6-10 手がかりと真実確定
先ほどまで穏やかだったローレリーヌの表情が一変している。イツカが本と口にした瞬間に目を見開き、みるみる間に顔色が青くなり、呼吸が浅くなっている。
それはまるで――強い恐怖を感じて怯えているかのように。
「ローレリーヌさん?」
今の流れで、彼女は一体何に怯えている?
一瞬思考が止まったイツカだったが、すぐにその答えに辿り着いた。
(――本だ)
イツカは先ほど本を目にしたと発言した。ローレリーヌが怯えたのはその瞬間だ。
つまり、彼女は本に対して怯えている。もしくは、イツカが本を見つけたことに恐怖を感じている。はたしてどちらが答えなのか判断するにはまだ材料が少ないが。
「ローレリーヌさん、大丈夫ですか?」
彼女の名前を呼びながら、イツカはローレリーヌへ一歩近寄る。手を伸ばせば触れられる距離に入った彼女の頬に触れれば、恐怖に染まっていたローレリーヌの目にわずかな光が戻った。
しかし、顔色はいまだに悪く、目の奥に揺れる色も怯えている人間が見せるそれだ。
わずかに震える手が、頬に触れているイツカの手を握る。わずかな震えを感じさせる手は、イツカにすがってきているかのようだ。
「クラマーズ、様」
「大丈夫ですよ。大きく息を吸って……吐いて……そう、そうです。少しずつ落ち着いてきますから、大丈夫……」
ローレリーヌの頬から一度手を離し、イツカからも彼女の手を握り返す。体温がしっかり伝わるように両手で包み込み、優しい声色でローレリーヌへ深呼吸を促した。
冷えたように感じられるローレリーヌの手へ、イツカの体温が少しずつ移っていく。
「大丈夫、大丈夫……」
優しく声をかけ続け、ローレリーヌに何度も繰り返し深呼吸をさせる。
すると、次第にローレリーヌも落ち着きを取り戻しはじめ、最後には自発的に息を大きく吐き出した。
「……申し訳ありません、クラマーズ様。お手数をおかけしてしまい……」
そう言葉を紡いだローレリーヌの目の奥では、相変わらず恐怖の色がちらついている。
しかし、完全に恐怖そのものが消え去ったわけではない。黒い目の奥底では、まだ少しの恐怖が揺らめいていた。
本というたった一言を耳にしただけでこんなにも怯えるなんて、これは少々想定外だ。
「いいえ、お気になさらずに。その……大丈夫ですか? 本当に」
あれだけの怯え方を目にしたあとだ。『本』に何かあるのか詳しく聞き出したいが、今その話題を振るのは抵抗がある。
(でも、本と聞いただけであんなに怯えたということは)
ローレリーヌと、彼女の部屋にあった呪術に関する本。何らかの関係があるのは確定だ。
「大丈夫……大丈夫です。その、少々……怖いことを思い出してしまっただけなので」
そういいながら、ローレリーヌは苦笑を浮かべ、イツカの手をそっと離した。その手で自身の片腕を軽く握り、自分自身を抱きしめているかのような姿勢をとる。
本人は大丈夫だと繰り返し主張しているが、正直あまり大丈夫そうには見えない。
恐ろしいだろうに、不安だろうに、必死にそれらの感情を飲み込んでイツカを安心させようと苦笑を浮かべる姿には一種の痛ましさがあった。
ぐ、と。空を掴んだあと、イツカはがしりとローレリーヌの両肩に手を置いた。
「ローレリーヌさん。お話を聞かせてくれませんか。何があったのか」
びくり。わずかにローレリーヌの両肩が跳ねた。
正直、あれだけの怯えを見せたあとに話を聞き出すのにはどうしても抵抗がある。彼女に話を聞くということは、彼女にあれだけ怯えるほどの恐怖を思い出させるということだ。
けれど、誰かに話すことで抱えた恐怖が和らぐ場合もある。
「大丈夫です。どんなお話でも、わたしは耳を傾けます。それに、怖いことは誰かに話せば和らぐ場合がありますから」
一人だけでは理解できずに恐怖を感じてしまうことでも、口に出して誰かに話すことで言語化され、自分の中で整理できる。自分一人で抱えるのはひどく恐ろしくても、誰かと共有すれば耐えられる場合がある。
理解できぬ恐怖に支配されていた人間が、イツカたちクラマーズ家の人間に打ち明けることで救われた顔をする瞬間を、イツカは何度も目にしてきている。
真正面からローレリーヌの目を見つめ、じっと彼女の返事を待つ。
対するローレリーヌは怯えが残る目をあちらこちらに向けていたが、やがて唇をぎゅっと噛みしめたのち、静かに唇を動かした。
「……多くの方がそんなことはない、おかしいと感じるようなお話です。それでも……」
続くはずだった言葉がローレリーヌの唇から発されず、かわりにぐっと押し黙るような表情になる。話すか話さまいか迷っているような顔だ。
ローレリーヌを安心させるために緩く笑顔を浮かべ、イツカが言葉を返す。
「構いません。ローレリーヌさんのお話を全て聞き終わる前に、ありえないと断言しないとお約束いたします。聞き終わったあとも。だから、どうか話してくださいませんか」
ローレリーヌの黒い目がわずかに見開かれる。
ほんのわずかな反応だが、至近距離にいるイツカの目にはしっかりと見える。
迷子の子供が頼りになる大人を見つけた瞬間を思わせる、そんなわずかな反応だ。
「……笑いません?」
「もちろん」
「馬鹿にしませんか?」
「誓っていたしません」
「……信じられないようなお話ですよ」
「ですが、何かがローレリーヌさんの身にあったんでしょう? 何かがあったということは確かな現実です。信じますよ」
短い問答がローレリーヌとイツカの間で何度か交わされる。
やがて、ローレリーヌが短く息を吐きだし、すぐに吸い込んで、イツカの目を見つめ返した。
「――わかりました。クラマーズ様を信じてお話いたします」
そういって、ローレリーヌは言葉を重ねた。己に何があったか。『本』を怖がるのはどうしてなのか。
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