第2話 泣きたくなる夜に

 小さい頃から、美味しいものを食べるのが好きだった。


 そんな俺、蘇芳春斗すおうはるとが料理人を目指すきっかけとなったのは、高校の時の修学旅行……初めての海外に浮かれて皆とはぐれ、迷子になった俺に手を差し伸べてくれた老夫婦がご馳走してくれたクラムチャウダーだった。



 ガイドブックにも載っていない、地元の常連客だけが訪れるような小さな店の無愛想な店主が出してくれたクラムチャウダーは、一体どれだけのあさりを詰め込んだのかと思うほど旨味が濃縮されているにも拘らず、驚くほどクリーミーでまろやかだった。


 余りの美味さに感涙する俺を見た老夫婦は、喜んで次々と料理をご馳走してくれた。


 その時の感動が忘れられなかった俺は、高校を卒業すると、バッグに必要最低限の荷物だけ詰めて美味しいものを求めて世界中を旅した。



 そうして数多くの国を巡り、現地で料理スキルを磨いた俺は、祖父が経営していた喫茶店の跡地を改装して、念願の多国籍料理店を開いた。


 まともな場所で修行を積んだ経験こそなかったが、色んな国を渡り歩き、身に付けた技術と経験があれば、経営を維持するのが一番難しいと言われる飲食店の経営も難なくこなすことができると思っていた。


 あの、世界を揺るがしたパンデミックさえなければ……



 世界中で何万、何十万という死者を出したウイルスの蔓延によって生活様式は一新を余儀なくされ、特に外食業界に対する風当たりは強かった。


 店の営業は自粛に追い込まれ、代わりに支給されるはずだった給付金は届かず、碌に収入もないまま固定費と維持費だけが延々とかさんでいき、決して多くはない貯金がなくなるのは時間の問題だった。


 返す当てのない借金をしてでも事業を継続するかどうか迷ったが、今ならまだ再起するチャンスはあると思い、俺は初めて間もない店を畳む決意をしたのだった。




「はぁ……」


 廃業に必要な手続きを全て終え、最期の営業を終えた俺は、昔ながらの喫茶店といったローテーブルに革張りのソファが並ぶ薄暗い店内で、モップ掛けをしながら一人重い溜息を吐く。


 最後の営業日の客は三人……その内二人は近所に住む親戚で、俺が店を開く時に出資までしてくれた恩人だった。


 別れ際に俺ならきっと再起はできると言ってもらえたが、開業手続きをもう一度やると考えると正直かなり気が重い。


 この国の行政手続きは、どうしてあんなにもめんどくさいのだろうか?


 ただでさえ何枚も同じような書類の提出を求められるにも拘わらず、少しの不備も許容してくれず、向こうの不備は電話一本で修正しに来いと、上から目線で言ってきやがる始末……、


 俺が偉い人になったら、面倒な手続きは可能な限り簡素化してやろうと思った。



 そんな何の得にもならない愚痴を言いながら、最後の店内掃除を終えた俺は、この店での最後の晩餐をしようと思った。


 国から酒の提供は禁止されているが、自分の店で飲む分には知ったことじゃない……というか、今日ぐらいは飲まなきゃやってられない。


 掃除道具を片付け、何の酒が残っていたっけ? と腕まくりしていたコックコートの袖を直しながら棚の中身を思い浮かべていると、


「…………カトノ…………」

「――っ!?」


 厨房の方から何者かのくぐもった声が聞こえ、俺はビクリ、と身を強張らせる。


「だ、誰?」

「…………」


 恐怖に打ち震えながらも厨房に向かって声をかけてみるが、生憎と返事はない。


 まさか……強盗か?


 パンデミック以降、世界一安全とかつては言われた日本でも治安の悪化はそれなりで、特に小売業では、万引き被害が非常に深刻だと言われている。


 テレビとかでよく「生活に困って仕方なく……」という言い訳をする万引き犯がいるが、こんな大変な情勢で生活に困っているのはお前だけじゃないんだぞ! その盗まれた商品を取り戻すのに、一体どれだけの商品を売らなければならないかわかっているのか? と激しく問い詰めてやりたい。


 だが、実際はそんなことを言うチャンスはなく、事情聴取という名のめんどくさい手続きが待っているのだ。


 俺が偉い人になったら、この辺の手続きも簡略化して以下略……

 と、脳内に浮かんだ愚痴を一通り吐いた俺は、モップを持つ手に力を籠めながら、勇気を出して厨房へと向かう。


 荒事は全く得意ではないが、この店の主として今日の売り上げだけは死守してみせる。



 そう固く決意した俺が厨房を覗いて見たのは、


「……子供?」


 厨房の床にうつ伏せで倒れている、齢十にいくかいかないぐらいの年端もいかない小さな身体だった。




 戸締りは確認したはずなのだが、どうしてシェフの戦場ともいえる厨房に無関係の子供がいるのか?


 しかも、見たところこの子供、どうやら日本人ではないようだった。


 何処かの民族衣装だろうか? 体をすっぽりと覆うようなダボダボの濃い藍色のローブに、蛍光灯の光を受けてキラキラと輝くストレートの銀髪……うつ伏せで倒れているので顔は見えないが、こんな綺麗な銀髪、日本人の黒髪をどう染めても再現不可能に思われた。


 疑問は尽きないがこのまま放っておくわけにはいかないので、俺は万が一のことを考えてマスクと手袋を装着すると、倒れている子供に話しかける。


「あの……大丈夫かい?」


 見た目では何処の国の子供かわからないが、先ずは日本語で話しかける。

 今のご時世、そう簡単に他の国との行き来はできないだろうから、この子も日本にいる以上、ある程度の日本語を理解できるはずだ。


 そう思いながら再度声をかけると、少女の目がゆっくりと開き、


「シチスィ!?」


 驚愕に目を見開きながら、跳ね起きるように距離を取る。


「ノ、ノラ、クシノ? チミカクシス!?」

「お、落ち着いて?」


 いきなり謎の言語で話し出す少女に、俺は両手を上げて敵意がないことを示す。

 参った。まさかの全然話が通じないし、今まで聞いたこともない言語だ。


 だが、こちらはこれまで世界中を旅して、幾度となく言葉が通じない相手とコミュニケーションを取ってきた身だ。今更言葉が通じない程度でビビることはない。



 俺は両手を顔の前に掲げて武器を持っていないことをアピールすると、警戒した様子の少女に向けて身振り手振りを交えながらゆっくりと話す。


「いい? ここは……俺の家だよ」


 厳密には俺の家ではないが、そんなことを気にしている場合ではない。


「ところで君は……誰かな?」

「…………ハッ!?」


 できるだけオーバーリアクションをして俺の言いたいことを伝えた甲斐があったのか、少女はキョロキョロと周りを確認して、自分の方が侵入者だと気付いたのか、大きな瞳を見開いて恥ずかしそうに顔を伏せる。


「ト、トラスゥ……」

「ああ、いいよ大丈夫。別に何か被害があったわけじゃないからね」


 途端にしおらしくなった少女に向かって、俺は不安にさせないように笑顔を浮かべる。


 とはいえこれから先、どうしたらいいだろうか?


 この少女が困っているならどうにか力になってあげたいが、言葉が通じないのではどうしようもない。


「…………」


 これからどうしようかと思っていると、少女が何かを言いたそうに俺の服の袖を引っ張って来る。


「えっ、何?」

「クカニテ…………」


 謎の言葉を離しながら、少女は自分と俺の額を指差すと、手をパンと叩く。


「えっと……察するに俺と君の額をぶつけろってことかな?」


 その行為にどんな意味があるのかわからないが、俺が前髪を上げて額を晒すと、少女も前髪を上げて俺の額にぶつけてくる。


「「痛ッ!」」


 思ったより強く額がぶつかったため、俺と少女は揃って声を上げて額を抑える。


 ……って、あれ? 気のせいか今、少女も日本語を話さなかったか?


 そう思っていると、少女は赤くなった額を擦りながら涙目でこちらを見ながら口を開く。


「ど、どうやら上手くいったようじゃな。ワシが何を言っておるのかわかるじゃろ?」

「えっ、あ、うん……でも、どうして?」

「それはじゃな……」


 少女が俺の疑問に答えようとすると、彼女のお腹が「ぐぅ~」と盛大に音を立てて空腹を訴えてくる。


 瞬間、少女の顔が瞬間湯沸かし器のように真っ赤になったかと思うと、恥ずかしそうに上目遣いでこちらを見る。


「すまぬが、何か食い物をくれぬか? 実はここ数日、まともに飯にありつけておらんのじゃ」

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