第一話

 議員会館の一室で対峙するのは尾長のなか勉務ひろむ葛西かとう圭一こういちの二人。旧知の両者に流れるものとは思われぬ、張り詰めた緊張が一室を支配していた。

 先に口を開いたのは尾長であった。

「葛西さん、あんたどうあっても起つんかね」

「起ちます」

 一顧だにせず即答してのける葛西。

「一応念のため言うとくが、総理が無風を望んでいるという話は知っとるね」

「知ってますよ。はい、知ってます」

「無風」とは無投票当選、或いはそれに近い選挙を指す政界用語である。このころ自権党じみんとうは、任期満了に伴う党総裁選挙を控えていた。小淵澤おぶち総理総裁の無投票当選が確実視される情勢下、名門派閥「紘池会こうちかい」会長を引き継いだばかりの葛西圭一が、盟友山端やまさきたくと歩調を合わせて小淵澤総理の掲げる無投票当選方針に敢然と挑みかかったのが、今回の総裁選の構図であった。


 葛西は頑固そのものといった、ただでさえ四角い顔を更に強張らせて、尾長の説得に応じる気配がない。しかし尾長は諦めなかった。簡単には諦められなかった。小淵澤総理を支える内閣官房長官としての立場もある。しかし尾長にとってより重要だったのは、自身にまつわるそのような事情ではなく、葛西圭一という政治家の「価値」だった。

「俺は常日頃からあんたを総理にしてみせると公言してきた。あんたもよく知ってのとおりや」

「その節はどうも……」

 かき口説くような説得を受け、旧知の情に流されまいとするかのように、尾長から目を逸らす葛西。口にしたのは形ばかりの謝礼だった。礼などと言い条、その口調はといえばぶっきらぼうそのもので、およそ誠意がこもっているとはいえないものだった。

 しかし尾長にしてみれば、この場でいくら葛西から邪険に扱われようが関係がなかった。今回の立候補だけはなんとしても断念させねばならぬ。

「俺が退任した後は葛西くんだ。次回総裁選こそは、我が派閥を挙げて葛西くんをバックアップする。次の次こそきみだ。

 小淵澤がそう言っていたと伝えてくれ」

 今回の総裁選にあたって内閣官房長官尾長勉務が小淵澤総理から与えられた命題であった。小淵澤は葛西への禅譲を口にしてまで今回の無投票当選にこだわっているのである。党内融和を掲げる総理に叛旗を翻してもし敗北すれば、葛西派は今後党内で徹底的に干し上げられることになるだろう。改造内閣で閣僚ポストが宛がわれないのはもちろんのこと、「紘池会」所属議員は次回選挙に際して党執行部から公認を得られなくなるおそれすらあった。そんなことになれば「紘池会」からの離脱を望む議員が相次ぎ、葛西圭一は派閥領袖としての求心力と党内実力者としての地歩を同時に失って、将来的な総理総裁就任も覚束なくなるだろう。そして党内世論は、堅実な政権運営で実績を積み重ねてきた小淵澤の再選を望んでいるように思われる。波乱など葛西とその周辺以外誰も望んではいなかったのである。

 尾長はたたみかけた。

「その意思はいまでも変わらん。葛西さん、俺はいずれ必ずあんたを総理総裁に据えてみせる。いまの日本にはあんたみたいな政治家が必要や。誰がなんと言おうとあんたは総理になるべき政治家なんや。土佐の砂浜で死の淵に立たされた俺が言うんやから間違いない。あんたは日本のためにいやでも立ち上がらなあかん政治家なんや。

 でもな。それはいまやない。いま起っても総理の勝ちは動かんやろ。あんたもそこそこ取るやろけど……」

 ここまでいうと、尾長ははたと口を噤んだ。

 もし自分が内閣官房長官たる地位を忘れて葛西支持に動いたらどういうことになるだろうか。

 自分がそういった行動をとったとしても、現下の党内情勢からいって現職優位はやはり動かないだろう。しかし葛西が積み増す票は相当量に上るかもしれない。得票数が現執行部の想定を超えれば、いかに小淵澤とはいえ葛西を無視することも干し上げることもできず、党内に実力を保持し続けられるだろう。

 しかしそれは、内閣の一員である尾長自身の立場を危うくする行為であった。下手をすれば野党から閣内不一致などと要らざる誹りを受けかねない非常識な行動でもある。葛西に協力するという構想は、根っからの葛西シンパである尾長の脳髄を一瞬支配したが、それはうたかたのようにして消えた。

 一瞬の夢から覚めた尾長は続けた。

「……そこそこ取るやろけど、それが却ってあんたの立場を危うくすることになる。妙な連中に担がれて変な気ぃ起こすな。悪いことはいわん。今回は見送った方がぇ。さいわい総理も退任後はあんたに譲っても良ぇと……」

 交渉の切り札ともいえる禅譲を口にした途端、葛西は尾長を遮って言った。

「格さんは妙な連中なんかじゃありませんよ」

 今回の総裁選では葛西だけでなく、その盟友山端格も立候補を表明していた。葛西派と山端派が歩調を合わせて小淵澤の覇権に挑み、新たな潮流を作り出そうとしていたのである。葛西と山端、それに「清和政策研究会」いわゆるもり派に所属する有力議員古池谷こいずみ甚太郎じゅんいちろうの三人は、それぞれの頭文字をとって「YKK」と呼ばれ、派閥力学を超えた友情で結びついているというのは党内でも有名な話であった。今回、古池谷は小淵澤支持に回ったが、葛西山端連合は飽くまで強固だった。

 しかしそれにしても葛西の指摘は説得の本筋とは関係のない話であり、いわば尾長の言葉尻を捉えた反論であった。

(禅譲など信じない。説得など聞く耳持たぬ)

 葛西の決意が見て取れるような反論だ。

 そして、葛西が放った次の言葉は、葛西を救うべく説得に当たっていた尾長を激昂させるに十分であった。

「もし尾長さんがそうまでして私を総理総裁に据えてくれるっていうんだったら、今回は是非とも私を推してくださいよ」

 面と向かって下心を指摘されたのである。侮辱といってよかった。これまで冷静を保ってきた尾長が、このひと言でキレた。

「俺はっ……! きみのためを思って……! きみという男は……! 見下げ果てたやっちゃ!」

 潮湧くが如く怒りがこみ上げて言葉にならない。

「もう知らん! 勝手にせぇ!」

 交渉は決裂した。


 総裁選は大方の予想どおり小淵澤の勝利に終わった。投票後は慣例に従い三候補がガッチリ握手を交わしたが、やはりというべきか、政治の世界にノーサイドなどありえなかった。尾長が危惧したとおり、葛西山端の両派閥は徹底的に冷遇されることとなった。

 葛西がこのとき総裁選に出馬した意図はいまとなっては分からない。後の流れを概観すれば、このとき葛西が立候補を見送っておれば、約束どおり禅譲が実行された可能性も決して低くはなかった。しかし、過去には禅譲の約束を反故ほごにされほぞを噛んだ政治家もいたのだから、その意味では

「総理総裁の座は戦って勝ち取る以外にない」

 というのもひとつの見識といえよう。

 総裁選後、国会における首班指名選挙を経て発足した第二次小淵澤改造内閣において葛西派が干し上げられたことはもちろん、尾長もまた内閣官房長官の地位を他に譲ることとなった。葛西説得に失敗した事実上の更迭であった。葛西のとばっちりを食った形である。

 これ以降尾長は

「葛西を総理総裁に据える」

 と言わなくなったが、それも無理からぬ話だったといえよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る