6・罠師、再び捕らわる

 狩谷は、厚木インターチェンジまでの数キロを時速六十キロの低速で走らせた。ワゴン車の性能が劣るためでもあったが、尾行の有無を確かめるのが本来の目的だった。

 後続の車は次々と彼らを追い抜いていく。厚木の料金所で待ち構えている〝敵〟もいない。一般道路に降りてからも追われている気配はなかった。

 その間ずっと、狩谷は内心の怒りをもてあまし、ぶつぶつと悪態をつき通しだった。

「くそ……揃いも揃って……鞄に手が届いたっていうのに……こいつらみたいな呑んだくれを信じたのがいけなかったんだ……」

 助手席では竜子が寝入っている。

 竜子は車に戻るなりバーボンの封を切り、一気に半分を空けたのだ。久々の酒が利いたのか、暴れる間もなく眠りに落ちた竜子を、宗八は黙って見ているだけだった。

 狩谷も、何を言っても無駄だとあきらめていた。どのみち残る仕事は車の運転だけで、それは狩谷の役目だ。文書を奪うことに失敗した以上、引き下がる他はない。

 宗八は妙に優しい手つきで娘からバーボンを取り上げ、後ろのシートで足をのばした。今は黙ってちびちびとボトルを傾けている。

 失敗を恥じているような様子は微塵も感じられない。そのふてぶてしい態度が余計に狩谷の怒りをかき立てていた。

 一時間ほど予定のルートを走った時、狩谷は不意に車を路肩に寄せてエンジンを切った。

 宗八がぼそりと言った。

「どうした? 止めっちまっちゃぁ、いつまでたっても長屋に帰ぇれねぇぜ」

 狩谷はついに爆発した。

 振り返って宗八をにらみつけると、怒鳴った。

「言われなくったって分かってる! 貴様らには全く呆れたよ! 呆れ返ってものも言えない!」

「でっけぇ声で喋ってるじゃぁねぇか」

「茶化すな! おまえたち、この不始末をどうする気なんだ 何もかもぶち壊したんだぞ! 何もかもだ! もう身を守る方法がない。あの文書は遅かれ早かれ若林の手に渡る。そうなれば、全ては闇に葬られる。俺たちが文書を奪おうとしたことだって気づかれた。今度はこっちが狙われる! え? 分かってるのか⁉」

 宗八は動じなかった。穏やかな笑みを浮かべ、諭すように応える。

「分かってねぇなぁ、てめえの方だ。……まぁ、素人衆にゃぁ無理からぬことだろうがよぉ……」

 狩谷は宗八の落ち着きように戸惑った。

「なんだと……? 何が言いたい?」

「成功した、ってぇことよ。俺たちゃぁな、きっちり罠を仕掛けてきたのさ」

 宗八の高飛車な口調が狩谷の怒りに油を注いだ。我を失った狩谷はシートから身を乗り出して宗八のコートの衿を掴んだ。

「検察を馬鹿にする気か⁉」

 宗八は冷たい目で狩谷の手を睨んだ。

「小汚ぇ手を放しやがれ。てめえ、俺に嫌われてぇのか? お上根性丸出しじゃぁねぇか」

「こっちはとっくに嫌ってるさ! 呑んだくれの落ちこぼれが!」

 宗八は表情を崩さないまま、鼻の先でふんと笑った。

「どうも、考げぇ違いをしてたようだね……。てめえは話が分かると思っていたんだがよ……。木っ端役人が、一人前の口を叩くにゃぁ百年早ぇ。思い上がるんじゃねぇやい」

「そっちこそ偉そうな口を叩くな! 何が罠師だ⁉ 何が詐欺師とは違うだ⁉ 計画通りにも動けないで、思い上がるんじゃない!」

 宗八は狩谷の手を穏やかに、しかし力強く払いのけた。

「聞こえなかったのか? 計画通りだったんだよ、あれで」

「くだらん言い訳はよせ!」

 宗八の目には、狩谷の怒りをはね返す迫力があった。

「言い訳かそうじゃねぇかは、話を聞いてから決めやがれ。日の丸振りかざしてりゃぁ事がすむと思ってるようなぼんくらにゃぁ、とっくりと説明してやらなけりゃぁ分からねぇだろうからな。その前に、てめえのちっこい脳ミソを冷やしやがれ」

 狩谷は口を突きそうになった悪態をぐっと呑み込んだ。宗八の鋭く真剣な目つきにようやく気づいたのだ。

 これまでの宗八とは違う。腹にナイフを突き立てられたような冷たさを感じた。

「……いいだろう……言いたいことがあるなら、聞いてやる」

「そのでっけぇ態度が気に入らねぇって言ってるんでぇ。聞いてやる、だと⁉ 思い上がるんじゃぁねぇ。助けてくれって泣きついてきたなぁ、そっちだろうが。てめえの尻拭いもできねぇ半端者が、笑わせやがる」

 狩谷は再び怒りを抑えた。宗八が言っていることは正しい。

「頼む……教えてくれ」

 宗八は微笑んだ。

「冷えたか?」

「悪かった……」

 宗八が、ふっと微笑む。

「気にするねぇ、幼なじみじゃぁねぇか」

「で、成功したって言うのは、どういうことだ?」

「いいか、始めっからよぉっく考げぇてみろ。てめえだって最初は『文書は若林が持ってるかもしれねぇ』って言ってたんだぜ。奴が文書をかっさらったとしたって、こっちの立場は最初と変わっちゃぁいねぇ。今まで奴が文書を持ってなかったことがはっきりした分だけ、様子が見えてきたってぇもんだ」

「それはそうだが……」

「若林って野郎、みくびるんじゃぁねぇぞ。あの目は只者じゃぁねぇ。とびっきりの切れ者だ。どうせそんなとこだろうたぁ思ってな、今回はわざとしくじって見せてやったんだよ。こいつが本当の罠のとっかかりになるのさ。あそこでドジ踏んだなぁ、奴の気を緩ませる芝居だったんでぇ。竜子は俺が書いた筋書きどおりに動いたまでのこった」

「何だって⁉」

「いいか、俺たち罠師ってぇなぁ偶然ってぇもんを信じねぇ。神頼みで命をつなげるほどヤワな世界には住んじゃぁいねぇんだ。ちょっと考えてみりゃぁ分かるじゃぁねぇか。盗聴器はすんなりと仕掛けられるわ、たちまち取り引きの話が飛び込んでくるわ……どっから見たって話がうますぎらぁ。わざわざ『文書を奪ってくれ』って言ってきたみてぇなもんだろうが。イタチの最後っ屁より臭うんだよ」

「若林の策略だというのか?」

 宗八は小さくうなずいた。

「若林は、議員を脅してまで文書を欲しがった。まさか、殺す気はなかっただろうがね。大方、手下がやりすぎちまったんだろう。だからその罪を、てめえにおっつけなけりゃぁならなかった。特捜相手に戦争だぜ。根っからの黒幕ってぇ策士が、そんな綱渡りを望むか? 他に方法がなかったから、したまでのこった。奴だって追い詰められてやがる。当然、ぴりぴり神経を尖らせていらぁ」

「それはそうだろうが……」

「そんな時に、犯人に仕立て上げたはずの検察官――つまり、てめえが姿をくらましやがった。次の日にゃぁ、わざとらしい事故で得体の知れねぇ娘っ子が転がり込んでくる。奴じゃぁなくったって妙だと思うんじゃぁねぇか? 奴も素人じゃぁねぇ。偶然なんぞ信じちゃぁいねぇな。竜子の仕掛けた盗聴器は見つけられたと考げぇた方がいい。竜子に薬を盛ったのも、何をしに来たのかを吐かせるためだったかもしれねぇ」

 狩谷はぽっかりと口を開いた。

「じゃあ……」

「さっきの取り引きってぇのが、そもそも若林の企みよ。俺たち罠師をおびき出すために、わざと盗聴させたんだ」

「確実なのか?」

「十中八九。奴の立場で考げぇてみるこった。自分のまわりで探偵まがいの連中がちょろちょろし始めてる、下手をすりゃぁ検察とつるんでやがる――とくりゃぁ、さっそく正体を探り出さなけりゃぁなるめぇ? 議員殺しの〝犯人〟が逃げ出したことを考げぇあわせりゃぁ、狙いは〝立木文書〟に決まってらぁ。しかもこっちは、ご丁寧に盗聴器を残していった。尻尾を掴めぇるなぁ造作もねぇ。ってことで、手下に脅迫電話をかけさせて、誘い出したつもりでいたんだろうよ。インターチェンジから俺たちの後を尾行すりゃぁ素性は洗える。それからゆっくり叩きつぶす魂胆だったに違げぇねぇさ」

 狩谷は宗八の推理に引き込まれていた。

「なぜすぐ襲われなかった?」

「俺たちにたんまり仲間がいたらどうする? 正体を見極めるにゃぁ、しばらく泳がせた方が利口じゃぁねぇか?」

「そこまで分かってて、なぜおまえはのこのこ出てきた?」

「ここですっこんでみろ、奴とのつながりはぷっつり切れちまう。そうでなくったって、奴のこたぁ何も分かっちゃいねぇ。俺は、奴を怒らせたかったんでぇ。次の一手――つまり、こっちから仕掛けるにゃぁ、脳天で茶が沸くぐれぇ奴を怒らせなけりゃぁならねぇ。そもそも、俺ははなっから文書なんざぁ当てにしちゃぁいねぇ。奴がまだ手に入れていねぇことが確かなら先に押さえられるかもしれねえが、それだって何とも言い切れねぇんだからよ」

 狩谷は首をひねった。

「で、これからどんな罠を仕掛ける気なんだ?」

「そいつぁ、後のお楽しみってぇもんよ」

 狩谷も言われっぱなしでは納得しなかった。

「しかしおまえの読み通りなら、なぜ、追っ手がかからない? こっちの素性を暴くために罠をかけてきたんじゃないのか?」

 宗八が初めて自信なげにうつむいた。

「うむ……それよ、問題は。俺もずっと考げぇちゃぁいたんだが、どうしても解せねぇ。こっちがカバンをかっさらってずらかったんなら、発信機を仕掛けておきゃぁ住みかは知れる。仲間も芋づる式にたどれる、って考ぇてもおかしくはねぇ。だが、カバンはトラックの上だしな……」

「若林の手下はみんなカバンを追っかけて行ったみたいだったが……?」

「ありゃぁ、どう考げぇても理屈にやぁ合わねぇな……。カバンの中身が空ってこたぁねぇだろう。正体を根こそぎ洗い出すまでは、俺たちを騙してなくちゃならねぇんだからな。薄っぺらな偽文書ぐれぇはでっち上げてたはずだ。だがよ、俺たちをおびき出す餌でしかねぇ偽物に、なんであんなに血眼になる? カバンがトラックに乗っかったのはたまたまだがよ、追っかけるほどのもんか? あれだけの人手がありながら一人もこっちに食いついてこねぇってぇのは、やっぱり妙なんだよなぁ……」

「偽物の回収が、俺たちの正体を探るより重要だったわけか?」

「そういうことになっちまうんだよな。な、おかしいだろう?」

 狩谷はあわてて身を乗り出した。

「本物の取引だったんじゃないのか⁉」

 宗八は狩谷を哀れむように見つめる。

「てめえ、何を見てた? 奴ぁ、俺たちが邪魔に入ることを知ってやがった。態度を見りゃあ、それぐれぇ分かる。罠師の正体だって知ってるかもしれねぇ。竜子が薬で喋らされたのかもしれねぇんだからよ。取引がインチキだったこたぁ間違いねぇ」

「しかし……」

「本物がどこにあるか、奴にも分かっちゃいねぇな。だから俺たちにちょっかいを出すんじゃぁねぇのか?」

「こっちに文書がある……とでも疑っているのか?」

「逃亡中の特捜検事が文書をかっさらった――か? どう思っているかは奴に直接聞いてみるしかねぇがよ。だがな、誰かが動きゃぁ何かが起こるもんだ」

「そうは言っても、全部が仮説だろう? さっきの取り引きが罠だったという確実な証拠が一つでもあるのか?」

「ねぇよ、そんなもん」

「だろう? せめて若林が盗聴器を発見してたっていうのが確かなら、信じられるが……」

「電話でもして聞いてみるかい? 盗聴器、見つけましたか?……ってな。俺だって、絶対に間違げぇがねぇとは言っちゃぁいねぇ。だがな、それがいちばんあたりめぇの考げぇ方なんだよ、俺たちの世界じゃぁ。ま、もうしばらくすりゃぁ白黒もはっきりするってぇもんよ。ともかくこれで、奴を罠に引きずり込む算段ができらぁ。成功したってぇのは、そういうことよ」

「あの若林を、罠に……か?」

「罠をかけるのが罠師だからな。……けっ、素人相手はくたびれていけねぇやい。しゃべりすぎてせっかくの酔いが醒めちまったぜ。おい、さっさと車を出してくんな。帰ぇって呑み直しでぇ」

 そう言うなり、宗八は再びシートに横になった。一分もしないうちにいびきが聞こえた。


         *


 車がアパートに近づくと、宗八はむっくりと起き上がった。きょろきょろと辺りを見渡すと一人でうなずき、酔いを感じさせない口調で狩谷に命じる。

「おう、ちょっくら車を止めてくんねぇか」

 狩谷は軽くブレーキをかけながら答えた。

「何だ?」

 数時間前までの怒りはすでに治まっていた。

「決まってらぁ。部屋の様子を見てくるんじゃぁねぇか」

「様子?」

「てめえって奴は、よくよく分かんねぇ男だねぇ。奴らは竜子からこの長屋を聞き出してるのかもしれねぇんだぞ。とっくにヤサの調べがついていたんなら、連中が追ってこなかったのも当然よ。奴の手がすっかり読めているわけじゃぁねぇんだ、用心に越したこたぁねぇ。よう、みの坊ちょっくら行ってきてくんな」

「俺が?」

「こちとらぁ呑んだくれの老いぼれだぜ。おっかねぇ兄さんたちが暗がりで待ち構めぇていたら、鼻息ひとつでひねりつぶされちまわぁ。ま、しっかり働いてこいよ」

 宗八の指示は筋が通っていた。狩谷は渋々、ヒーターで温まった車を出た。


         *


 十分後に戻った狩谷は、顔色を失っていた。両手で大きな毛布の包みを抱えている。

 その姿を訝しげに見た宗八が、サイドドアを開いた狩谷につぶやく。

「案の定……かい?」

 後部シートは倒されていて、床では竜子が小さないびきをかいている。狩谷は毛布を竜子の隣に置いてから、運転席に移った。

「おまえの部屋の中はメチャクチャだったよ。畳ははがされていたし、タンスなんかばらばらだ。仕事場も、竜子さんの部屋も同じさ。マイコンや作りかけの機械も完全に壊されていた」

 宗八がうなずく。

「盗人ぅの仕業じゃぁねぇな。どうせ大ぇした値のつく石は置いちゃぁいねぇしよ。人の気配はなかったかい?」

「なかった。犯人は若林の手下だろう」

「その毛布は何でぇ?」

 狩谷はわずかな間を置いてから答えた。

「死体だ……」

 宗八の目が真剣になった。

「何だと⁉」

 宗八はシートの間をまたいで後部へ移った。毛布の端をそっと持ち上げる。

 柴犬だった。口には無駄吠えを抑えるための革ベルトがきつく巻かれている。

 宗八は犬の足にそっと触れた。

「骨が折れてやがる……」

 狩谷は言った。

「四本の足、全部だ。最後に首をねじって止めを刺したらしい。それがおまえの部屋に転がされて――」

 宗八は突然叫んだ。

「てめえ、大家の部屋を見てきたか⁉」

 狩谷は首を横に振った。

「いいや、そこまでは――」

「こいつ、ゴンスケだろうが!」

 宗八はいきなり車から飛び出し、路地を駆けていく。

 宗八が戻ったのは五分後だった。

 助手席に駆け込むと狩谷に命じる。

「さっさと車を出しやがれぃ!」

 狩谷はエンジンをスタートさせた。

「大家は⁉」

 宗八はじっと前方を見つめながらつぶやく。

「奴ら、爺さんばあさんの骨まで折っていきやがった……」

「何だって⁉」

 宗八は抑揚を欠いた小声で続けた。

「襲ってきたなぁ、地上げにうろついていた三下ヤクザだったそうでぇ。口を縛って吠えらんなくした犬を、大家の目の前でいたぶってからぶっ殺しやがった。それから、縛ったばあさんの足を折って、次には爺さんだ……。一時間ぐれぇ前ぇのことだってよ。医者を呼ぼうにも二人とも動けねえ。電話線も切りやがった……」

「命は⁉」

「単純骨折だから死ぬこたぁねぇだろう。だが襲ってきた奴らは、窓を開けっ放しにしていきやがった。あのまんま放っておいたら、朝までには凍え死んじまったかもしれねぇ。二人ともてめえの怪我より、目の前でゴンスケを殺されたことの方がこたえてるようだがな……」

「なぜ、大家まで……?」

「家捜しを邪魔されたくなかったんだろうよ。二人とも、ろくに耳が聞こえねぇのにな……。それとも、大家も仲間だと思ったか……。どっちにしても、俺たちへの警告にゃぁ違ぇねぇ」

 と、前方から救急車のサイレンが聞こえた。

「おまえが呼んだのか?」

 宗八がうなずく。

「竜子の部屋の電話が使えた。病院までつき添ってやれりゃぁいいんだがよ……。大家といやぁ親も同然だってぇのにな……。とんだ災難に巻きこんじまったぜ……」

 狩谷は車を都心部へ向けた。

「拷問されたんだろう? 大家さんは、罠師のこと知っているのか?」

「大家になんざぁ教えるわけがねぇ。若林だって、簡単にこっちの手の内が探れるたぁ思っちゃいねぇだろう。おそらく、拷問そのものが目的だったんだ」

「何だと?」

「それが〝警告〟ってぇこった。このまんまちょっかい出してりゃぁ、今度はてめえがこうなるぞ……ってな。奴ら、はなっからねぐらを知っていやがるんだ。このうえ大家を痛めつけたって、大した得はあるめぇ? まして、ゴンスケまで……」

「やっぱり竜子さんがしゃべらされていたのか……」

「間違げぇねぇな。だが、安心しな。若林に見られて困るような物ぁ一切置いちゃぁいねぇ。だからヤケになって、大家にまで手を出したのかもしれねぇし……」

「こっちの動きがすっかり掴まれているみたいだな……」

「若林をぶっ潰すまで、長屋には帰れねぇ……ってこった」

 狩谷は不意に気づいた。

「モサドは? 部屋を襲ったのは彼らだっていう可能性だってあるぞ」

「おっと、それを忘れてたぜ……。もしそうなら、若林どころの騒ぎじゃぁすまねぇ。だが、モサドの方はサツが話をつけてあるんだろう? それに、連中が大家まで痛めつけるか? 待ち伏せて俺をとっ捕まえなけりゃぁ〝星〟のありかは吐かせられねぇんだからな」

「それは言える」

「やっぱり下手人は若林だな。偽取り引きの電話で俺たちをおびき出して、手下を使って存分にヤサを調べさせたんだ。みの坊が罠師に文書を渡した――と疑っていたのかもしれねぇしな。もしもてめえが坂本から文書を手に入れてたとすりゃぁ、自分を人殺しにでっちあげた若林を叩きつぶすために独断で罠師と組むことだって考げぇられる。人間、堪忍袋の緒が切れると何をしでかすか分かんねぇもんだからな。若林がそう勘ぐったとしたって、おかしくぁねぇやな」

 狩谷は言った。

「文書を持ってれば、最初からおまえなんかを頼らないよ」

 宗八の口調にようやく明るさが戻った。

「〝なんか〟はねぇんじゃぁねぇのかい、〝なんか〟は」

「そんなつもりじゃあ……」

 宗八は真顔に戻って答えた。

「いいってことよ。いずれ検察を土下座させてやる。若林も許さねぇ。所詮は底の浅せぇ策士だぜ……素人衆にまで手を出しやがって……。この俺を本気で怒らせやがった。これでいっさい手加減なしだ。やるかやられるか……はっきり決着つけてやろうじゃぁねぇか」

 狩谷はうなずいたものの、まだ疑問は残っていた。

「しかしこっちに文書があると疑っているなら、〝立木文書〟の偽取り引きでおびき出したのは理屈に合わないぞ?」

「そうでもねぇさ。もう一つ別の文書が出てきてみろ、どっちかが偽物だってことになっちまわぁ。どっちが本物か確かめるにやぁ、若林に届く文書をかっぱらうしか方法はねぇ。俺たちは、どうしたって奴の策におびき出されるしかなかったのさ」

「それもそうか。……で、どうするんだ、これから。反撃する方法はあるのか?」

「昨日の今日だ、まだこれっていう考えはねぇがな……。ま、このまんま突っ走るしかねぇだろうよ。ぼやぼやしてりゃぁモサドに喰らいつかれちまう。明日……じゃねぇ、もう日付が変わっちまったんだったな。今夜、若林んところに攻め込むぜ」

「今夜だと⁉」

「腹ぁ括っておきやがれよ。稽古なしの一発勝負だ」

「しかし、どうやって⁉ 勝ち目はあるのか⁉」

「奴の出方次第だがね。まあ、こっちをチンピラだと思ってくれてりゃぁ望みはある。高速の芝居はそのための布石だったんだからよ」

「しかし、もう文書は当てにできない。どうやって戦う?」

 宗八は凄味のある笑いを浮かべた。

「俺の命を狙わせる」

「何だと⁉」

「奴はこっちのヤサを調べて、文書なんぞ持っていねぇと合点がいったはずでぇ。となりゃぁ、もう遠慮はいらねぇ。こっちが目障りになりゃぁ、いつだって片づけられる。だから、めいっぱい邪魔者になってやるのさ」

「なぜそんな危険を……?」

「俺を殺しにきたところを警察にとっ捕まえさせるんでぇ。そうすりゃぁ、奴の家や会社に捜査に入れるだろうが。コンピューターって奴ん中に仕舞い込んだ中田の情報だって、暴けるんじゃぁねぇのかい?」

「奴は、汚れ仕事には手下を使う。尻尾は出さない」

「こっちだって罠師だぜ。奴に尻尾がついてりゃぁ必ずふん捕めぇてやらぁ。それより、てめえこそ中田を逃がすんじゃぁねぇぞ」

 狩谷は宗八の計画の大胆さにおびえた。

「おまえ、そんな事をいつから考えていたんだ?」

「てめえが転がり込んで来た晩からさ。そうでもしなけりゃぁ、とっても二、三日じゃぁ片がつけられねぇ。時間が切れりゃぁモサドに狙われる……となりゃぁ、賭けるしかねぇ。大家とゴンスケの仇も打たなけりゃぁならねぇ。迷ってる暇なんざぁねぇんだよ。一世一代の罠師の荒業、しっかり見届けてくんな」

「ああ、もちろん……。だが、どうやって若林自身を引っぱり出すんだ?」

 宗八は自信に満ちた表情で笑った。

「任しておきなって。一杯やってりゃあ思いつくだろうって」


         *


 三人は車の中で夜明けを迎えた。公園の向こうの東京湾に朝日が昇っていく。

 宗八はまだ暗いうちに、一人で犬の死体を空き地に埋めた。ゴンスケを自分の犬のように可愛がっていた竜子には、その死を知らせたくなかったのだ。

 狩谷は運転席で窮屈そうに寝入っていた。

 車内に竜子の怒鳴り声が響く。

「なんてぇドジを踏みやがったんだよぅ! あの部屋にゃぁな、他人様には見せられねぇもんだって置いてあったんだ! キッドの芝居の券だってあったんだぞ。久しぶりに恭平が舞台に上がるって言うのによぅ……。それを台ぇ無しにしやがったのか! みんなてめえのせいだぞ! てめえがあんな石に色目を使いやがったから……」

 竜子は不意に涙を見せた。

 宗八が穏やかに言った。

「すまなかったな。だがよ、どうにもならねぇじゃぁねぇか。崖っぷちまで追い詰められちまったんだからよ。……それにな、こいつぁ言いたかぁねぇが、若林にヤサをばらしたなぁてめえかもしれねぇんだぜ。まぁ、あきらめるこったな」

 狩谷も目を覚ました。

 一時間も眠っていない。度重なるショックと運転の疲労で、目はどんよりと曇っていた。

 竜子は涙を拭って、振り返った狩谷に尋ねた。

「ねぇあんた、あたいの部屋も見てきたんだろう? どんなだった?」

 狩谷は竜子が動転していることを知り、宗八の顔色をうかがった。

 宗八は力なくうなずく。

「本当のことを教えてやんな」

 狩谷はうつむいて言った。

「何もかも壊されていた……」

「こんちくしょうめ……。若林の奴、ただじゃぁおかねぇぞ……」

 涙が溢れ出した。

 狩谷は、竜子も女であったことをようやく悟った。

 宗八が優しく言った。

「そうさ、礼はしなけりゃぁならねぇ。ぐずぐす泣いてる暇なんざぁねぇんだ。力を貸してくんな」

 しかし竜子は、ぷいと顔をそむけただけだった。

 宗八は肩をすくめ、狩谷に言った。

「車、出してくんな」

「どこへ行く?」

「棒を倒して向いた方角」


         *


 三人は時折車を移動させながら、九時になるのを待った。助手席には竜子が座り、宗八が後ろで身体をのばしている。

 時間になると、古びた懐中時計に目をやった宗八がむっくりと起き上がった。

「ちょっくら電話をかけてくらぁ」

 二十分後に戻った宗八は、前にも増して力を失っていた。車に入るなりシートに寝そべり、ぶつぶつと独り言をつぶやく。

 狩谷はそんな宗八を振り返って見下ろした。

 数分たってから狩谷の視線に気づいた宗八は、ようやく説明し始めた。

「電話な……二つかけてきた。ひとつは、俺の情報源だ。新聞記者に何人か知り合いがいるんでな……若林のことを洗わせてたんだがよ……」

「何か分かったのか?」

「まるっきり手がかりなしだ。家にも会社にも、変わった様子は一切ねぇ。過去についても何にも分からねぇとよ。まぁ、はなっからそんなところだたぁ思っちゃぁいたがね……」

 宗八はそれきり黙ってしまった。

「で、もう一本は?」

「ん? ああ、電話かい? ……しかたねぇ、教えてやるか。〝星〟を預けた弁護士のところさ。虫の報せっていうのか……嫌ぁな予感がしやがってね。当たっちまったよ。〝星〟を預けてたのが、若林にばれちまった……」

 相変わらずふてくされていた竜子が、振り返って叫んだ。

「どういうこった⁉ 信用できるって言ってたじゃぁねぇのかよ⁉」

「かっかするんじゃぁねぇやい。何度も言うようだが、若林にしゃべったなぁてめえしか考げぇられねぇんだぜ!」

「何だと⁉ てめえの不始末をあたいのせいにする気か⁉」

「落ち着きやがれ! 弁護士の話ってぇなぁこうだ。昨日の夕方、男が尋ねてきたんだとよ。品のいい金持ち風の野郎だ。一千万の現金を出して言いやがった。『大熊宗八から預かった荷を開けろ』とな」

 狩谷が叫んだ。

「開けたのか⁉」

「開けるだけで一千万なら、誰だって言うことを聞くだろうが。だが、出てきたなぁ〝星〟だ。弁護士は仰天しちまったが、男はふんと笑ったとよ。〝星〟を散々なで回してから、何も取らずに帰ぇったそうだ」

 竜子が言った。

「そいつ、若林なんだね」

「サングラスに付け髭とくりゃぁ、他にいるめぇ? 相手がモサドなら〝星〟を残していくわけがねぇしな」

「急所を握られちまったのかい……」

 しかし、そう言った竜子の言葉には勢いがなかった。

 宗八が言うとおり、若林と〝星〟との接点は竜子以外にない。〝星〟のありかを若林が探り出したなら、情報を与えたのは竜子しか考えられない。

 宗八は続けた。

「若林は、こう言い置いていったとよ。『今は宝石があることを確認できれば充分だ。今後絶対に動かさず、もちろん、誰にも言うな。そして必要が生じた時に、全てを当局に証言してもらう。その際には、あと五千万出す。ただし裏切ったら命はない』……ってな。策士にしちゃぁ言うことに芸がねぇよな。水戸廣門の決め台詞と同じじゃぁねえか。結局、一億で話がついたとよ」

 狩谷には理解できないようだった。

「その弁護士は、どうして若林が来たことを打ち明けたんだ? 黙っていればいいものを……」

「奴は、罠師の何たるかを知ってらぁ。言ってみりゃぁ、身内よ。俺に睨まれるのがどんなに恐いかも承知してる。こっちは奴のキンタマをがっちりふん捕まえてるんだからよ」

「それにしたって、若林だって一筋縄ではいかない」

「そりゃぁそうだ。その弁護士も若林の噂は聞いてたみてぇだね。震え上がってやがったぜ。少なくとも〝星〟に関しちゃぁ何もしてねぇし、何も知らなかったんだ。そんなもんでてめえの首を絞めるわけにゃぁいかねぇ。それで素直に金を受け取って、言いなりになったってぇわけさ。ま、奴のこった、石がありふれたもんなら自分でかっさらってトンズラしちまったろうが……〝星〟が相手じゃぁそうもいかねぇ。若林に命じられりゃぁ、証言だってするだろうね」

「事実をしゃべるっていうのか?」

「あたぼうよ。だが若林も恐ろしいが、罠師だって敵にゃぁ回せねぇ。だから、何があったか洗いざらいぶちまけたのさ。罠師なら若林を始末できると計算したんだろうよ」

「出来るのか?」

 宗八は溜め息をもらした。

「今度ばっかりゃぁなぁ……。どうも、相手が悪すぎるようだぜ……」

 竜子は再び顔をそむけ、眠ったふりをした。

 狩谷は心底不安げだった。

「八方塞がりか……」

「まあ、考げぇるだけは考げぇてみた。心細い計画だが、うまくすりゃぁ若林からもモサドからも逃げられらぁ……」

 そして宗八は、今夜若林に仕掛ける罠のあらましを説明した。

 黙って聞き終えた狩谷は表情を厳しくした。

「そんなに都合よくいくのか……?」

 宗八はいらだたしげに答えた。

「やってみるしかねぇだろうが。くっそう、そんなことより腹が減ったぞ。おい、みの坊。何か食い物を買ってこいや」

 竜子がつぶやいた。

「あたいが行ってくるよ」

 宗八は激怒した。

「止めてくれい! いい歳こいたあまっ子が、朝っぱらから酒くせぇ息ぃしやがって! それにその服は何だ、着替げぇもしねぇで! まるっきりチンドン屋じゃぁねぇか! 目ん玉がくらくらしてくらぁ!」

 竜子は〝ハマの番長〟がいたく気に入っていたのだった。

「なんだてめえ、あたいの好みにけちをつけようって言うのかい⁉」

 二人の言い争いに顔をしかめた狩谷は、黙って車を出た。

 そして、すぐに公衆電話を探した。

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