6 庭の改装は劇的に


 なんということでしょう。


 カーテンを開けると、そこには風光明媚な日本庭園が広がっていました。


「なっ、は……?」


 寝ぼけまなこをかっぴらく。


 強制おめざを食らった視界へと飛び込んできたのは、なんといっても池だった。


 昨日まで空だったコンクリート敷きの窪みに、並々と水が張られていた。

 庭の三分の一に当たる面積を占める水鏡と化し、緑の木々を映している。


 変化は池だけにとどまらない。

 所々に芝生が生え、壁沿いには落葉樹まで植栽されていた。


 煌めく朝日を反射する水面に架かる石造りの太鼓橋中央、山神が佇んでいる。

 一面ほぼ緑色の中で白い狼はよく映えた。


 鳥のさえずりが響く中、朝の澄んだ気配が漂う石畳の小径を歩き、山神のもとへと向かう。

 にたりと口角を上げ、得意気に迎えらえた。


「どうだ」

「こんなことできるんだ」

「我、山神ぞ」


 後ろにひっくり返りそうなほど胸を反らした。

 その隣に並び水面を覗く。乗り出した己の顔を映す水の下には、白い玉砂利が隙間なく敷かれている。

 水深一メートルほどだが随分近く感じられ、生き物の影は見えなかった。


 驚きしかない。

 池に水を満たすのみならず、植栽、砂利敷きまでやってしまうとは。


 家の持ち主から庭はお好きにどうぞ、と許可をもらっており、問題はない。

 何より、ここまで立派な庭園にしてもらえば、文句などつけようもないだろう。

 湊が感嘆の息をつく。


「すっげえ」

「そうだろう、そうだろう」

「綺麗な水だなぁ」

「山から引いてきた」

「とんでもねえ」


 視線をそのまま横へとスライドさせる。


「で、力遣いすぎたせいで、そんな小さくなってるの?」

「……左様」


 現在、山神、中型犬サイズ。湊の膝までしかない。

 見上げられるのは新鮮だが、なんとなく屈んでしまう。

 見下ろすなぞ、あまりにも恐れ多い。

 いくら気さくに接してくれるとはいえ、相手はやはり神様である。


 しゃがんでもこちらのが高いのは、どうしようもない。神々しさは変わらぬ狼をしげしげと眺める。


「随分とまあ可愛くなっちゃって」

「なあに、すぐ戻る」

「そうなんだ」

「頼むぞ」

「俺かよ」


 湊のあげる愉快げな笑い声が、生まれ変わった庭に木霊する。

 ちちち、と鳴いた雀たちが芝生から飛び立っていった。



 ◇



 買い物から戻った湊が表門の表札の下、葉っぱに乗った丸い種を見つけた。


 久しくなかった珍事である。

 山神が最初にくれた薬草類以来だ。


 不意に湊は思い出す。

 今し方田んぼの畦道を歩いている最中、やけにカニだの、亀だの、甲羅持ちの生き物たちに行き合ったことを。

 皆、道端に佇み、湊を見上げていた。


 なんとなく物言いたげに感じられたのは気のせいなのか。

 不思議に思いながら、親指の爪ほどの黒い種を拾い上げる。


「これって、山神さんからじゃ――」

「違うぞ」

「あ、やっぱり?」


 ぬっと格子戸と門柱の隙間からわずかに鼻を出す山神は、すでに元の巨躯に戻っている。


 野生の狼が存在したのははるか昔の話だ。

 山神は自由に敷地内外を闊歩する。

 いくら近隣に人目がないとはいえ、『まずいのでは』とそれとなく進言すれば『湊にしか見えないから問題ない』と一蹴されていた。


「じゃあ、これは誰から……」

「うむ、悪いやつではない。ここに厄介になりたいようだ」

「庭に?」

「池に住みたいらしい」

「いいの?」

「許可するのは我ではない。ここはお主のもの」

「いや、俺も仮だし。庭はおおむね山神さんの物のような気がするけど……」


 山にほど近いここは、山神の所有物だろう。

 家を建てて我が土地だと主張するのは、人間の勝手な言い分にすぎない。

 そんな理屈が神に通用するはずもないだろう。


 ゆえに己の好き勝手に庭をいじるのかと、家の中には入ってこないのは気を使ってくれているのかと。

 そう思っていた。


「別に俺は構わないけど」

「らしいぞ」


 山神の視線を追う。

 湊の背後斜め下に、陽炎のごとく淡く儚い小さな白いモノがいた。

 地を這うその姿がぼんやりと見えた。


「亀?」

「うむ」


 直径十センチにも満たない小亀が首を伸ばし、湊を見上げていた。


「お主に助けられたと云うておる」

「えっ、記憶にございません! 人違いでは!?」


 亀を助けた男の末路といえば。反射で有名な昔話が脳裏を過ってしまい、身構えた。


 「罪な男よな」


 山神が愉快げに巨躯を揺すって笑った。



 小亀が水しぶきを飛ばし、池へと飛び込む。

 嬉しげに水中を四肢で掻いて泳ぎ回った。



 亀曰く。先日商店街で怨霊に取り込まれていたのを、湊が祓って助けたという。

 メモ帳から買い物予定文字が全消えの憂き目に遭った時のことだ。


 それを聞かされた湊は、その時、かなり頭にきて見知らぬ通行人に、盛大に愚痴ってしまったのを思い出した。羞恥のあまり頭を石灯籠に叩きつけたくなった。


 心を静め、心地よさげにプカプカと水面に顔を出すの亀を見守ったあと、庭を見渡す。


「もらった種、どこに植えよう」

「それは相当大きくなるぞ」

「じゃあ、山神さん決めて」


 迷いもせず、庭のほぼ中央へと向かう白い後ろ姿についていく。


「ここだ」


 前足で叩いて示されたのは、まるで誂えたように広い土面だった。

 前足で掘ってくれた穴に種を入れ、土を被せていく。


「ところで、これなんの種?」

「植える前に気にするものであろう」

「すみません」

「木だ。何の木かは、育ってからの楽しみにしておれ」

「そうする」


 植えた場所にじょうろで水を撒く湊の背後、御池から楽しげに水しぶきが散った。


 通常、山神は酒より甘味を好む。

 夕飯後、久々に日本酒が呑みたいと仰せであった。

 ゆえに家の中から瓶を持って戻ってきた途端、大気がゆれた。


 御池のほうから、強い強い視線を感じる。


 さも愉快とばかりに笑った山神が、甘酒饅頭に噛みつく。湊が淡く光を放つ御池へと顔を向けた。


「亀さん、酒、いる?」


 またたく間に水中から飛び出し、小亀が這ってくる。

 亀にあるまじきその速度なら、兎と競争しても決して遅れはとるまい。

 縁側下から見つめてくるその眼は爛々と光っていた。


 小亀は日に日に存在感が増していき、今では湊にもはっきりと見えるようになっていた。


 全体的に黄みの強い真珠色で、山のように尖った特徴的な甲羅を持っている。


 やけに神秘的で、一般的な亀とは異なる姿だった。


 縁側へ上がってきたその体は濡れていない。

 そんな様を見るたび、相手は神の類いなのだと強く思う。


 浅皿に酒を入れると、飛びつく勢いでかじりつき、一心不乱に呑んでいる。

 かなりの酒好きらしい。

 夕飯に誘った時は、酒がなかったから断ったのだろう。


「今度からちゃんと用意するよ」


 体から光を放ち、喜びを伝えてきた。



 ◇



 小亀も存在を確固たるものにした梅雨を間近に控えた頃。庭の小径に舞い散る落ち葉を、湊が竹箒で掃いていた。


「庭はいつも温度変わらないよな。妙に空気も清々しいような気もするし……」


 何より不快な虫一匹すらいない。異様である。


 静かな空間に落ち葉のかさつく音、竹箒と石畳が擦れる音があたりに響く。

 日々温度も湿度も上がっていく世間と引き替え、楠木邸の庭は、いつでも変わらぬ快適な温度、湿度を保っている。

 外から帰ってくれば、より顕著に空気の違いを肌で感じる。


 表門をくぐった瞬間、空気が変わる。


 あたたかくて、やわらかくて、されど身が引き締まる清廉な空気に身を包まれる。


 縁側で寝転ぶ山神と池にせり出す大岩で甲羅干しする小亀は、何もいわない。

 ただ、のんびりと思い思いに過ごすだけだ。

 個体数は増えても、至って静かで平和な時間が流れていく。



 ◇



 そんな楠木邸の表門前に立ち尽くす男が一人。

 やや草臥れた黒スーツで長身を包み、家を見上げるその顔は青白く隈が目立つ。

 健康的とはいいがたい様相の男は、驚愕覚めやらぬ様子である。


「……ここは、神域か……?」


 震える声で呟き、眼鏡のつるを押し上げた。

 

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