木々の合間から見える空は未だ明るかった。だが、山の中を歩く惣介そうすけ美沙緖みさおの周りは、すでに暗くなり始めている。

 二人は、整備されていない山道さんどうを歩いていた。惣介を先頭に美沙緖がそのあとに続く。足場が悪いにもかかわらず、美沙緖の歩く速度は惣介と遜色ない。むしろ惣介の方が山道さんどうを歩くのを苦労しているように見えた。


「この道で……いいん……だよね?」


 息を切らしながら惣介が言う。


「下の社には、それらしいものはありませんでしたもの。『綾目語あやめがたり』にあった洞窟は、もう少し奥ということですわ」


 美沙緖の方は、息を切らす様子もなく歩いている。

 集落を探索した二人は、朽ちかけた小さな神社を発見していた。流造ながれづくりの、本殿と拝殿を一緒にした社殿。境内も広くなく、人の気配もなかった。

 惣介がその裏に道をみつけ、今に至る。道は傾斜に沿うように蛇行して、上へとのぼっていた。


 どれくらい歩いただろうか、石を積み上げた粗雑な階段が見えた。

 登るとそこは、半径八メートルはありそうな放射状の広場になっていた。階段の正面奥には、小さな洞窟。その前に岩の寝台があって、薄紅色の肌襦袢はだじゅばんを身に纏った女性が一人横たわっている。木で乱雑に組み上げた、火のない篝火台が岩の寝台を囲うように並んでいた。


「ねぇ。あれもしかして、麻奈まなって女性ひと?」

「恐らく。……来ますわよ」


 〝三秒後の可能性〟を見て、美佐緒が言った。刹那、全ての篝火台に火が生まれた。炎はまるで生きているかのように揺れ、燃えさかっている。篝火の炎に照れされて、黒い人影がいくつも踊っていた。


「まずい。なんかたくさん出てきたんだけど」

「あれはこの世に投影された、魂の影ですわ。こちらが手を出せない代わりに、向こうもこちらに手を出せませんわ」


 ――シャン!

 どこからともなく聞こえた鈴の音と同時に、影たちの踊りがぴたりと止まった。鈴の音は何度も響き、洞窟の暗がりから何かが出てきた。

 篝火の炎が、その姿を浮き出させる。能面を被った巫女装束の女だ。その手には神楽鈴かぐらすずを持っていた。


「嗚呼、ツいニ。つイニ準備は整っタ。我ガ器。こレで、マた愛しイあノオ方と契るコトができル。今度こソ永ク……永く」


 しゃがれた声が能面の向こうから聞こえる。立ち姿は若いが、聞こえた声は老婆のそれだった。


「あれは実体?」

「ええ」

「じゃあ、手出しできるね」

「向こうも、こちらに手を出せましてよ」


 二人は能面の巫女から目を離さない。巫女はゆっくりと歩みを進め、岩の寝台に横たわる麻奈へと近づいていく。


「……美佐緒サンで、なんとかなりそうかな?」

「純粋な眷属ではなく、人のなれの果てっぽいので多分いけますわね。ただ能面がちょっと邪魔ですわ」

「わかった。そっちはなんとかする。おいアンタ!」


 惣介が巫女に向かって歩き出す。左手にはルービックキューブを持って、せわしなく動かしている。

 巫女――綾目あやめは初めて気づいたといった様子で、惣介の方を向いた。


「せっかくのところ悪いケド、その儀式は中止ね」

「アの方トノ逢瀬ヲ邪魔するトいうノカ」

「来ましてよ! 横に避けて!」


 美沙緖の言葉と同時に、綾目が神楽鈴を惣介に向かって突き出す。シャンという鈴の音と同時に、風が渦を巻く。数瞬の後、風の塊が惣介を襲った。

 だが惣介は美沙緖の言葉に従って右へと体ごとスライドさせる。惣介の横を衝撃を伴って風が走り抜ける。

 惣介は避けたと同時に走り出し、綾目との間合いを詰めた。そのまま流れるような動作で、綾目の顔めがけて右脚で上段蹴りを放つ。


 綾目はそれを神楽鈴で受ける。シャンという音と共に、柱でも蹴ったような感触が惣介の蹴り足に返ってきた。

 惣介は右脚を降ろす勢いを利用して体を捻る。そして今度は左膝を高く上げ、膝から下を鞭のように鋭く伸ばした。左の靴先が能面を下から蹴り上げる。能面は綾目の顔から離れ、宙を舞った。


 能面の下から現れたのは、干からびて皮膚が所々崩れた顔だった。目の片方などは骨が見え、眼窩の中に目玉が嵌っているのが丸見えだ。

 綾目は慌てたように、顔を両手で覆った。気づけば、その手も干からびたように固くなり変色していた。


「うわっ。それは神サマでもさすがに萎えるっしょ」

「おノれ! オのレ!」


 惣介の言葉に、綾目は狂ったように叫ぶ。崩れた肌で、歪んだ表情を浮かべ、惣介に掴みかかってきた。惣介はそれを背後に引いて避けようとする。

 伸びてきた綾目の左手を避ける。しかし上から振り下ろされた神楽鈴を避けるのが遅れてしまった。

 ――シャン!

 風が生まれ、指向性を持った風圧が惣介を上から抑えつけてくる。


「くっ!」


 両腕を挙げ、体を丸め、惣介はその衝撃に耐えようとする。だがその抵抗も儚く、標本のように地面に張り付けられた。


「コのまマ押しつブシてクれよウゾ」


 綾目は神楽鈴を惣介の体に押しつけるように力を込める。風が渦を巻きその圧力を増す。惣介の周りの地面に亀裂が走った。


「がはっ」


 惣介の口から血が流れた。身動きできないながらも、綾目を睨み付ける。

 綾目がニタリと嗤った。

 と、綾目の足元に正三角形の金属プレートが一つ、突き刺さった。


「そのくらいにしていただかないと、さすがに死んでしまいますわ」


 美沙緖が言う。彼女の指は、綾目の足元に刺さったのと同じ金属プレートを二枚、挟むように持っていた。


「その体は泰加子たかこさんのものですわね? その様子だと彼女の年齢的に、器として耐えられなかったと見えますわ。だから、今回は若いを選んだ……と」


 美沙緖がゆっくりと歩いて来る。綾目は動きを止めたまま、美沙緖を見る。


「新しい器に選んだ麻奈ひとより、わたしの方が霊格は上でしてよ。わたしなら、貴女の精神をすぐにでも受け入れられますわ。年齢も同じくらい。

 あなたの器としては申し分ないでしょう?」


 巫女の崩れかけた目が見開かれる。手を近づいてくる美沙緖へと伸ばす。


「さぁ、わたしを見てくださいませ」


 そう言って美沙緖は目を開いた。美沙緖の目には瞳がなかった。その目にあるのは白ではなく銀色の輝き。水銀を湛えた湖面と思わせる、銀色の眼球がそこにはあった。

 美佐緒の目には腐りかけた綾目の姿が映っている。綾目の濁った瞳は美沙緖の目を写していた。

 銀色が綾目の視界すべてに広がる。それは波打ち、やがて一つの光景を浮かび上がらせた。


「な……んだ」


 美沙緖の持つ目は、目の前にある空間の三秒後の可能性を〝彼女自身〟に見せる。そして美沙緖と目を合わせた〝他者〟には、可能性の存在しない――それは全てが停滞した〝時間がまだ存在しない〟――世界を見せる。

 そして、その世界には〝そいつ〟が――居る。

 綾目の視界に広がるのは銀色の世界。そこは直線が多く異常な角度で構成された空間。その中に青黒い、痩せこけた四本脚の獣の姿があった。それが突如、綾目の方を向いた。太く曲がりくねった、注射針のような舌を出し、粘膜に覆われた体を動かして近づいて来る。


「ひッ!」

「なにが見えましたの?」


 綾目の視界が現実へと戻ってくる。美沙緖が微笑んでいるのが、綾目には見えた。

 足元に刺さった正三角形のプレートを構成する鋭角の一つから、青黒い煙が噴出し始める。同時に、耐え難い異臭が辺りに満ちた。

 青黒い煙は集まり、やがて一つの形を作ろうとしていた。綾目が見た痩せこけた四本脚の獣の姿を。


「あぁアアァ」


 本能的な恐怖を感じ、綾目が逃げようとする。不意に綾目の脚が何者かに掴まれた。

 キンッという甲高い金属音が綾目の耳に響いた。その瞬間、辺りの風景が一変する。今までゆっくりと形を取り始めていた青黒い煙の動きが、早送りをするようにその速度を上げた。それはみるみる獣の形へと収束していく。


 綾目は動こうとするが動けない。いや、自分では動いているにも関わらず、まったくと言っていいほど体が進まない。脚を掴まれているとは言え、もう少し動けるはずだ。なのに、周りの風景に比べて自分は殆ど動けない。


「無駄だよ」


 声を聞いて綾目は腐りかけたその目を足元に向ける。そこには地面に倒れたまま、綾目の脚を右手で掴んでいる惣介の姿があった。


「こいつを持って僕がアンタを掴んでいる限り、僕たちの時間の流れは世界から切り離されるんだ」


 そう言って、惣介は左手に握っているルービックキューブを見せた。

 それはまだ揃っていない、バラバラの状態だった。しかし、バラバラながらもなんらかの法則性を感じさせる配色パターンをしていた。

 どんな――と言われても分からない。だが、常人には決して理解できないながらも法則性を感じる配色パターン。どことなく気味悪さを感じる配色パターン


「こいつは僕の失った記憶の断片から作った出来損ないでね」


 惣介は物心がつく前を除き、今まで生きてきた二十年という歳月の中で、二年ほど記憶を失っていた時期がある。友人や家族から告げられるその頃の思い出は、惣介の中にはない。だがたまに、その頃の記憶を思い出すことがあるのだ。

 その記憶の中で、自分は三メートルほどの円錐体だった。頂部から出る四本の管は、蟹の鋏のような手と頭。そして不明な器官に繋がっていた。

 そして色々なものを、同じような体をした〝存在〟に見せられるのだ。

 その中で惣介の印象に残っているのはキューブだった。回路図のようなラインが表面に刻まれたキューブ。それは昔に得意だった、ルービックキューブを連想させた。


「こいつに直接触れるか、アンタみたいに間接的に繋がってるものにしか効果はないんだ。でも物理的に繋がっている以上、僕たちと周りの時間の流れは違う。まぁ、二人以上で繋がっちゃうと性能はガタ落ちするけど……。

 それでも、十分時間を稼げたと思わない?」


 惣介がニヤリと笑う。それを見て綾目が言葉の意味に気づいた時にはすでに、目の前に獣が立っていた。

 それは痩せこけた四つ脚の獣だった。青黒い肌をして、悪臭を放つ粘膜に覆われていた。ボルゾイ犬のような長い鼻と裂けたような口から覗くのは鋸のような歯。注射針のような鋭い舌が、口から垂れていた。

 それは綾目の方を向くと、口を大きく開ける。そして飛びかかると同時に噛みついた。


「!」


 噛みつかれた体の一部が消失した。獣はもう一度大きく口を開く。そして何が起こったのか分からないと言った様子の綾目の頭を飲み込んだ。

 綾目の体が大きく痙攣する。首から下が、そのまま地面に倒れる。

 同時に、獣の体が青黒い煙へと変化を始めた。すぐに実体を失い、地面に刺さった正三角形を構成する鋭角の一つに吸い込まれていく。


「相変わらず臭いし、おっかねぇ」


 惣介が立ち上がった。左手のルービックキューブは配色パターンを変えている。

 炎の燃えさかる音が、辺りを満たす。今、この場に立っているのは惣介と美沙緖の二人きり。踊っていた影たちはいつのまにか消えていた。

 地面には頭がなくなり、動かなくなった綾目。

 美沙緖が岩の寝台に横たわっている麻奈に近づく。そして胸に手を置いた。


「大丈夫。彼女、生きてますわ」

「あとは本を回収しておしまい……かな」

「ですわね……と言いたいところですが、もうひと仕事、しないといけませんわね」


 そう言って、美沙緖は綾目の出てきた洞窟の方を見て、ため息をついた。

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