第三話 噛みつき姫の協力者

3-1 噛みつき姫の協力者

 軽やかな足音を奏で、昨夜通ったばかりの廊下を歩く。

 フレーデガルと言葉を交わした夜が明け、迎えた翌日。窓から入り込んでくる朝の光に満たされた廊下は、どこか爽やかな空気で満ちている。

 その空気に似合わないどす黒い靄を見つけると、イツカは小さく安堵の息をついた。


「よかった、まだここに留まってたみたいで」


 小さな声で独り言を呟き、周囲を見渡す。

 広い廊下にはイツカ以外に人影は見当たらない。もちろんイツカ以外の人間の気配もなく、耳を澄ませてもこちらへ向かってくる足音は一つも聞こえなかった。

 今、この場にいるのはイツカただ一人。己の目的を果たす絶好のチャンスだ。


「……よし」


 改めて、廊下の角で漂う黒い靄へ視線を向け、大きく深呼吸をする。

 イツカの目の前で漂ってる黒い靄。これが、イツカがここへ足を運んだ大きな目的だ。

 フレーデガルの屋敷の中にも呪詛が散っていると判断し、屋敷の中に散った呪詛の浄化も同時に行わないといけないと考えて、今日。イツカは昨日見つけたばかりの呪詛を取り除くため、ゆっくりと手を伸ばした。


 多くの人間の目には見えない存在である呪詛は、普通の人間には触れることができない。

 しかし、イツカの手は黒い靄をしっかりと捕らえ、その中心にある呪いの核に指を絡めて強く握り込んだ。


「捕まえた」


 呟きながら、イツカは呪詛を捕まえる手に力を込める。

 瞬間、焼けつくような痛みが手のひらから身体に広がり、イツカの身体を蝕む。

 多くの人間にとって、呪詛は身体と精神を蝕む毒だ。目に見えず、触れることもできない猛毒だが――呪詛を浄化する力や呪詛に耐性を持つクラマーズ家の人間なら、ある程度呪詛が持つ力に耐えることができる。

 とはいえ、クラマーズの血を引く者も人間。呪詛を完全に無効化できるわけではないため、あまりに長時間触れていると毒なのは確かだ。


「……ッイリガミ様!」


 己の手のひらから伝わってくる痛みに、イツカの表情が歪む。

 しかし、一度捕まえた呪詛から手を離すことはなく、逆に指先へ力を込めて強く握り込みながらイリガミ様の名前を呼んだ。

 

 と、と。


 軽い足音が廊下の空気を震わせる。

 まるで虚空から何かが降り立ったかのようなその音は、イツカが待ち望んだ音だ。


『よくやった、おひいさん』


 イリガミ様の声が聞こえた次の瞬間、イリガミ様の口が大きく開かれる。ほんの瞬きほどの短い間に、イツカの手の中にあった呪詛へ鋭い牙が食い込んだ。


『――!!』


 耳をつんざくような悲鳴が辺りに響き渡る。

 屋敷中の人間を集めそうなほどの大絶叫だが、イツカもイリガミ様もほんのわずかに表情を歪めた程度で、それ以上の反応を示すことはなかった。

 一部の限られた人間にしか聞こえない、この世のものではない断末魔。

 それすらもイリガミ様は噛み砕き、咀嚼し、飲み込む。喉が上下に動く頃には、廊下に響き渡っていた断末魔は綺麗さっぱり消え去っていた。


「イリガミ様、お味はどうでした?」


 断片的とはいえ、夜会ではじめてフレーデガルを目にしてからずっと食べたがっていたものを口にできたのだ。

 少しは満たされたのではないかという思いを込めたイツカの問いかけに、イリガミ様がわずかに満足げに答える。


『なかなかに美味だったなァ。これで本体から分散した一部分なんだから、本体はどれだけ美味なのか楽しみになってくる』


 そういって、イリガミ様はより凶悪に目をぎらつかせた。

 ほんの少しだけ食べた程度では満たされない、深い飢えを抱える獣の瞳。多くの人間は恐怖を感じるその瞳を前に、イツカは嬉しそうに表情を緩める。

 多くの人が恐怖を感じる瞳であっても、イツカにとってはイリガミ様が少しでも満たされたのだとわかる嬉しい瞳だ。


「ならば、イリガミ様に早く最高のご馳走を捧げられるよう、わたしも頑張らねばなりませんね」

『呵々、それはそれは。なら、おひいさんが今回の術者を追い詰めるときを楽しみに待ってるぜェ』


 牙を鳴らし、イリガミ様がひどく楽しげに笑う。

 そんなイリガミ様に対し、イツカもどこか誇らしげに笑みを返してから、先ほどまで呪詛を掴んでいた己の手へ視線を落とした。


「しかし……本当に妙な呪詛ですね。わたしが掴んだときの抵抗が軽いものでしたから、強い力を持っているわけではなさそうなんですが」


 呪詛を掴んでいた手のひらは、いまだにひりつく痛みを訴えている。

 白いはずの手のひらは今、不気味に黒ずんでおり、火傷を負ったような状態になっている。

 だが、端のほうから少しずつ治癒が進んでいるため、時間の経過とともに消え去りそうだ。


 力が強い術者が放った呪詛であれば、呪詛を触れた際に負う傷がすぐに消えることはない。時間の経過とともに消え去っていく傷は、この呪詛を放った術者の力があまり強くないことの証明だ。


(でも、それにしては……やっぱり、環境中の汚染が気になる)


 昨日も感じた違和感が顔を出し、イツカの眉間にわずかなシワが寄った。

 これまでイツカが目にしてきた呪詛や穢れのうち、術者の力が弱い呪詛は対象者の周囲を汚染する速度はとても緩やかだった。

 しかし、今イツカが目にしている呪詛は、術者の力が弱いのにも関わらずフレーデガルが暮らす環境の汚染が早い。考えれば考えるほど、イツカがよく知っている呪詛の特徴から外れているように感じた。

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