第八話『草薙リンネは動かない』


犬。


大きな犬がいた。


どこにでもいる雑種だ。


その犬はとても優しそうな顔をしていた。


名前はない。ただの犬だ。


だけど、それは石で作られた犬の像だ。


迷宮図書館の入り口で門番のように座っている犬の石像。


その昔、通学中の学園の生徒が車にはねられそうになった時。名もなき犬が身代わりになって生徒を助けた、と言われている。


それ以降、“犬”は学園のシンボルとなり。

草薙学園の校門や迷宮図書館の入り口にも犬の石像が建てられている。


まるで“狛犬こまいぬ”のように。


学園を、生徒を、守っていた。


***


「やっと着いた・・・」


犬の石像が優しそうにこちらを見ていた。


「いつもお守りご苦労様、コマ」


僕らはこの犬の石像のことを学園を守護する“狛犬”のコマと名付けていた。

僕はコマの頭をそっと撫でた。


ふう、やっと辿り着いた場所。

待ちわびた“迷宮図書館”。

異様な程の巨大な建造物。

草薙学園図書館。

“先輩”いわく、かの大英図書館を模していると言うのだが。いやはや、何度見ても凄いです。


辺りを見渡すと薄暗くなっていた。

紅い太陽が沈み、夜の時間が始まろうとしている。

黄昏時たそがれどきが終わろうとしていた。

巨大な迷宮図書館にも明かりが灯る。


「・・・お邪魔しまーす」

僕は静かに呟きながら迷宮の扉を開ける。

扉の軋む音が木霊こだまする。


図書館の巨大な扉が僕を飲み込む。

僕は一瞬、まるで宮沢賢治の小説“注文の多い料理店”へ入る猟師たちのような感覚を味わう。

そう、自分が食べられるんじゃないか、と。

もう二度と外に出てこれないんじゃないか、と錯覚さっかくする。


迷宮図書館の中。

巨大な空間が広がっている。

本。

本本。

本の山。

小説、文学書、技術書、専門書。

ありとあらゆる本。

綺麗に整頓された本。

精密に並べられたいくつもの本棚。

美しい高価そうな木造の机や椅子。

静寂に包まれた空間にたくさんの人。人。人。

学園の生徒や他校の生徒、大人や子供、外国人など、老若男女問わず。

勉強や調べものをしている人、本を借りる人、本を返す人、本を読む人。

ただひたすらに本を愛する人、僕や“先輩”もしかりり。

それでこその図書館という空間であり。いこいの、いやしの場所である。


うわ。やっぱり何度見ても驚く。

さすが“先輩”。僕の敬愛する文学少女だ。

それに・・・。ああ、なんて良い匂いだ。

懐かしい香りが僕の鼻腔びこうくすぐる。

古本の匂い。新本の匂い。

紙の本独特な味わい。

やっぱり本はこうじゃなきゃ。やっぱり好きだな、この本の匂い。

図書館だけにある独特なこの立ち込める匂い。

眠りそうなるくらいとても落ち着く香りがする。


そして“先輩”にはいつもこの匂いがしていた。

甘美かんびな香りに包まれる。

ああ、“先輩”・・・。

それにしても僕をここに呼びだしたのは何の用事なのかな。

と、僕が匂いにふけっていると。


「ノアせんぱーい、みっけ!!」


ぎゅっ。

いきなり前方から美少年が抱き着いてきた。


「うわっ。い、イズナ君?

ちょっと・・・。あ、あの、近い近い。イズナ君近いって・・・」

たじろぐ僕をにやにやと笑いながら見つめている美少年。


「えー。またそんなこと言って。嫌なんですかー?

恥ずかしがらないでいいんですよ、ノア先輩」

少女と見間違うほどの美少年が腕を絡めてくる。


「あ、あのね・・・、そんなんじゃないから」

やばい。か、可愛い。

そんな顔で見ないでよ、女の子より女の子のような少年。


そんな彼は、学園一の美少年である葛ノ葉くずのはイズナ君だ。

高等部一年生。草薙学園“生徒会執行部”の一人であり、書記を務めている。

わざわざ生徒会長である“先輩“が、天才奇才が集まる“生徒会”に推薦すいせんした逸材いつざいの人物であり。

そんな“彼”も紛れもなく天才のひとりなんだ。


「ねえ、イズナ君。今日は“生徒会”の集まりだったの?」

僕はぴたりと貼り付いている美少年に聞いた。


「いえいえ違いますよー。僕は“オカ研”の調べもので来ているんです」

美少年は、辞書やら新聞やらが散らかっている机を指さす。


「ああ、なるほど。“オカルト研究会”だったよね、イズナ君は」

オカルト研究会。略して“オカ研”。

彼が入部してから大人気の部活サークルになっている。

そして当たり前のように一年生にしてオカ研部長になっている。


「はい、ボクは部長なので頑張らないとなのです」

ふんす、と胸を張っている美少年。


「あ、そうそう。ついさっきまで妹さんと一緒にいたんですよ。もう帰りましたけど。

ノイちゃん、彼女はすごいですねー。ほんとオカルト情熱がすごいんですよ」

そう僕の妹はオカルト研究会に入部している。


「あはは。それはそうだろうね、うち散々さんざん聞かされているからね・・・」

毎晩毎晩聞かされる僕の身にもなってよ、イズナ君。


「ところで、ノア先輩センパイも調べものですか?それとも本を借りにでも?」


「ああ、違うよ。

ちょっと“先輩”に呼び出されちゃってね。でもだいぶ遅刻してるけどね・・・」

遅刻も遅刻。大遅刻なのだけど。怖い怖い。

僕は先輩の顔を想像して少し身震いした。


「ふーん、ノア先輩センパイいとしの生徒会長様ですか・・・。

あ、そうだ。

さっき会長様を見かけましたけど、大層たいそう立腹りっぷくでしたよ?」


なぜか僕に対して少し不機嫌そうになる美少年。かと思えばにやにやと微笑見ながら僕に近寄ってきた。


「え、そうなの?やばい・・・、どうしよう、どうしよう」

ほんとにやばいやつだ。


「えへへ。どうなってもボクは知らないですよー、ノア先輩センパイ

うわ、小悪魔だ。美少年の小悪魔がいる。


「うう、それを言わないでよ、イズナ君いじわるだなぁ」

“魔女の鉄槌てっつい”が落ちる。

生徒会により、時折り開かれるという恐ろしい儀式ぎしきがある。

学園の魔女、草薙リンネによる“学園裁判”。

またの名を“魔女裁判”。

魔女を裁くのではなく、魔女に裁かれる裁判なのである。

校則や規則ルールを破った生徒が裁かれるのだ。

そして、生徒だけに留まらず教師も例外なく裁かれる。

生徒会長である“先輩”は学園の全主導権を握っていた。


「じゃあ、ボクが一緒に行ってあげますね、ノア先輩センパイ

ぱちりとウインク。

美少年の破壊力は効果抜群である。

うう、やめて、そっちの気はないはずなのに。

なんだかいけない気持ちになるから、やめてイズナ君。


「ううん、大丈夫だよ。

ひとりで大丈夫だからね、“先輩”の所には僕だけで行くから。

でも心配してくれてありがとうね、イズナ君」

僕が断るのを不思議そうに、僕の顔をまじまじと見つめてくる美少年。


「ふふ、やっぱりノア先輩センパイって変わってますね」

「え、変わってるかな?」


「もー、ノア先輩センパイ貴方アナタは食えない人ですね。

今までボクが誘って断られたことなんか一度もなかったのに・・・。

それをあっさりと断られちゃいました。

あーあ、ボクもそろそろ本気になりそうですよ。ノア先輩センパイ?」

はてさて、本気?なんのことだろう。

あまりその小悪魔のような可愛らしい顔で僕を見ないでくれないか。イズナ君。


「そっか心配かけてごめん、断るとかじゃないんだ。わざわざ君の時間を取らすことはないかなって、そう思ったんだよ、だから・・・」

「もう、ノア先輩センパイ・・・。そうじゃない、違うのに」

にぶいんですね、と哀しそうに美少年は小さな声で呟いた。


「ん?イズナ君どうしたの?」

「むー。なんでもないですよー。ボクのことなんか放っておいてください!!さあさあ、愛しの会長様のところにでも行ったらいいじゃないですかー。ボクはオカ研の学園季刊誌『ラ・ムー』の締め切りで忙しいんです!!」

さあ、帰った帰ったと、僕をまくし立てる。

なんだか美少年が怒っている。どうかしたのかな?

僕がなにかしたのかな。


オカルト研究会の学園季刊誌『ラ・ムー』。

イズナ君は。学園内でも結構な人気があるオカルト本の編集やライター活動もしている。多忙である。

あ、そっか。きっと学園誌の締め切りで忙しいのに僕か邪魔したんだね。ごめんよ。イズナ君。


「あ、ごめん。そうだよね、邪魔しちゃったね。ごめんね。じゃあ、僕は行くよ」

そう言って僕が離れようとしていると。


「・・・ちょっと待ってください、ノア先輩センパイボクからひとつ、ご忠告を」


イズナ君が溜息をつきながら一冊の本が渡される。

ルイス・キャロルの児童小説『不思議の国のアリス』

僕はその本を受け取った。


「ノア先輩センパイ。いいですか?


この『不思議の国のアリス』がノア先輩センパイを“暗示”しています。


“アリス”に気をつけてください。

そして“狂った帽子屋”には近づかないでくださいね。


それに“赤の女王”のお城にはけっして入らないでください。

良くない事が起こり、わざわいが降りかかります。


あとは、そうですね・・・、猫。

笑い猫。

そう“チェシャ猫”にも注意ですよ。


はい、以上です。


まあ、信じるも信じないも自由です。

冗談半分で受け取ってくださいな、ノア先輩センパイ


人差し指を立ててにこりと微笑む美少年だが。

目だけは笑っていなかった。真剣に僕を見ている。

ぞくり。

背筋が冷やりとした。

その真っ黒な深淵の瞳に吸い込まれそうになって少し怖かった。

そしてイズナ君の占いは“当たる”と噂されている。


「う、うん。僕を占ってくれたのかな?ありがとう。イズナ君。

でも今はなにもお礼もできないから、ごめんね。今度ちゃんとこの借りは返すからね」

この場合、借りと言うか対価たいか代価だいかなのだが。

僕はそう言うと本をイズナ君に戻した。


“占い師”葛ノ葉イズナ。

イズナ君は、普段から滅多に占わないと聞いたことがある。

彼の占いが当たりすぎるのである。良くも悪くも。

良い事ばかりではなく悪い事もズバズバ当たるので、占い希望者が殺到しているらしい。

それに彼の占いは、高価なのだ。

彼曰く、占うには相応の代償や対価が必要なのだと言う。

イズナ君の実家は有名な京都の大家、土御門家つちみかどけである。


土御門陰陽寮つちみかどおんみょうりょう


昔から日本の占いや天文、暦などを見るお役所らしい。

イズナ君は、その後継者争いが嫌になって家を飛びだしてきたのだと言う。僕の妹様がそう言っていた気がするんだけど、詳しい事は忘れてしまった。


まあ兎に角、当たるのだ、怖いくらい。

正確に、確実に、必然に。

言うなれば、これも“しゅ”であり“呪い”なのかもしれない。

祝い、呪い、占い。

僕とはまた違った呪い。“占い師”という運命を読む呪。

言霊ことだま言魂ことだま

相手の魂を見る。呪を読む。


魔法使いの喋る黒猫ナイアーラ・トテップが教えてくれた呪師じゅし呪術師じゅじゅつし

“呪い屋”黄泉路よみじクレハ。

彼女も“呪”の専門家なのだと言うが。

突き詰めれば“占い師”も運命を、魂を読む“呪”の専門家なのではないだろうか。

呪を視る、呪を読む。占い師。葛ノ葉イズナ。


奇妙な感覚がした。

不思議の国のアリス?

アリス・・・。

ルイス・キャロルの童話『不思議の国のアリス』。

なにかの暗示なのか。未来の道標みちしるべなのか。

はたまた運命の悪戯(いたずら)なのか。

まさか、彼は知らないだろうけど。僕が出逢った喋る黒猫の事や、小さな魔女の事。

それこそ、童話や御伽話のような幻想的な出来事だった。

にやにやと笑う不思議な猫“チェシャ猫”は、オッドアイの喋る黒猫の事なのだろうか。

不思議の国に迷い込んだ少女アリス。阿頼耶識アリスの事なのか。

いや、一番弟子と言っていた可愛い人形のような小さな魔女の事なのかも知れない。

うーん、まるでわからない。思考が混乱する。

混沌。・・・そう混沌の魔法使いとも言っていた黒猫。

怪異なる猫と謎の少女。

混濁こんだくする記憶。


当たると言われるイズナ君の占い。それは間違いではないのだろう。

気を付ける?やっぱり注意するべき対象だったのか、いかにも怪しかったけど。

僕の胸には黒猫の“魔毛”がある。僕はそっと胸に手を当てる。

未来を占い、運命を読む“占い師”イズナ君、やはりただの美少年ではなかったのだ。


「そんな、別にお礼なんかいいんですよー。

水臭いなー、だってボク先輩センパイの仲じゃないですかー。

うーん、そうだ。

今度、何か美味しい物を食べに連れて行ってくださいよ。ノア先輩センパイ

美少年に、人差し指を口元に立てられて願いされる。


「うん、わかったよ。そんなことならお安い御用だ。

じゃあね、イズナ君。ありがとうね、また今度」

わーい、ノア先輩センパイとデートだデート、と。うきうきしながら微笑む美少年イズナ君。

そんなに喜んでくれるなんて嬉しいな。


***


ばいばーいと、可愛く両手を振る美少年とお別れした僕は。

エレベーターで迷宮図書館の地下最深部に向かった。

地上五階、地下五階の迷宮図書館。

僕は向かう“地下六階”へ。

存在しない筈の地下六階。

学園の関係者か生徒会執行部にしか分からない秘密の地下六階なのだ。

“先輩”の居る場所。

“先輩”のもとに。

“先輩”に逢いたい。


迷宮図書館地下六階『館長室』。

迷宮図書館の地下最深部にある草薙リンネの私部屋である。


草薙リンネ。

数々の異名を持つ美しい少女。

アルビノの天才少女。草薙財閥の御令嬢。“白き魔女”。

文学少女。迷宮図書館の主。


「あの・・・、失礼しまーす・・・。

遅くなってすみません。ほんとに申し訳ありません、“先輩”」

扉を開くや否や僕は土下座をしていた。

絶対女王に平服するように。


「ほんとにすみません。

あの実は、急に失神して委員長に介抱してもらったり、途中で黒猫と異国のゴスロリ少女に出逢ったりなんかしてて、ですね・・・」

しどろもどろになりながら弁解をする僕。


「あの・・・、“先輩”?」

薄暗い部屋の中。

机の後ろで美少女が安楽椅子あんらくいすに座っている。

安楽椅子がその美しい体に沿ってギシっと揺れる。

音までも美しい音色になっている。


「やあ、檻噛君。頭を上げたまえ、男子がみっともないよ」

「は、はい・・・」

「それに、言い訳は結構けっこう。聞く耳もたない」

「は、はい。ご、ごもっともです・・・」


透き通る優雅に綺麗な声。だが、厳格に心臓に突き刺さる声帯でもある。

白く輝く長髪も。白く真白い透明なほどに壊れそうな肌も。

安楽椅子から伸びる、組まれた細く長い脚は

スカートの下から覘く漆黒の闇。黒タイツで覆われていた。

朱く染まった魅惑の小さな唇。

全てを見通すような冷酷な深紅の切れ長の瞳。

その赤い瞳に掛けられた下のみ赤で縁取られた赤縁眼鏡をかけている。

時折、綺麗で繊細な細い指先で赤縁眼鏡を押し上げる仕草も堪らない。

そう全ての部分が美しく綺麗な身体、美の神が作りたもうた芸術品。

神々しく僕の瞳に映る白く儚い幻のようなアルビノの少女。文学乙女。

“先輩”草薙リンネ。


先天性白皮症せんてんせいはくひしょう、先天性色素欠乏症、白子症などとも呼ばれる。

古くアルビノ種は神格化されていたり、神に捧げる人身御供ひとみごくう生贄いけにえにされたりもしている。

でも“先輩”なら神や邪神すら倒せるんじゃないのだろうか。


「おいおい。遅刻しているのに。良いご身分じゃないか、檻噛君?

先ほどもなんだか鼻の下を伸ばして楽しそうに美少年といちゃいちゃしてたじゃないか。

君にそんな趣味嗜好があるだなんて、全くもって知らなかったよ。

まあ私は別に止めはしないし、君の恋愛は自由だからね。

その美少年でも美少女でも好きにしたまえよ」

うわ、怖い、氷の魔女。残忍で冷酷な女王がいる、いまここに。


「うう、“先輩”・・・。違いますよ、そんなこと言わないでくださいよ。

全くもって無実無罪です・・・。“先輩”、でもどうしてその事を・・・?」

僕は不思議になり先輩に聞いた。

「いやなに、いたる場所に仕掛けているのだよ」

美しい指をぱちり。

薄暗い壁に映し出された映像。

映写機プロジェクターから出された映像には、僕と美少年が抱き合ってる?姿が、でかでかと鮮明に浮かび出されていた。

イズナ君が僕に腕を絡めたり、抱き着いたりしている所だった。


「うう、先輩。いつの間に・・・、これは違うんです。

イズナ君がいきなり、僕は無実なんです」

「ほう、まだ人のせいにするのかい、君は」

アルビノの赤い瞳で、じろりと睨まれる。

まるで蛇に睨まれた蛙である。


「うう、なんでもないです、すみませんでした。“先輩”」

しょんぼり落ち込む僕。そりゃそうだ、僕が不甲斐ないばかりに。


「ふふっ・・、あはははっ。

冗談だ。気にするな、冗談だよ。檻噛君。

遅刻した罰だ、馬鹿者。


まあ、少しは私も君の不幸体質はわかっているつもりだ。

なにかのトラブルに巻き込まれたか。

その、君の性格なら断れなかったんだろう。

それに君はとっても優しすぎるから。自分よりも人の不幸に敏感なように、

まるで見ていられないんだよ」

そう言って“先輩”はひとつ溜息をついた。


「そんな、“先輩”。

僕はそんな優しくはないですし、なにもできないですよ。

僕は弱いですから・・・」


「ふむ、そうか?

まあ君がそう言うならそうなんだろうな、檻噛君。

君の否定はしないよ。私は君のことを信じているのだから」


「あの、それに僕になにか用なんですか、“先輩”。

他の執行部のみんなは居ないみたいですけど、生徒会の用事じゃないんですか?

それとも僕になにか用なんですか?」

“先輩”が僕に用事とは珍しい。いつもは生徒会の雑用だけなのだけど。


「うーん、そうだな。

君に頼もうか生徒会執行部に依頼するか迷ったんだけどね。

どうだい、檻噛君。

私の依頼を受けてくれるかい?

少し・・・。少々、危険になるかもしれないが、無理ならいいんだ。

君自身の。いや、君の為だからね」

珍しく先輩が口籠る。

あの先輩が、躊躇ためらっている。何に。何かに。


「あの、“先輩”?

何を言うかと思えば。今更いまさら何を言ってるんですか、“先輩”。

望むところですよ。

この命。“先輩”に拾われた命、貴女あなたに救われたこの命。

ひとつやふたつお安いものです。

貴女の為、“先輩”の為なら。いくらでも差し上げましょう。いくらでも」

胸に手をやり、誓う。

主君に仕える騎士の如く。この命ですむのならお安いものです。


「・・・馬鹿、ほんとに君は。

だからこそ、君は君なのだな。

私の信頼たる檻噛ノアという人物は。ほんとに憎めないな、君というやつは」

ふふっ、と先輩が呆れ顔で笑った。

女神の微笑み。

やっぱり先輩は笑った顔が一番素敵ですね。

知ってましたか?時折見せるその笑顔が僕は大好きなんです。


「な、なにを言っている、馬鹿者。

恥ずかしいじゃないか、檻噛君。やめたまえ・・・」

少し頬が赤い、照れてる先輩まじぱねぇっす。


「あ、いや、なんでもないです、なんでもないです」

やばい。つい思考が言葉に出てしまったか、お恥ずかしい限りです。

反省します。


こほん、と咳払い。

「ふむ。冗談はさておき。

すまないが、早速なのだけれどこれを視たまえ、檻噛君」

封筒を机に置いた先輩は険しい顔をしていた。


「・・・これは?」

僕はきょとんとした顔で机の封筒を見た。


「兎に角、この資料を読んでみてくれたまえ、檻噛君」

先輩は目を閉じている。綺麗な瞳が見えない。


「は、はい。わかりました」


その資料の封筒には数枚の写真が入っていた。

そして一枚のその写真に写っていたのは、見慣れた顔の黒髪の少女。アリスだった。

忘れもしない、忘れるはずがない。

僕のトラウマ。消えない傷。失くした痛み。

幼馴染の少女であり、転校生の少女。阿頼耶識アリスだった。


阿頼耶識あらやしきアリス。

そこには、病院の手術室のような部屋で全身を白い包帯に包まれた血塗れの少女が写っていた。

ひと目見ただけで出欠多量なほど、白い場所がないくらいに包帯は赤く、血に染まっている。

これは自分の血液なのか?いや、それだけではこの血液の量は多過ぎる。

そして少女は痛みも感じないのか、血がこってり付いた真っ赤な唇で恍惚こうこつに微笑んでいた。


ぞくり、とした。

まるでこちらを視ているような錯覚。

天井からの監視カメラからの画像なのだろうか。

少女が見上げている。カメラを見つめている。血塗れのアリス。

なんて姿だ、おぞましい。

吐気が。頭痛が止まらない。


「うっ・・・。こ、これはアリスですか?

せ、“先輩”これはいったい・・・」

気持ち悪い。

ぐらぐらと目眩がする。

僕は倒れそうになりながら先輩に尋ねた。


「ねえ、いいかい。檻噛君。


君の幼馴染だと聞いている、転校生。


阿頼耶識あらやしきアリス。


檻噛君、彼女には気を付けたまえ。彼女は、そう。危険なのだ。


なにが危険なのかはまだ分からないが。

兎に角、危ないんだ。普通なら関わらないほうがいいだろう。


だが。君に頼みたいのは、その阿頼耶識アリスの調査なんだ。

君に調べて欲しい。

頼めるかい?いや、それが出来るかい?檻噛君」


朱い目は揺るがない、真志な眼差しのまま。

先輩は、赤縁眼鏡を指で押し上げながら僕に忠告した。


「・・・アリス」

くらり、僕はまた眩暈に襲われる。


「おっと、危ない。檻噛君。大丈夫かい?」

ふらっとしていた僕の体を支えてくれた先輩。


「だ、大丈夫です・・・、すみません、“先輩”」

「・・・檻噛君」

心配そうに見ていた“先輩”が、その細く白い手で僕の手をぎゅっと握っている。


「だ、大丈夫です。

やります。いや、やれます。ぼ、僕にできることならなんでも・・・。

“先輩”の為なら・・・」

ふわり、と。白い長髪が僕の顔にかかる。

香水もつけていない純粋な“先輩”の匂いがする。

優しく甘い甘美な良い香りがした。

僕はくらりと失神しそうになるのを我慢する。


「違う。違うんだ。

これは君の為でもあるんだ。けっして私の為じゃない。

だから、あまり無理はしないでおくれ、檻噛君。

もう二度とあんな思いは御免ごめんなんだ。

それに、どうかもう私をひとりにしないでおくれ、ねえ檻噛君」

そう懇願こんがんしながら、ぐいっと倒れるように先輩が近づいてきた。


そんなの当たり前じゃないですか、と声を出そうとしたが僕は何も言えなかった。

それもその筈、僕の口が塞がれていた。

不意に口付けされた。

接吻キス


「んっ・・・」


先輩の唇。

肌の柔らかい感触。

甘い甘い甘美な匂い。

優しい本の香り。

胸の鼓動が聞こえる。

どちらの心臓なのかわからない。

動悸どうき。息ができない。

爆発しそうな心臓。

頭が真っ白になる。


ああ、・・・“先輩”。


冷房の効いた寒いほどの冷えた薄暗い部屋の中。

僕らはひとつに重なった。

ぴたりと時間が止まる感覚。

思考も停止する。

寒さではなく恐怖で震える僕の手を”先輩”はそっと握っている。

“先輩”の手も震えていた。

アルビノの天才少女、冷酷な白い魔女と呼ばれた“先輩”の手は。

冷たくはなく。

そんな魔女も温かい血の通った普通の人間で。

“先輩”も、かよわい少女なのだと。僕は感じた。

朦朧もうろうと、恍惚こうこつと。消えかける意識の中。

貴女あなたの瞳から涙がこぼれるのが視えた。


絶大ぜつだいなる絶対ぜったいなる生徒会長。気高き乙女。

白き魔女。草薙リンネ。


「お願いだ・・・、私を一人にしないで・・・」


そこには、魔女と恐れられた完璧な天才少女ではなく。


ただ一人ひとりの泣いている孤独な少女がいた。

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