の席に着いて答える。「トイレ?トイレなんて行ってませんが。酒が抜けてないんじゃないですかね。飲みすぎなんですよ主幹。こないだもそれで奥さんに怒られたってボヤいてませんでした?」
「いや、最近は控えている。その代わりカニばかり食わされてね。鳥取のカニ食べたい鳥取のカニ食べたいとうるさくて……」
「サンショウウオがですか?」
「そんなわけないだろう。妻がだ」
研究主幹はサンショウウオ──名をチャペックという──を飼っている。二年前に買ってきたのは奥さんだが、主幹の方が熱心に世話をするようになった。
「しかし君がうちのチャペックを覚えてたとはな。会ったことがあるか?」
「あるわけ無いでしょう。主幹がいつも話しているので……」
「ああ、そうだったな。すっかりサンショウウオ好きになってしまってね。サンショウウオなら口に入れても痛くないよ」
「目ですけどね、目。
ところで主幹、ここの研究所の愛称を公募した件ですが……」
「あれか。先週決まったんだったかな。たしかクォンタムブロードウェイ……」
「クォンタムゲートウェイです」
「そうそう、ゲートウェイ。長い名前を覚えるのは苦手でな。公募に何か問題でもあったのか?」
「少しばかり燃えてるんですよ。『クォンタムゲートウェイ』の応募数が130位だったものだから、公募する意味があったのかと反発の声が上がってまして」
「そうなのか……私は良いと思うがね、そのクォンタム…………ゲートウェイ。なんにしても量子のクォンタムは入っていたほうが良いだろうしな。そういえば10年くらい前にも似たようなことがあった気がするが」
「もう13、4年前になるはずです。山手線の……」
そこで再びドアが開き、誰かが入ってきた。エフ氏と主幹は入ってきた人物の顔をしばし見つめる。
その人物はエフ氏にそっくりだった。顔だけではない。背格好から着ているものまで一緒だ。こちらもエフ氏と主幹をポカンとした表情で眺めている。
最初に沈黙を破ったのは主幹だった。二人の間に立ちふさがって叫ぶ。
「見るな!ドッペルゲンガーだ!」
「科学者がそんなもの信じないでください!」二人のエフ氏が同時に言い放った。
大きな声にハッとして、即座にドッペルゲンガー説を放棄したらしい。脇に一歩退き、二人のエフ氏をもう一度見比べる。
主幹がこの状況をどう理解すればよいのか見当もつかずにいる中、二人のエフ氏は何かに思い至ったらしかった。やはり同時にである。
「エヌだよな。お前」
だが違った。的外れもイイトコである。先に言った通りエフ氏は被害妄想癖があり、かつてこの研究所への就職競争で自分に負けたエヌ氏が復讐に来たと即座に思い込んだのだった。
「俺がズルしたとでも思ってるみたいだが、全部実力なんだよ。実力の差だったんだ。俺は実力で選ばれたんだからな。お前が認めようが認めまいが……」二人同時に、一言一句違わずにまくし立てた。
置いてけぼりになっていた主幹が我に帰り、二人を押しとどめるように口を切った。「ちょっと待て。そのエヌというのは君に瓜二つなのか?」
二人のエフ氏が答える。「いや、全く。しかしあの男なら俺そっくりに整形して俺に成り代わるくらい考えかねませんから」
主幹は再び混乱し、黙り込んでしまった。
そっくりの二人はほぼ同時に攻撃を再開しほぼ同じ言葉で相手を非難し始めた。
「お前の恨みがましさは異常だからな。ハンドスピナー借りパクしたことも恨んでるんじゃないだろうな?」
実際エヌ氏は恨みがましい人間だが、その点ではエフ氏もどっこいである。
「駐車ミスってお前の自転車壊したことも恨んでんのか?」
混乱しきった上司がここでなんとか口を開いた。
「それは普通恨むだろ…………いや、そうではなくて、一つ思いついたんだ。二人とも落ち着いて聞いてくれ。スワンプマンは知っているか?」
主幹による説明はくどくなるので省く。知らない人はググって。
説明を聞き終えてから10秒ほどの沈黙があった。
「私も信じられない思いだ。だがここでは新型量子コンピュータを開発しているわけだし、未知の現象だって起こるかもしれない。身体の特徴を調べたらいいだろう。どこを調べても違いが見つからなければ、同一人物だと認めざるをえまい」
十五分後、信じがたい現象を受け入れ始めた二人のエフ氏は、休憩中に昼寝に就いたあたりからの自分の行動を語り、トイレに行っていたほうが〈オリジナル〉で前庭で目を覚ましたほうが〈スワンプマン〉であろうとの結論に至った。
「それにしてもアレだな、君たち二人とも…………トゥッタムとトゥッティーみたいじゃないか」
「なんですそれ?」
「ほら、そっくりな二人が喧嘩するって話があるだろう」
「トゥイードルダムとトゥイードルディーです」
「そう、それだよ。長い名前を覚えるのは苦手で……」
そのときドアが開き、誰かが入ってきた。数秒の沈黙の後、主幹が両手で顔を覆って叫んだ。
「ドッペルゲンガーだ!」
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