第01話「快傑令嬢は眠れない」

「快傑令嬢は風吹く三日月の夜に舞う」

 死神が手にした鎌のように細く鋭い三日月が、黒猫の毛皮よりも闇の濃い夜空にその黄金の刃を輝かせていた。


 エルカリナ王国王都・エルカリナ。人口三百万を擁する、この世界でも最大規模の都市。

 北西部の小高い丘の上。九つの階層を持つ、これも世界屈指の巨城がそびえ立つ。

 その最上層から鋭く伸びる、天を突こうとするかのような五本の尖塔――。


「――風、強いね」


 緑青りょくおう色に錆びきった銅の避雷針に手を触れ、人の一人をその下に隠しおおせてしまえそうなほどに広いスカートを大きくはためかせながら、少女はその尖塔の一つの上にいた。


 陸から南西部の海に抜ける海風が、少女の長い髪をいたぶり続ける。一輪の薔薇バラをかたどった大きく広いつばの帽子も、強い風を受けてその鍔を震わせた。しかし、不思議に飛ばされる気配はない。少女の頭に被せられて離れない。


 おもむろに少女が懐から懐中時計を出し、ふたを開けた。


 現在、午後、十一時、三十五分。


「そろそろ、時間ね」


 薄桃色のドレスを風になぶらせながら少女が立ち上がる。

 どうやっても上りようがないはずの、この街でも最も高い場所。しかし少女は確かにそこにいた。


 視線を下に向ける。

 王城の周囲には貴族たちが住む高級住宅地が広がる。庶民なら一棟で優に百人は住めそうな巨大な邸宅が敷き詰められるように建ち並ぶ。


 もう深夜に近い。邸宅のほとんど全てが闇に包まれ、安らかな眠りについている中。たった一棟だけ、全ての明かりという明かりを灯して光り輝く広大な屋敷があった。


 少女が立つ位置からその邸宅までの直線距離、約三カロメルト。歩けば四十分は優にかかる距離。

 大事な用事がある場所だ。急がなくてはならない。

 約束の時間は、午前零時ぴったり。遅れることは許されない。


「私のためのパーティーだからね」


 すっ、と手首を軽く掲げる。白い手袋の上からめた黒い腕輪がのぞいた。薄い金属とも布ともつかない材質。明るい金色の文様がぐるりと入っていて、それが淡く光っている。


 少女の反対の手がそれを軽くノックすると、腕輪から湧き出るように一本の紫色の棒が飛び出す。まるで、少女の腕の中にそれが格納されていたように。


 その棒を手に取って、軽く振る。その一振りで伸びた棒は、瞬く間に開く白い傘となった。真夜中だというのに、日傘を掲げる気分で少女はそれを持つ。


 一歩、少女は歩を前に進める。それだけで足が屋根の縁に差し掛かる。それ以上進めば転落は確実――にもかかわらず、少女には恐れの表情もない。


 玄関を出る気軽さで、少女は屋根の縁を蹴った。


「――――」


 少女の体が虚空に投げ出される。支えるものは何もない。そこからはただ重力に任せて落ちるだけ――の少女が、風に乗って空を舞った。


 下から風を受けた傘がふわり、ふわりと宙に浮いた。

 飛んだ。舞った。

 風船のような、たんぽぽの綿毛のような軽さで夜空を飛ぶ。緩やかなハミングを口ずさみながら、地に足の着いていない散歩を少女は心から楽しむ。


 立ちこめた夜の雲が再び一瞬、尖った三日月の姿を空にさらした。

 月の下を飛ぶ少女の姿を刹那せつなの間輝かせる。

 まだ眠らぬ人が空を仰げば、傘を掲げて夜空を歩く少女の姿を目撃できたかも知れない。が、今夜この時間に暗い空を仰ごうというものはいない。


 これならば二分もあれば着く。約束の時間には間に合いそうだ。

 ――紳士と淑女は、時間に正確でなければならないのだから。




   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 ゲルト侯爵邸は、神経が張り詰めて切れそうなほどの緊張に包まれていた。

 もう十数分もすれば日付も変わるというのに、邸内全ての部屋の明かりが煌々こうこうとついている。

 部屋だけではない。屋敷を囲む高い塀に据えられた見張り台にも十数本の松明が掲げられていた。


 邸宅の外を中を、まるで戦時のように多数の兵士が警戒に当たっている。

 それだけの騒ぎになる理由は、確かにあった。



   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



「まだ来ないのか」


 ゲルト邸の地下。使わない家財道具や不要品などを置いておくための、二百人以上は楽に人間を入れられるほどの広い地下室。

 その地下室の最奥部で、一人の小太りの男がイライラとした様子で落ち着きなく歩き回っている。


 宝石と刺繍に飾り立てられた服を窮屈そうに着ているその男――ゲルト侯爵を前にして並ぶ、四十人ほどの兵士たち。白い鎧と兜で身を固めた、警備騎士と呼ばれている兵士たちだ。


「まだ来んのか」

「まだでございます」


 律儀にもゲルト侯爵の付属物のようにぴったりとつき、決して離れない初老の執事が答える。


「あの柱時計は正確なんだろうな?」

「昼の正午に合わせてございます」

「もう、予告の時間まであと十分ほどしかないぞ」

「左様でございます」

「じゃあ何故奴は来ぬのだ!」

「わかりかねてございます」

「……ふあああぁぁ……」


 目の前で何度も繰り返される愚劇ぐげきに飽きて、王都警備騎士隊においていちばんの年かさの男、アイガスは大きくあくびをした。


「すみません、戻りました」

「おう」


 一階に通じる階段から下りてきた長身の若い騎士が、長い警戒にだらけて整列ともいえない雑な並びをしている兵士たちの端っこに駆け寄る。


「冷えるなぁ……今日何日だっけ」

「三月の三十一日。日付が変わったら四月ですよ。もうこよみでは春なのに寒いですね」

「あったまるための酒くらい寄越せっていうんだ。白湯じゃ小便ばっか近くなる。どこの貴族様も今はカツカツなんだろうが、ここが見栄の張り時だろ、まったく」

「……で、本当に来るんですか? 予告状の主」

「来るっていうから、来るんじゃねぇのか」

「あの、僕、よく知らないんですけど」

「なんだ」

快傑令嬢かいけつれいじょうって何者なんですか?」


 その名前を聞いた瞬間、アイガスの顔が露骨に歪んだ。


「お前、警備騎士だよな? 北西区域支部から応援に来た」

「昨日配属されたんですよ。王都にも先週引っ越してきたばかりです」

「なんでこんな素人みたいなのを応援に寄越すかな……」


 人員不足の理由はわかっている。その『快傑令嬢』のためだ。

 各支部を支援するための遊撃隊が人員不足に陥って、支部から応援を受けている。本末転倒だ。


「……半年ほど前からこの街に現れた、ふざけた奴だ」

「令嬢、っていうからには女なんですよね?」

「多分な。顔を覚えてる奴はいない」

「は? 覆面でもしてるんですか?」

「してない」

「……どういうことなんです?」

「誰も奴の顔を覚えられないんだ!」


 アイガスが上げた大きな声に周囲の視線が集まる。喚くな、と無言の叱声しっせいが聞こえた。


「……奴が使ってる魔法のせいだ。どうもかけているメガネが魔法の道具らしい。かけている人間の印象を見ている人間の記憶から消すんだと。目をこらして見ても、一分と覚えていられない」

「何もわからないんですか?」

「背格好はどう見ても若い女。顔だって美人……のような……気がする。いつも薄桃色のドレスを着て現れる。ご令嬢しか着ないようなすごいドレスだ。派手な帽子も被ってる。……そんな奴がいきなり現れたら、お前、どんな奴だと思う?」

「そりゃ、令嬢、って思うかも知れないっスね」

「最初は『快傑令嬢』なんて名乗ってなかったがな。どこかの馬鹿新聞が見出しにそんな名前を使って、世間に流行り出したら本人までそう名乗り出す始末だ。まったくひどいもんだ」

「それで、どんな悪事を働くんです?」

「色々やる。悪徳金貸しから詐欺まがいの証文を取り上げたり、貴族が後援していた盗賊団を貴族ごとぶっ潰したり、港で取引されていたヤバイ薬を密輸団ごと海に投げ込んだり、水たまりで溺れそうになっている猫を助けたり……まだまだたくさんだ」

「いい奴じゃないですか」

「法を犯してるんだ!」


 再び周囲の視線がとがめる色を帯びてアイガスに向けられた。


「……おかげで、そんな奴を取り締まらないといけない警備騎士は庶民に恨まれてる。正義の味方を追い回す悪い奴等、ってな。俺たちも仕事でやってるだけなのに……だいたい警備騎士ってなんなんだ。騎士っていってもみんな准騎士どまりで、正騎士なのはうちの隊長だけだぞ。名前だけは無駄にかっこいいが中身は……」

「……まあ、だいたいはわかりました。で、その快傑令嬢がここになにしに来るんです?」

「お前、出動前の任務説明に何聞いてたんだ?」

「うちの上司、声が小さいんですよ。端っこにいたら何も聞こえなくて」


 まったく悪びれる様子のない若い兵士にアイガスは心からの溜息を吐いた。


「……今夜午前十二時にこのゲルト邸に参上つかまつり、侯爵がいちばん大事にしている書類を、息苦しい箱の中から救い出してやるんだと。予告状が警備騎士団本部に送られてきた」

「いちばん大事な書類? なんなんですそりゃ」

「うちの隊長もその質問をしたが、答えてもらえなかった。その大事な書類があの壁金庫に入ってるって寸法だ」


 地下室のいちばん奥。ゲルト侯爵が無限に往復を繰り返している前の壁にその金庫は埋め込まれていた。さほど大きくはない。容積的には人一人でも抱えられそうなくらいのものだ。


「もう予告まで十分を切ったぞ! 次の小便は奴が現れてからにしろ! 整列!」


 最も階級が高い小隊長のリュズナーが声を荒げた。列が組み直される。途切れていた緊張が再びきつく張られた。

 全員の視線が柱時計に向けられる。早く来い、早く来い、と念じる気配が部屋を満たす。


「……予告まで三分……」


 長く、長い数分間。時計の針が進む速度までのろくなったのかと錯覚する。


「一分……」


 秒針、早く回れ、と全員の思いが一致する。その期待に応えて秒針は進んだ。

 ――時が満ちた。

 柱時計が、鐘を叩いて重い音を鳴り響かせる。石造りの部屋が頭を揺らすような反響に満ちた。




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