白い胴体に赤いストライプを描いたドクターヘリが屋上に近づく。へリポートには真っ赤な正方形に大きな白十字が記されている。轟音を巻き起こして白十字の中心にヘリが降下する。

 北海道でも極端に降雪が少ない苫小牧では、真冬でも日常的にヘリの発着が可能だった。うっすら積もっていた雪が巻き上げられ、渦巻く。

 夏山が身を屈め、着陸したヘリコプターに走り寄った。ローターの回転が遅くなると機体の側面に立ち、キャノピー越しに操縦士に銃を突きつける。

「お前はそこを動くな!」

 ヘリコプターの横のドアが開く。

 降りてくる医師が叫ぶ。

「大沢だ! 患者のところへ案内してくれ!」

 夏山は操縦士に銃を向けたまま、ヘリの内部を覗き込む。他に同乗者はいない。空いた手で救急患者搬送用エレベーターの入り口を指差す。

「あの男の指示に従え!」

 扉が開いたままのエレベーターの中には、サングラスとマスクを付けた仁科が待っている。医師は、小走りにエレベーターへ向かった。

 仁科は無言で大沢に銃を向けた。金森から奪った銃の弾は起爆装置に使い切ったが、夏山の銃から二発だけ抜いて装填してある。

 息を荒くした大沢が問う。

「患者の様子はどうなんだ⁉」

「ナースを付き添わせている。彼女に聞け。だが、全身が麻痺している上、担当医が要求したMRIが撮影できていない」

「担当医の診断は?」

「橋の梗塞。だがその後、状態が悪化した可能性がある。確認の検査ができていない」

 エレベーターが降りると、二人は南側の廊下へ向かった。朝日を浴びるデイコーナーには、爆発の残骸が戦場のように散乱している。呆然と脚を止めた大沢を、仁科が銃でせき立てた。

 目的のドアに前に立つと、仁科が大沢に命じる。

「縛ってあるロープをほどけ」

 大沢はロープを外して、ドアをスライドさせた。足元に一人の男が倒れている。ベッドに二人。奥の一人は血にまみれている。どう見ても、大規模テロの直後か市街戦の現場だ。

 大沢は振り返った。

「これは――」

 言い終わらないうちに、室内に突き飛ばされる。

 仁科は、廊下に転がった消火器の陰に隠したセボフレンの瓶を取り出し、部屋の奥に投げ込んだ。ガラス瓶が破れて、液体が飛び散る。

「何を――」

 大沢が話をする間もなく、仁科はドアを閉じて再び縛り付けた。

  

          *


 奇跡が起こった! 右脚が、不意に大きく動いた! まるで、縛り付けられていた足枷が外れたかのように……。 

 なぜだ⁉ 何で、いきなり……?

 まさか……大量に点滴された薬品の効果か? 

 凝固作用を抑制して血流を良くする薬だと聞いているから、あり得ない事ではないと思う。だがそれはおそらく、出血しやすくなることも意味する。脳の血管が破れることを覚悟するしかない。いったん出血を起こせば、血は止まらない……。

 時限爆弾だ。

 理由はどうでもいい。

 動けるんだ! 今はそれで充分だ!

 時間がない。とにかく、点滴を外さなければ――

 身体をよじる。動くようになった足も使いながら、身体を傾けようとするが……。

 だめだ! やはり点滴の方には手が伸びない! どうしてもチューブには手が届かない! あと、ほんの数センチなのに……。

 チューブが外せなければ、ヘパリンはまだまだ入ってくる。こんなところで……こんな時に……死ぬわけにはいかない……。

 だが、手は届かない……。

 では、反対側は⁉

 ベッドには手摺がついているが、右側は降ろされている。全く動けなかった私には、転落防止の必要がなかったからだ。右脚を、横に出す。踵がベッドの縁にかかった感触がある。脚に力を込めて身体を引っ張ろうとした。だが、全く力が入らない。ならば、押してみよう。いったん脚を戻して、マットに踏ん張って身体を右側に押し出す。今度はわずかに身体が右にずれた。

 動く!

 ほんの数センチだが、確かに動いた!

 次は腕だ。右腕でベッドの縁をつかみ、引き寄せる。さらに身体が右に移動する。左腕の点滴のチューブが引っ張られる力を感じた。右腕でベッドの縁をつかみ直し、もう一度引き寄せる。

 このまま動かしていけば、点滴を抜ける!

 脚と腕を外に出し、ベッドの下を腕で探る。あった! ベッドの下に、指でつかめる場所がある! 力を込めて引っ張る。身体がベッドの縁まで大きく移動し、点滴のスタンドがわずかに揺れる。

 行ける! 

 今度は、渾身の力を込めてベッドの縁を押す。

 身体がベッドから転げ落ちた。点滴スタンドが倒れる。落下の痛みと点滴の注射針が引っ張られた激痛が、同時に襲いかかる。

 だが、生きている! 痛みは、生きている証だ!

 点滴チューブも途中の接続部で外れた! ヘパリンはこれ以上体内に入らない!

 危機をまた一つ、乗り越えたのだ!

 床に、うつぶせになっていた。ベッドの下が目に入る。

 金森が私を見ていた。

 体中を殴打され、血まみれになり、息絶え、汚物のように転がされ……それでも目を見開いて私を睨んでいた。

〝黒幕〟を倒した高揚感はない。操っていたはずの手下たちに逆に利用されていた、愚かな犯罪者だ。だからといって、同情も感じない。同僚だった男への、哀れみもない。

 自業自得。より知恵が回る同類に喰い殺されただけだ。

 悪党の末路だ……

 そう、思いたかった。

 だがこれは、私の怒りの結果だ……。歯が折れるまで殴打し、指を切り落とし、命を奪った……。手を下したのはサオリという女だが、殺させたのは私だ。

 私がやらせたのだ。

 多恵を救うためではあるが、とうとう人を殺してしまった……。

 私は〝闇〟に喰われたのだ……。

 いや、迷うな!

 まだ結末にはほど遠い! 倒さなければならない本当の〝敵〟は、目の前いる! 危機は続いているんだ!

 後悔するのは、後だ。まだ、やらなければならないことがある。やり遂げなければならないことがある。

 多恵が救えるなら、何でもする。命であがなえと言うなら、差し出そう。相手が悪魔だろうと、喜んで身を捧げる。

 その代わり――今は……今だけは力を与えてくれ!

 前に進む力を与えろ!

 金森の血が床を覆っている。動くのは右半身だけだ。半身だけで、血だまりの中をわずかずつ這い進んだ。

 右手を思い切り前に出す。手のひらで床をつかむようにしながら、同時に右ヒザを上げる。腕で引っ張り、脚で押しながら身体を進める。移動するのはほんの数センチだ。それでも進んでいる。同じことを繰り返せば、もっと進める。

 数メートル移動してから力を抜いて深呼吸をした。呼吸が苦しい。身体が、動くことを忘れている。クラゲのようにだらけていた身体には、これだけでも重労働だ。しかも、力を込めれば血圧が上がる。脳の血管が破れる危険が高まる。

 だが、休むわけにはいかない。頼む! 今しばらくは、生かしておいてくれ!

 多恵を救い出すまでは……。

 顔を回すと、だらりと引きずられる左腕が確認できた。点滴チューブは外れた。これ以上、薬は入らない。だが、テープで腕に固定された注射針は刺さったままだ。そこには、途中で外れた短いチューブが残っていた。外すこともできない。

 呼吸を整えて、さらに進む。

 数センチ……そしてまた、数センチ……。

 血だまりを離れてドアに向かう。

 息継ぎのために再び止まった。どれだけ進めたのか、背後を確認する。身体を引きずった跡が、金森の血でナメクジが這ったような筋になっている。床の血が、一カ所だけ濃くなっていた。外れた点滴チューブの先端だ。

 チューブの先からは、血が漏れ出ていた。

 金森の血ではない。過剰なヘパリンで凝固しなくなった、私の血だ。チューブを逆流し、流れ出している。身体に力を込めようとするたびに、吹き出す量も増える。

 このままなら、私は失血死する――。

 悪魔の高笑いを聞いた気がした。 

 死ね、と言うのだな……。

 いいだろう。それで構わない……。命が欲しいなら、持っていけ。事が終わったら、私を殺すがいい……。

 だが、今はだめだ。もう少しだけ時間をくれ! 今しばらく、動けるようにしてくれ!

 まだ、ドアにさえ近づけない……。あと少しだけでいいんだ……。

 多恵を助けに行かせろ!

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