導かれて 四

 雷韋らいは慌てて身体を起こし、音の鳴った方を見た。


 そこには人の影があった。昇ったばかりの月の光を、髪が銀色に反射している。まだまだ人影は影でしかなく、暗視能力のある雷韋の目をもってしてもその容貌は見えてこない。だが確実に、こちらへ歩みを進めているようだった。雷韋が見えているのか見えていないのか分からないが、一歩一歩足下を確かめるように草を踏みしめている。


 こちらに向かってくる人物はあまりにも遠くにありすぎて、まだ男か女かすら分からない。月の明かりに人の影が浮かび上がっているだけだ。雷韋はそっとその場に立ち上がり、歩いてくる人影の歩みに合わせてじりじりと後退りした。


 すると遠くから声が聞こえた。



「待って」



 声は確かにそう言った。そしてそれは男の声だった。思わず後退っていた足を止める。あと一瞬でも声が遅ければ、雷韋はその場から走り去っていただろう。逃げようとした足を止めたのは、その声が優しさを含んでいたからだ。それでも警戒するにこした事はないが。


 雷韋の足を止めた人影は少しずつ近付いてくる。

 雷韋は瞬きも忘れてその人物を凝視した。近付いてくるにつれ、月の光に照らされて闇の中に男の容貌が見えてくる。外套がいとうは羽織っていないようだった。


 街の人間かも知れない。


 月の光に照らされて現れたその人物は、長い白銀の髪を一つに結ったみどりの瞳を持つ細身で長身の青年だった。陸王のような偉丈夫ではない。どちらかと言うと優男風だ。年の頃は二十二、三歳ほどか。明らかに陸王よりは若く見える。


 青年は雷韋を見止めてか、その柳眉を困ったように寄せている。夜の遠目にも、雷韋が警戒しているのが分かるのだろうか。その為か、そっと手を差し出してくる。そしてそのまま雷韋のそばまで近付いてきた。

 そのかん、何故か雷韋は動く事が出来なかった。



「君、どうしてこんなところにいるの? その格好、旅の人だよね?」



 言って、雷韋の纏っている外套に目を止める。



「宿には泊まらないのかい? それともお金がない? よければ、うちに来るかい? いくら暖かい季節になったからと言っても、こんなところで野宿すると風邪を引くよ」



 次々と問いかけられる言葉に、雷韋にはなんと答えていいのか分からなかった。ただ青年の柔らかな声音を受け止めるだけだ。だが雷韋の琥珀の瞳には、確かな怯えと緊張が走っていた。

 この青年の真意が分からないのだ。この街の者なら手配書の事を知らないわけがない。


 柔らかい声音と言葉は雷韋を罠にかける為の甘言かんげんなのか?

 優しげに差し出された手も?

 分からない。



「僕は雪李せつり。大丈夫、何もしない。だから……僕の手を取って」



 言って、困ったように笑んだ。何も心配はいらないという風に。

 雷韋は雪李と名乗った青年を何度か瞬きして見た。



「あんた……なんでこんなところに来たんだ。こんな人気のないところに」



 雪李に向かって出した声は、自分でも驚くほど硬かった。

 それでも雪李は笑みを深める。



「ここは人気がないから、いつもこの時間は散歩してるんだ」

「散歩?」

「うん。いつもみたいに来てみたら、橋の下に人の気配がしたから声をかけてみたんだ。そうしたら、やっぱり人がいた」



 君がね、と言って、今度は邪気のない笑顔を見せた。


 その笑みに、雷韋はどこか華やかな印象を受けた。もし雪李が女だったら、花の咲いたような笑みに見えただろう。その笑顔に引き寄せられたように、雷韋の手は勝手に動いていた。


 気付けば雪李の差し出された手を取っていたのだ。

 雪李はその手をきゅっと握って「よかった」と安堵した声音で呟く。


 しかし雷韋は雷韋で雪李の手を取ったはいいが、心の中は疑心暗鬼が渦巻いていた。このまま衛士に引き渡されるかも知れないと思うと、どうしようもなく不安になる。どうして手を取ってしまったのか、と自問自答するも答えは何も浮かばない。けれど、雪李の掌の温度は不思議に優しいと思えた。雷韋の手を握る感触も、また優しい。


 何かこの男からは、無条件にいつくしみが感じられる。なのにどこか掴み所がなく、心に引っ掛かるものがあった。



「おいで」



 囁くような言葉と共に手を引かれた。それにつられるように足が動く。

 動かす足はぎくしゃくしていたけれど。


 橋の下から引っ張り出されて、そのまま雷韋は雪李に連れられて歩いた。この街の作りはよく分からないが、気のせいでなければ雪李は衛士が多くいる大路おおじ広小路ひろこうじを避けて、寂れた小路こうじを選んで進んでいるようだった。


 その道の道幅は狭く、馬車が一台やっと通れるかどうかのものだ。そして向かった先の通りには家々の窓からカーテンを透かして明かりが漏れているだけで、これと言った特別な建物があるわけではない。商店すらなかった。ただ質素な民家ばかりが延々と続いている。そのどれもが飾り気のない二階建てだった。それをきょろきょろと見回して、下町なのだろうか、と雷韋は思った。


 と、雷韋の手を引いていた雪李の足が突然止まる。


 はっとして男を見ると、「ここだよ」と言葉が返ってきた。

 雪李が立ち止まった建物は、やはり他とあまり代わり映えのない二階建ての建物だった。


 ただほかと違うのは、雪李は一人暮らしなのか、家の中に明かりがともっていない事だ。


 そこまで来て、ようやく雷韋と繋いだ雪李の手が離れた。そして上着のポケットから鍵を取り出して扉を解錠する。



「一人暮らしで掃除も満足にしていないからちょっと埃っぽいけど、寝る場所と食べるものはあるから、それで我慢して」

「どうして俺を連れてきたんだ」

「別に意味はないよ。強いて言うなら一人っきりみたいだから、なんとなく、かな。それに君は怯えていたみたいだし」

「それだけで普通、自分の家に連れてくるか? 俺は見ず知らずなんだぜ。あんたには警戒心ってもんはないのかよ」



 雪李の言葉に、雷韋は大きな目をしばたたいて返す。信じられないという風に。



「じゃあ、どうして僕の手を取ったの?」

「それ、は……」



 その事については、雷韋自身にも分からない事だった。

 ただ、漠然とした安心感を感じたのだ。それが理由と言うにはあまりにもおこがましいが、本当に漠然とだ。どこか掴み所のない雰囲気と言い、何かが心に引っ掛かっただけなのだ。


 そうして困惑する雷韋に笑みを返して、



「兎に角、中に入ろう」



 そう言って雪李は扉を開けると、中に入っていった。そのあとに雷韋も続く。

 雪李が言ったように、中は少し埃の臭いがする。それ以外にも何かもっと違うものの臭いもした。真っ暗な中に目を凝らすと、玄関のほぼ真正面に二階へ続く階段があって、その隣には手前と奥に二つの扉が並んでいた。雪李はほぼ真っ暗な中で迷う事なく手前の扉を開けると、中に入っていった。


 雷韋はこれ以上踏み込んでいいのか分からず玄関で立ち尽くしていたが、ふっと手前の部屋から明かりが差した。

 その瞬間、ぞわりと身体が震え上がる。肌に馴染んでいるようで、どこか馴染まない感触がしたのだ。



「君、こっちにおいで」



 雷韋が粟立った腕をさすっていると、雪李の穏やかな声が聞こえてきた。

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