4-6 黒い靄糸を辿って

(この人がローレリーヌさん)


 タニアから他に具合が悪い使用人がいるとは聞かなかった。

 最初の情報提供者であるヴィヴィアも、ローレリーヌ以外に姿を見なくなった使用人の話はしていなかった。

 今、ベッドの中で寝息をたてている彼女がローレリーヌで間違いない。

 大体の状態を確認したあと、イツカは手に持っていたフルーツバスケットをサイドボードに置いて深く息を吐きだした。


『どうする、おひいさん。ほっといたら間違いなく死ぬぞ、こいつはァ』


 イリガミ様がにやにやと笑いながら問いかけてくる。

 どうするか――だなんて。そんなこと、決まっている。


「今すぐに対処します。イリガミ様、準備は整っていますか?」


 絶対に逃さない。

 己の中にある意志を形にするかのように呪糸を握りしめて問いかけ直せば、イリガミ様はけらけらと楽しそうに笑い声をあげた。


『整ってないわけがないだろォ?』


 イリガミ様の口から発された言葉は、当然だと言いたげな声色のものだ。

 その声色と表情につられ、イツカもわずかに口角を上げる。掴んだ呪糸はそのままに、空けたもう片方の手でローレリーヌの身体に絡みついている呪糸にも手を伸ばした。

 指先が呪糸に触れた瞬間、鋭い痛みが走る。焼けつく痛みが両手に走るのは非常に苦しいが、だからといって手を離すわけにはいかない。


 痛みによる涙で視界がわずかに滲む。圧縮された呪詛の影響でわずかに頭がくらくらする。けれど、ローレリーヌに絡んだ呪糸を手で少しずつほどき、引き剥がしていく。

 ローレリーヌの首に絡んでいた呪糸と、彼女の肌の間にわずかな隙間ができた瞬間、イツカはイリガミ様の名前を呼んだ。


「イリガミ様、お願いします!」


 同時に勢いよく呪糸を引っ張り、一気にほどいた。

 蝕んでいた対象から強制的に引き剥がされた呪糸は、再度ローレリーヌへ絡みつこうと動く。

 だが、呪糸がローレリーヌの身体に戻るよりも早く、イリガミ様の鋭い牙が喰らいついた。


『――!!!』


 限られた者にしか聞こえない大絶叫が離れ中へ響き渡る。

 あまりの声量にさすがのイツカもとっさに両耳を押さえ、顔をしかめた。

 だが、イリガミ様は全く怯むことなく、首を振って捕らえた獲物を――呪糸を完全にローレリーヌから引き剥がし、前足で床へ押さえつけて力任せに引きちぎる。


 ぶちり、ぶちり。引きちぎられるような音が聞こえるたび、この世のものではない大絶叫が繰り返しイツカの鼓膜を激しく叩く。

 だが、次第にそれもどんどん小さくなっていき、最後にあがったかすかな悲鳴もイリガミ様に呑み込まれて消えていった。


『ずいぶんとうるせェ奴だったなァ。大丈夫かァ? おひいさん』


 ぎらぎらとしたイリガミ様の目がイツカへ向けられる。

 先ほどまでの大絶叫が嘘であったかのように、今の室内は静まり返っている。両耳を覆っていた手をゆっくり下ろしても、あれだけ響いていた絶叫が再び鼓膜を叩くことはなかった。

 ほうっと軽く息を吐いてから、イツカもイリガミ様へ目を向ける。


「大丈夫です。ありがとうございます、イリガミ様。残りの呪詛もお願いしてよろしいでしょうか」


 呪糸が引き剥がされた今、ローレリーヌの寝顔はわずかに落ち着いている。

 だが、彼女を苛む呪詛が完全に消え去ったわけではない。呪糸にまで成長しなかった分は、まだ彼女の身体を蝕み続けている。

 彼女の顔色が変わっていないのと、黒い靄がのしかかり続けているのが何よりの証拠だ。

 イリガミ様が目をぎらつかせ、くつくつ笑う。


『あァ、もちろん。おひいさんはおひいさんらしく、震えながらちょいと待ってなァ』


 馬鹿にするかのような響きを含んだ言葉だが、きっと彼なりにこちらのことを心配しているのだろう。

 イツカはずっと呪糸に――圧縮された呪詛に素手で触れ続けていた。いくらイツカがクラマーズ家の中で特に優れた力を持ち、呪詛や穢れの浄化を行えるといっても、その身はただの人の身。人を蝕むものである呪詛に触れ続ければ、悪影響を受け続ける。


 今だって平然と振る舞っているが、ぐらぐらと目眩に襲われ続け、両手は火傷を負ったときのような痛みを訴え続けている。

 イリガミ様が喜んで残りの呪詛を喰らいにかかる姿を見ながら、イツカは己の懐に入れていた棒状のお香を取り出し、火を灯す。

 携帯用の香皿に煙を漂わせる棒状のそれを置いて、浄化作用のある香りを大きく吸い込んだ。


 きっと言っている間に離れを、そしてローレリーヌを蝕む呪詛は消え去るだろう。そう考えれば、ほんの少しだけ気持ちが落ち着くようだった。

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