第30話 初めて交わした挨拶

 僕には陽葵ひまりちゃんという幼馴染が一人いました。陽葵ひまりちゃんはいつも元気で外で遊ぶのが大好き。反対に僕は部屋の中で静かに本を読んでいるのが好きでした。それでもなんだかんだと一緒に過ごすことが多くて、僕たちは大の仲良しでした。




 ある時、幼稚園から返ってくると、お母さんからこんなことを言われました。


「今度、陽葵ひまりちゃんからチョコレートがもらえると良いね」


「チョコレート?」


 意味がわからず、僕はお母さんに聞きました。


「もうすぐバレンタインじゃない。バレンタインは女の子が好きな男の子にチョコレートをあげるのよ」


 お母さんはとても楽しそうでした。でも、僕にはますます意味がよくわかりませんでした。


「僕が陽葵ひまりちゃんにチョコレートをあげちゃダメなの?」


 なんとなく、陽葵ひまりちゃんはチョコレートをあげる側ではなくて、もらう側のような気がしたからです。


「う~ん、かずくんは陽葵ひまりちゃんにチョコレートをあげたいの?」


 お母さんがそう聞いてきました。僕は大きくうなずきました。


「じゃあ、お母さんとチョコレート作ろうか」


 お母さんはそう言ってくれました。僕はそれがとても嬉しかったのを覚えています。




 バレンタイン当日。僕はお母さんと一緒に作ったチョコレートを陽葵ひまりちゃんに渡しました。すると、陽葵ひまりちゃんは突然泣き始めました。


「どうしたの?」


 なぜ泣いてしまったのかわからなくて、僕はおろおろしながら尋ねました。


「すごく嬉しい。ありがとう」


 陽葵ひまりちゃんはそう言ってくれました。そして、急にごみ箱の方へと走っていきました。慌ててその後を追いかけると、陽葵ひまりちゃんはごみ箱の中から何かを取り出しました。


「さっき間違えて捨てちゃったんだけど、もらってくれる?」


 陽葵ひまりちゃんは申し訳なさそうにそう言いました。それはラッピングされたチョコレートでした。ギンガムチェックの包みにピンクのリボンがかかっているそれは、なんとなく、陽葵ひまりちゃんが選んだものではないような気がしました。そして、もしかすると陽葵ひまりちゃんはわざと捨てたのかもしれないなと思いました。でも、僕は笑顔で答えました。


「もちろん! とっても嬉しい、ありがとう」


 すると、陽葵ひまりちゃんは照れたように笑いました。




 僕たちは小学生になりました。陽葵ひまりちゃんは相変わらずとても活発な子でした。僕は少し弱気なところがあって、同級生から嫌がらせを受けることがありました。そんな時、いつも陽葵ひまりちゃんが飛んできて、僕を守ってくれました。陽葵ひまりちゃんは僕のヒーローでした。


 そんな僕のヒーローの陽葵ひまりちゃんが、ある日学校を休みました。僕はとても心配になって、学校の帰りに陽葵ひまりちゃんのお家に行きました。


「あら、和晴かずはるくん」


 陽葵ひまりちゃんのお母さんが出迎えてくれました。


「こんにちは。陽葵ひまりちゃんはいますか」


 すると、陽葵ひまりちゃんのお母さんはちょっと困った顔をしました。


「いるにはいるんだけど、お部屋から出てこないの」


 それを聞いて、僕はますます心配になりました。


「病気ですか?」


 そう尋ねると、陽葵ひまりちゃんのお母さんは首を振りました。


「そうじゃなくて、ちょっと元気がないみたいなの。でも、和晴かずはるくんが顔を見せたら元気になるかもしれないわ」


 そう言って、家の中に入れてくれました。


「何かあったら声をかけてね」


 陽葵ひまりちゃんのお母さんはそう言うと、陽葵ひまりちゃんの部屋の前からいなくなりました。


陽葵ひまりちゃん大丈夫?」


 僕は部屋の中に向かって話しかけました。


「かずくん?」


 陽葵ひまりちゃんの声がしました。


「そうだよ、僕だよ。お部屋に入ってもいい?」


 そう聞くと、陽葵ひまりちゃんの部屋の扉が開きました。陽葵ひまりちゃんの顔はとても悲しそうで、僕は自分まで悲しい気持ちになりました。


「中に入って話そう?」


 そう言うと、陽葵ひまりちゃんは黙って頷きました。


「何かあったの?」


 僕がそう尋ねると、陽葵ひまりちゃんは悲しそうに答えてくれました。


「お母さんがその服を着ていけって言って、嫌だって言ったらケンカになっちゃって」


 陽葵ひまりちゃんの指さした場所には、ぐちゃぐちゃになった服が置かれていました。


「見てもいい?」


 そう尋ねると、陽葵ひまりちゃんは黙って頷きました。僕がそっとその服を広げると、それはフリルの付いたかわいいワンピースでした。僕には陽葵ひまりちゃんがこれを着ているところが全く想像できませんでした。


「お母さんがこれを着なさいって言ったの?」


「うん。女の子なんだから、可愛くしなくちゃって言われて。でも、そんなの絶対に着たくない」


 陽葵ひまりちゃんは本当に悲しそうでした。


「じゃあ、代わりに僕が着てもいい?」


 僕はそう尋ねました。すると、陽葵ひまりちゃんはとても驚いたようでした。


「着たいの?」


 そう聞かれたので、僕は黙って頷きました。


「じゃあ、私がかずくんの服を着てもいい?」


 陽葵ひまりちゃんがそう聞いてきました。


「もちろん!」


 僕は元気にそう答えました。


 その後、2人で背中合わせで着替えてから、鏡の前に立ってみました。


「かずくんかわいいね」


 陽葵ひまりちゃんはそう言ってくれました。


陽葵ひまりちゃんもすごくかっこいい」


 僕もお返しにそう言って、2人して照れたように笑いました。その日、僕たちは暗くなるまで服を交換したまま遊びました。




 それから僕たちは2人きりで遊ぶとき、こっそり服の取り換えっこをするようになりました。僕は陽葵ひまりちゃんの服を着ているときだけは、弱い自分を認められたような気持ちになりました。陽葵ひまりちゃんも、僕の服を着ているときは、いつも以上に生き生きとしているような気がしました。




「あのね、私、本当の名前を考えたの」


 ある日、いつものように服を交換すると、陽葵ひまりちゃんがそう言いました。


「本当の名前?」


 僕が不思議に思ってそう聞くと、


陽葵ひまりはお父さんとお母さんが勝手につけた名前でしょ」


 陽葵ひまりちゃんはそう言うと、咳ばらいをしました。僕が黙って頷くと、陽葵ひまりちゃんは少し声を低くして言いました。


「俺は本当はコウっていうんだ」


 それがとっても似合っていて、僕はとても嬉しくなりました。


「そうだね! そうに違いないよ! じゃあ、私はきっとハルだと思う」


 それは自然と私の口から出た言葉でした。それが妙に胸になじんで、それこそ、『これが本当の名前だ』と思えました。


「そうだね。改めてよろしく、ハル」


 コウはそう言って、手を出しました。


「よろしくね、コウ」


 私もそう言って、私たちは握手をしました。本当の名前で、本当の姿で、初めて交わした挨拶でした。

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