1-2 噛みつき姫と出会いの夜

 古い魔法や呪術に詳しいクラマーズ伯爵家の第二子。

 それが、イツカ・クラマーズだ。

 遠く離れた東国の出である母から受け継いだ黒髪に、父と同じ青い瞳。兄であるコウカ・クラマーズとは対照的な色合いを持って生まれてきたイツカは、ここフェストネア王国では少々目を引く存在だ。


 さらに、イツカには一部の限られた人間以外――あるいは、ある条件を満たさないと認識できないような特殊な存在を見て、触れて、言葉を交わすことができた。

 他と異なる存在はどうしても他者からの視線を集め、不審な目を向けられてしまう。

 故に、兄であるコウカは妹が奇妙なものを見る視線や変な目を向けられないようにするため、夜会中は何を見ても大人しくしているようにと言い聞かせていた。


 ……言い聞かせられていたというのに、現実はこれである。


「どうしましょう……領地に戻ったら絶対お怒りですよね、兄様……」


 走り続けた末に逃げ込んだ客室の中で、イツカは深くため息をついた。

 ゲストのために用意され、使わせてもらっている客室の中は部屋の隅々まで掃除が行き届き、片付けられている。

 過ごし慣れた我が家とは異なる雰囲気に満ちた室内は、到着したばかりの頃は心躍るものだったが、今は憂鬱に感じる要素の一つだ。


 ふらふらとした足取りでベッドに近づき、イツカは夜会のために整えた髪や、母の出身国の伝統衣装である着物をイメージしたデザインのドレスが乱れるのにも関わらず勢いよく飛び込んだ。

 ベッドのスプリングがわずかに軋んだ音をたて、イツカの身体を受け止める。

 寝返りをうって仰向けになれば、頭上へふわりと音もなく何かが降り立ち、イツカの顔を覗き込んできた。


『夜会での出来事が兄君の耳に届いてなかったら怒られないだろうがなァ。望みは薄いだろうよ』


 それは、狼犬のような姿をしたものだ。

 一般的な大型犬よりも一回り大きな身体を持っているが、力強い印象を与えるはずの身体や四肢は不自然にやせ細っている。

 煤けた茶色の毛並みは乱れているうえ、ところどころが汚れていた。みすぼらしい印象を与える見た目をしているが、周囲を見つめる目は視線が合った者に強い恐怖を与えそうなほどにギラついている。


 これだけでも十分目を引く姿をしているが――それ以上に、狼犬の首を一周するかのように引かれた赤い線と取れそうになっているものを無理やり縫いつけたかのような大きな縫い目が存在を強く主張していた。

 みすぼらしく生気が薄い見た目と、ギラつくほどに生に満ちた瞳。ちぐはぐで不気味な印象を与えるそれは、目にする者全てに強い不気味さと理解のできない恐怖を与えそうだ。

 しかし、イツカは怯むことも怯えることもなく真っ直ぐにその存在を見つめ、深い息を吐き出した。


「……もう、もういざとなったら一緒に怒られてくれません? イリガミ様」

『一緒に説教されろとは、面白いことを言い出すなァ』


 くかか、と楽しげに牙を鳴らし、イリガミ様と呼ばれたその存在は心底楽しげに笑った。

 イリガミ様――イツカからそう呼ばれている彼は、イツカを異端たらしめている存在。

 憑き物と呼ばれる存在である。


 憑き物は遠く離れた東国でみられることがあり、代々憑き物を受け継いでいる家は憑きもの筋と忌み嫌われていた。

 その家に生まれたイツカの母を迎え入れたのがイツカの父であるクラマーズ領主。

 イツカが生まれる前は母へ、そして生まれてきたイツカへとイリガミ様の存在は受け継がれた。

 故に、イツカにとってイリガミ様は、多くの人間から恐れられる憑き物でありながら生まれたそのときから傍にあり続けているものだ。


『人を道連れにするのはよくねェな、よくねェ。俺はあれがいい、あれが美味そうだと言っただけで、つい言葉にしちまったのはお前さんだぜ。おひいさん』

「う……」


 それは――まあ、確かにそうなのだ。

 イリガミ様の声を無視し、コウカの言いつけをきちんと守ることもできたはずなのだ。

 だが、素直に認めて納得するのもなんとなく悔しく、必死に反論のための言葉を考える。

 脳に浮かんだ言葉は上手くまとまらずに溶けていく。結局、反論がイツカの唇から紡がれることはなく、悔しげな唸り声が上がるだけで終わった。

 己の勝利を確信し、イリガミ様がけらけらと笑う。


「……だって、思っちゃったんですもん……わたしも……。あの殿方がまとっていた呪詛や穢れ、あれはイリガミ様のお腹を満たすのにぴったりだろうなって……」


 イツカの脳裏に、夜会で見た青年の姿が思い浮かぶ。

 あのとき、青年には肩や背中を覆い隠すかのようにべったりと黒い靄がへばりついていた。

 他の夜会の参加者にも多かれ少なかれ同じものがへばりついていたが、彼がまとっていたのは周囲の人間と比べ物にならないほどだった。あの青年自身が黒い靄に覆われ、見えなくなってしまいそうなほどに。


 幼い頃からイツカはそうだった。人の負の感情や悪意に満ちた魔法から生み出される呪詛や穢れ――本来なら多くの人の目に見えないはずのそれを、黒い靄として視認できる。

 そして、呪詛や穢れに汚染された人や物、あるいは呪詛や穢れそのものに触れ、イリガミ様にそれらを食べてもらう形で浄化することも可能だった。


 人には見えない何かを見ている。

 彼女に触れられたら何かに噛みつかれたような錯覚を覚えた。

 全身の重さを感じているときに彼女に触れられると、不思議と身体が軽くなった。

 気づいた頃には、そんな噂が令息令嬢たちの間で広まっており――ついたあだ名が『噛みつき姫』だ。


「本当、失敗しちゃったなぁ……」


 過ごし慣れたクラマーズ領では、呪詛や穢れを見るイツカの目も、それらに触れることができるイツカの手も、不浄なものから守るものとして受け入れられていた。

 イリガミ様の存在も多くの領民たちが信じ、敬い、イツカとともにあるものとして見てくれていた。

 だからこそ、本来であれば他者から見えないそれらの力や存在が受け入れられないものであることをすっかり忘れてしまっていた。


 手ひどい失敗をしたという苦い思いと、コウカの言いつけを破ってしまった罪悪感、そして今後予想される他の名家との交流が難しくなるかもしれない絶望感に打ちひしがれながら深いため息をついた。


 イツカはそう思っていた。心の底からそう思っていた。

 だからこそ。


「突然申し訳ありません。イツカ・クラマーズ嬢はいらっしゃいますか」


 イツカが奇行に走った夜会から数日後。

 不審人物としか思えない声のかけ方をされた青年が、クラマーズ領まで己を尋ねてくるとは思っていなかったのだ。

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