2-2 侯爵の契約婚約者

 執事とともに歩いていったフレーデガルの気配が完全に遠ざかったあと、イツカは下げていた頭をあげて軽く息を吐きだした。

 この場に残されたのは、イツカとメイドたち。そして数人の執事たちだけだ。

 改めて、ベデリアをはじめとした使用人たちへ視線を向ける。一人一人の様子をしっかりと見つめたのち、イツカは心の中でもう一度息を吐き出した。今度は安堵の息を。


(……ここに来ている人たちの中には、ネッセルローデ様と同じ呪詛をくっつけてる人はいなさそう)


 だが、フレーデガルの話によれば使用人たちも呪詛や穢れの影響を受けているはずだ。ならば、ここにはいない誰かが影響を受けているのかもしれない。

 少し苦い気持ちになりそうになるが、はっきりとは表に出さず、イツカは先ほどフレーデガルに見せていたものと同じ笑みを浮かべた。


「それでは……お部屋までの案内をお願いしてもよろしいでしょうか?」

「もちろんでございます。どうぞ、こちらへ。みんなも自分の仕事へ戻って!」


 ベデリアがイツカへ返事をしたあと、両手を叩きながら他のメイドたちへ声をかけた。

 玄関ホールの空気に軽やかな音が鳴り響き、その音を合図に待機していたメイドたちが散っていく。残っていた執事たちも同様に己の持ち場へ戻っていき、玄関ホールにはベデリアとイツカのみが残された。

 ベデリアが先導するように一歩を踏み出し、イツカも彼女の背中を追いかけて歩き出した。


 かつり、こつり。二人分の足音がネッセルローデ邸の廊下に響き渡る。

 玄関ホールも綺麗に掃除されていたが、廊下も隅々まで掃除が行き渡っている。足元には上質な絨毯が敷かれており、足音があまり大きくならない。

 ぱっと見える範囲だけでも今いる廊下から入れそうな部屋が多い。ネッセルローデ邸がかなりの規模があることをイツカへはっきり伝えてきていた。

 壁には美しい絵画がいくつか飾られており、壁際に置かれたチェストには青を中心とした花々が花瓶に入れて飾られている。全体的に上品な印象でまとめられた場所だ。


 これだけなら上品な屋敷という印象を受けるが、所々――特に廊下の角辺りや柱の近くに漂っている黒い靄が全てを破壊している。


(やっぱり、屋敷の中にも呪詛や穢れがへばりついてる)


 やはり、フレーデガルだけでなく彼が住まう屋敷の空間もどうにかしたほうがよさそうだ。

 調査と同時に行う予定を頭の片隅に書き留めたとき、ずっと動いていたベデリアの足がぴたりと止まった。


「こちらがクラマーズ様のお部屋になります」

「わかりました。案内ありがとうございます、ベデリアさん」


 玄関ホールからになるが、ここまでの道のりは大体記憶できた。違う場所から向かう際は案内が必要になるかもしれないが、大体は一人で向かうことができそうだ。

 深々と頭を下げてベデリアへ感謝を伝えると、ベデリアは一瞬目を丸くして、けれどすぐにくすぐったそうに表情を緩めた。


「それが私の仕事ですので。……ですが、ありがとうございます。お疲れだと思いますので、中へどうぞ」


 ベデリアはそういうと、目の前にあるダークブラウンの扉を開き、イツカへ入室を促した。

 案内だけでなく、扉も開けてくれたベデリアへもう一度頭を下げたあと、イツカは案内された客室の中へ足を踏み入れた。

 瞬間。己の視界に入った客室の様子を前に、イツカは思わず感嘆の声をあげた。


「わあ……!」


 そこそこの広さがある客室の中は、女性らしさを意識した可愛らしい部屋になっていた。

 窓を覆うカーテンはレース生地と柔らかな青色をした生地の二重構造になっている。足元に敷かれたカーペットも柔らかな色合いをしていて、室内に柔らかい印象を与えていた。

 壁際に設置されているベッドは、普段イツカが使っているものよりも大きいセミダブルサイズだ。試しに軽く手で押してみるとマットレスの柔らかい感触が手に伝わってきて、思わず口元を緩めた。イツカがしっかりと身を横たえて休めそうだ。


 ベッドの傍には大きめのクローゼットが置かれ、そのすぐ近くにはドレッサーまで置かれている。試しにドレッサーの扉を開けてみれば、どうやら三面鏡になっていたらしく、ぴかぴかに磨かれた三つの鏡がイツカの顔を映し出した。

 部屋の中央付近に設置されているテーブルや椅子は、上品な印象を与えるアンティーク調である。

 棚には花が生けられた花瓶や繊細な作りの香炉が置かれている。花瓶の花や用意されている香の種類は、イツカも何度か触れたことのある馴染み深いものだ。


「すごい……」


 元々、このようなレイアウトになっていたとは考えがたい。

 わざわざイツカにとって馴染み深い花や香が用意されている辺り、フレーデガルが事前に用意して整えてくれた可能性が高いだろう。

 客室なら、わざわざ整えなくてもある程度過ごしやすくなっているはずだ。なのに、イツカが馴染み深いものまで用意して、ここまで丁寧に部屋全体を整えてくれるなんて。


「……優しい人だなぁ、本当に……」


 ぽつり、と。思ったことが唇からこぼれ落ちる。

 すると、静かにイツカの様子を見ていたベデリアが誇らしげな顔をして唇を開いた。


「そうでしょう」


 ベデリアの声に反応し、イツカは視線を彼女のほうへ向けた。

 イツカを真っ直ぐ見つめるベデリアの表情は誇らしげで、けれど向けているヘーゼル色の目の中では優しげな光が星屑のようにきらきらと瞬いている。


「旦那様は本当にお優しい方なんです。私たち使用人にもいつも気を配ってくれますし、領民の方々がより良い生活を送れるように日々考えてくださいます。……見た目の印象から、冷たい方だと勘違いされてしまうことも多いのですが……」


 イツカの頭の中に、はじめてフレーデガルと出会った瞬間の記憶がよみがえる。

 こちらがおかしな声のかけ方をしてしまったのもあり、イツカははじめて出会ったとき、フレーデガルに対して恐怖を感じることはなかった。

 しかし、彼の目つきから冷たそうな印象を受けたのは確かだ。

 ベデリアの目線がゆるりと動き、イツカから室内へと向けられる。


「この部屋もクラマーズ様が少しでも心地よく過ごせるように――と考えてらっしゃいました。遠く離れた場所からいらっしゃるあなたが、少しでも寂しさを感じずに安心して過ごせるように、と」


 ベデリアの声に耳を傾けながら、イツカも改めて室内へ視線を向ける。

 女性らしさを意識してまとめられた、可愛らしさと上品さのある部屋。その中に、ちらほらとイツカにとって馴染み深いものが散りばめられている。

 ネッセルローデ領から遠く離れているクラマーズ領からやってくるイツカが、少しでも安心して過ごせるように――ああ、だからわざわざ花や香など、イツカが触れ慣れているものが置かれているのか。

 納得したような思いがイツカの胸の中にすとんと落ちてくる。

 用意された部屋の中に隠されていた思いに触れて、胸がじんわりとわずかに熱を持った。


「誤解されてしまうことも多いお方ですが、本当に暖かで優しいお心をお持ちなのです。……ですから」


 ふ、とベデリアの視線がイツカへと戻った。

 先ほどまでとは異なる真剣な瞳を前に、イツカも反射的に背筋を伸ばす。

 ここまでの会話の中でも、ベデリアがフレーデガルに対して深い敬愛の念を抱いているのがよくわかった。


 一体何を言われるのか。やはり、あまりにも唐突に現れた婚約者候補に対し、不審に思っているのだろうか。

 胸の中で生まれた熱が消え、かわりにきんと冷えるかのような緊張感と不安が支配する。

 身構えるイツカの視線の先で、ベデリアがゆっくりと口を開いた。

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