2・罠師、腰を上げる

 重苦しい沈黙を破って、玄関の扉が勢い良く開けられた。ぴしゃっという大きな音をたてて、扉にはめ込まれたガラスがびりびりと震える。すかさず北風が吹き込んだ。

 狩谷ははっと振り返った。

 戸口に深紅のコートをまとった美しい女性が立っている。

 狩谷には一目で宗八の娘だと分かった。

 二〇年前は、近所からもらい受けたお下がりのズボンを泥だらけにして路地を走り回っていた洟垂れ娘だ。狩谷には、どうしても男にしか見えなかったものだ。その娘が、見事なまでに輝く女に変貌している。

 銭湯の終わり湯にでも入ってきたのだろう。彼女は濡れた髪を無造作に束ねていた。上気した顔からかすかに湯気が立ち上り、後光がさしているかのように見えた。

 宗八の妻がしっとりと落ち着いた日本的な美人であったことは、狩谷の記憶にも残っている。娘は母親の血を濃く引いたらしい。頑固一徹の宗八の面影が、そこに活きの良さをつけ加えていた。下町娘の美を体現した女性だった。

 狩谷には息子が一人いるだけだった。これほど美しい娘を持てた宗八が、不意に羨ましく思えた。

 狩谷がぼんやり見とれていると、彼女は言った。

「てめえ! 何度言ったら分かるんでぇ! 他人様の手鏡を勝手に鼻毛抜きに使うんじゃぁねぇやい! 黙って部屋に入るなとも言ったはずだぜぃ! その歳でもうボケやがったのか、このうすらとんかちめ!」

 宗八が怒鳴り返した。

「馬鹿野郎! いい歳こいたあまっ子が、なんてぇ言葉を使いやがるんでぇ! てめえの目ん玉は節穴かぁ! 客が来てるんでぇ、客がぁ! ちったぁ女らしく振る舞えねぇのかよぅ!」

 狩谷は娘の江戸弁に意表を突かれ、茫然と言葉を失っていた。

 娘はそんな狩谷には目もくれず、反射的に言い返す。

「おあいにく様。こちとらぁ野郎じゃねえんだい。節穴はてめえの目んタマじゃぁねぇか……え? 客……? あら。あらいやだよ。本当だねぇ……。この野郎、客がいるならいるって、さっさと言やぁいいじゃないのさ……年頃の娘に赤っ恥ぃかかせやがって……」

 そして、狩谷に向かってぺこりと頭を下げた。

「ど、どうも失礼しました」

 娘は身をひるがえして外に飛び出した。また音をたてて扉が閉まる。

 狩谷はゆっくりと宗八に顔を向けた。口が半開きになっていた。

 宗八は首をすくめて身を縮めた。ちらりと狩谷の表情を盗み見ると、目を伏せてつぶやく。

「娘……でぇ。どうも……なんてぇのか……弱った野郎でねぇ……。男手で育てるってぇなぁ……やっぱりいいもんじゃぁねぇのかねぇ……」

 狩谷はゆるんだ唇に気づいて、慌てて閉じた。とたんに苦笑がこみあげる。

「いや……そんなことはない。きれいな娘さんじゃないか。おまえ、よく育てたな」

「嫌味を言うんじゃぁねぇやい……。なりはどうだって、あんなもなぁ女のうちに入るもんか。あれで男でもくっつきゃぁ、ちったぁ変わるのかもしれねぇがよ……。色気なんざぁ、これっぽちもありゃぁしねぇ。あいつのおっかさんは、そりゃぁいい女だったってぇのに……。どうした按配なんだろうねぇ……」

 狩谷はこらえきれずに声を出して笑った。

 宗八は目を上げると、さらに首を縮める。

「笑うんじゃねぇって……」

「ははは……あ……いや、すまない。しかし、おまえにこんな弱みがあったとはね……」

「面目ねぇ……」

「なに、心配は要らんさ。あれだけの器量があるんだ。男どもが放っておかない。せいぜい、悪い虫がつかないように気をつけるんだな。ところで、いくつになる?」

「え? いくつって……?」

「歳だよ、娘さんの」

「奴の歳か……二十……七か八じゃぁねぇのかな? 番茶も出がらし、ってなもんよ」

「はっきり知らないのか? ……それでも父親か? たった一人の肉親だろう?」

 宗八はなおも首を引っ込めようとした。

「本当にてめえ、嫌味なところはガキの頃からちっとも変わっちゃぁいねぇな……。まぁ、親がこんな調子だからよ、娘にまともになれってぇのも無理な相談かもしれねぇがよぅ……。それにしてもよ、年中あんな調子だろう、男どもがびびっちまって寄りつきゃぁしねぇ。悪い虫だろうがなんだろうが、喰らいついちまえば奴だって大人しくなるに違げぇねぇんだがなぁ……。今日々の男どもときたぁ日にゃぁ、肝っ玉が小さくって見ちゃぁいられねぇぜ」

 狩谷は苦しそうな咳を一つもらすと、ようやく真顔に戻った。

「で、娘さんは知っているのか?」

 宗八も目を上げた。

「何を?」

「罠師のことさ」

「あたぼうよ。奴が欠けてみろ。ボケたばあさんだって騙せやしねぇぜ」

 狩谷は目を丸めた。

「手伝わせているのか⁉」

「いけねぇかい? 本人がやりてぇって言うんだから、しかたねぇじゃねえか。まぁ、よっぽどの事があれば俺が出向くが、並みの罠なら奴が手下を束ねてらぁ。あまっ子のわりにゃぁいい腕してやがるんだぜ。俺が奴の歳だった頃に比べりゃぁ、ずっと出来がいいぐれぇでぇ」

 宗八は胸を張った。娘の才能を自慢しているのだ。

 狩谷はまたしても驚かされた。

「心底呆れた奴だな……おまえ、自分の娘にまで法を犯させているのか? 普通、詐欺師は、家族にも絶対に正体を明かさないぞ」

 宗八が両手でもてあそんでいた湯呑みを止めた。音を立てて湯呑みをコタツに叩きつけると、ぐいと身を乗り出して狩谷をにらみつける。

 口調に激しい怒りがあった。

「てめえ、今、なんて言った⁉」

 狩谷は宗八の語気の冷たさに戸惑った。

「なにって……だからどうして娘さんまで犯罪に引き込むのかと……」

 宗八はさらに声を荒らげる。

「そんなことじゃねぇやい! 詐欺師って言いやがったろう!」

 狩谷は宗八に押されるように身を引く。

「ああ……。確かに言ったが……。罠師っていうのは、詐欺師の集団じゃないのか?」

 宗八はついに、腰を浮かして怒鳴った。

「馬鹿野郎! 世の中にゃぁ言っていいことと悪いことがあるんでぇ! いくら幼なじみだからって、人を小馬鹿にするのもたいがいにしやがれよ! よりによって詐欺師たぁなんでぇ、詐欺師たぁ! この俺様が伊田なんぞと一緒に見えるか⁉ こちとらぁな、なりはみすぼらしくたって、れっきとした罠師なんでぇ。そこんところを取り違えるんじゃぁねぇぞ!」

 狩谷は、宗八の怒声に呆然としながらもつぶやく。

「ち、違うのか……? 詐欺師とは……」

「あたぼうでぇ、このうすらとんかちめ。詐欺師っていうなぁ、舌先三寸で素人衆から小金を巻き上げるチンピラのこった。奴らが人を騙くらかすのは、みみっちい欲のためさ。そんな雑魚どもは人間のうちにゃぁ数えられねぇ。俺たち罠師ってぇなぁ、そんな兄さんたちたぁ兄さんの出来が違うんでぇ!」

「そりゃあすまなかった。だが、俺は何日か前に初めて聞いたばかりだ。伊田だって、罠師がどんな仕事をしているのか、本当のところは知らなかった。詐欺師と違うなら、分かるように説明してくれ」

 宗八はようやく怒りを鎮めた。

「おう……ま、そう言やぁそうだな。罠師のこたぁ、知られちゃぁならねぇ秘密だ。知らねぇからって怒鳴り散らすのは、お門違いか。こりゃぁ、すまなかったな」

 宗八の表情は、何事もなかったかのように穏やかに戻った。

 狩谷は詰めていた息を吐き出し、座りなおした。

「いや、いいんだ。それより、教えてほしい。罠師とは、何をするんだ?」

 宗八はにやりと笑った。

「大掃除。罠師ってぇなぁ、小物にゃぁ手が届かねぇ物騒なところで命を張ってる、正真正銘の義賊さ。てめえの懐を肥やすためだけにゃぁ決して動かねえ。俺たちにしてみりゃぁ、どんなに嵩があったって、金なんざぁ問題じゃぁねぇ。でえいち、たかが詐欺師ごときに〝星〟がかっぱらえるかい?」

「それは重々承知している。警視庁はもちろん、モサドだってあの手際の良さには舌を巻いている」

「分かってりゃあいいさ。まぁ、この際だから、罠師の何たるかをとっくり教えてやろうじゃぁねぇか。そのちっこい耳の穴ぁかっぽじって、気ぃ入れて聞きやがれよ。俺たち罠師にゃぁ古い歴史ってぇもんがあるんでぇ。てめえら検察なんざぁ足元にも及ばねぇほど昔っから、お国のために働いてきたんでぇ。俺たちのご先祖さまぁなあ、てめえの命に代えてもこの街を守ろうってぇ腹の据わった連中だったのさ」

「と言うと、いつごろからあるんだ、罠師は……?」

「江戸の時代からさね。そもそも罠師のご先祖は、飛騨の山奥で獣狩りを生業にしてた一族だ。江戸がまだ水浸しのど田舎だった頃の話でぇ。獣狩りって言ったって、そんじょそこらの猟師なんぞたぁ格が違うぜ。飛び道具は一切使わねぇ。しかも狙う相手は、並みの罠にはかからねぇ山の主どもだ。だいてぇは、賢くってでっけぇ熊公だな。それも、人里に下りて暴れる極道者だけしか獲らねぇ。武器は心血注いだ罠だけで……おっと、てめえ、妙な顔ぉしやがったじゃぁねぇか。ははぁ、さては罠ってぇ意味が分かっちゃぁいやがらねぇな」

「罠は罠だろう? どんな違いがある?」

「てめえが考げぇてる罠は、落し穴や虎挟みみてえな子供騙しのこったろう? そんな罠で獲れる獲物はウサギやタヌキぐれえのもんさ。主の風格を持った熊ってぇ生き物は、底の浅い小細工なんざぁはなっから見破っていやがらぁ。こいつら狩るにゃぁ、一流の鉄砲打ちだって命を引き替えにする覚悟が要る。普通は罠なんぞにかかる相手じゃぁねぇ。俺たち罠師はなぁ、罠にかからねぇ奴らを罠で仕留めるのが仕事だったのさ」

「それならいったい、どんな罠で……?」

「そりゃぁ色々さ。決まりなんかねぇ。相手の気持ちをよぉっく考げぇて、そいつに合った罠をこしれぇてやるのさ。一匹の熊を追って十年も粘ったってぇ話だって伝わってるぐれえの大仕事だぁね。女房連中が、生身の身体を餌にした事も少なくなかったらしいぜ。文字通り命がけよ」

「一匹に十年……? 暮らしていけたのか?」

「食い扶持なら御山から頂ける。仕事が入ぇりゃあ、村人が米や酒を都合してくれるしな」

「そうすると、熊の被害のあった村の依頼を受けて出稼ぎにいっていたわけか」

「砕いて言っちまえば、そういうこったな。だが罠師に声がかかる時にゃぁ、どこの村でも打てる手は打ち尽くしていらぁ。鉄砲打ちが何人も殺された後でお鉢が回ってくるってぇ寸法よ」

「じゃあ、仕事は多くなかっただろう?」

「まぁな。だが、気骨はあったぜ。食い扶持以外の獲物を売って小金を稼ごうなんてぇ半端者は、問答無用でおっぽりだされちまう。他人様からどんなに小馬鹿にされたって、目先の銭に色目を使う奴ぁいなかったね。罠師様って言やぁ、どんな山奥の猟師からも神様みてえに拝まれたもんさ」

「それなら、どうして江戸の街に?」

「時代にゃぁ勝てなかったってぇこったろうな。江戸の街がぼちぼち賑わってくると、飛騨から若い連中が流れていっちまった。何の楽しみもねぇ山の暮らしが嫌になっちまったんだろうさ。魔がさしたんだろうな。でもな、意地ばっかりで生きてきた奴らが簡単に街に馴染めるわけがねぇ。やっぱり山に戻ろうか……ってぇ相談にもなったようだ。ところがそん時に、とんでもねぇ事を考げぇた奴がいた」

「とんでもないこと?」

「街を、そのまんま山に見立てちまったのさ」

「見立てたって……?」

「街に住んでいるなぁ人間だけとは限らねぇ。見かけは人間の姿をしていたって、キツネやタヌキ、イタチにオオカミってぇ奴らだってうろついてらぁ。犬畜生にも劣る汚ねぇ奴らが、慎ましく暮らしている善人たちを食い物していやがる。山の生き物に比べりゃぁ、人の世なんざぁ汚穢溜めみてえなもんさ。大方、全うな職人や百姓が痛めつけられているのを見ちまったんだろうね。で、その元締めを狩っちまおうって相談になった」

「狩る……?」

「さっぱりとあの世に送ってやるのさ。なぁに、罠にかけちゃぁ、こちとらぁ本職よ。熊が人間に変わったって、てぇした違ぇはねぇ。相手のやり口を良ぉっく知って、こっちの罠に誘い込むだけよ。罪もねぇ生き物を狩って生きるより、ずっと世の中のためにもならぁ。その上、大きな声じゃぁ言えねぇが、金にもなるしな。そんなこんなで、もう一つの罠師が生まれたってぇ寸法よ」

「そんなことを勝手に? 幕府との関係はなかったのか?」

「当ったりめぇだろう? お上が始末をつけられねぇから、罠師が引導を渡すんだ。場合によっちゃぁ、お上そのものも狩る。それでも意地はあったね。チンピラにゃぁ決して手を出さなかった。チンピラは木っ端役人に任せておきゃぁいい。罠師は、雑魚どもを操っている黒幕を暴き出して始末するのさ。誰に頼まれるわけじゃぁねぇ。普段は貧乏職人の真似事をして暮らしている罠師が、腹に据えかねる事件が起こった時に自然に集まるわけだ。事の終りも、たいがいが乱心やら事故ってぇ噂で決着がついた。いずれにしても、罠師が仕事を片づけるたんびに、何百何千ってぇ町人が胸をなで下ろしたのさ」

「民間人が司法権を行使していたのか……」

「羨ましいかい?」

「とんでもない。極めて危険だ」

 宗八もうなずいた。

「優等生のお坊っちゃまならそう言うに決まってらぁな。しかし、時代が時代だぜ。まぁ、大目に見てくんな」

「だが、罠師は今まで続いているだろう? 現代でも危ない真似をしているのか?」

「そっちの話はまたいつか、ってことにしようぜ。てめえの融通のきかねぇ心臓を止めちまっちゃぁいけねぇ」

「そんなに大きな仕事を?」

 宗八は冷たく笑った。

「話を戻すぜ。そうこうしているうちに、飛騨の本家筋はいつの間にか消えちまった。残ったのは街から離れられなくなった罠師たちだけで、その豪気な連中がご先祖だってぇことよ。これで分かったな、なんで詐欺師呼ばわりが癪にさわるか。こちとらにゃぁ意地ってぇもんがあるんでぇ。ま、いいやな。どっちみち今度の罠にゃぁ、てめえも一枚噛むんだ。罠師の手並みをじっくり拝ませてやろうじゃぁねぇか」

 宗八はようやく湯呑みに手を戻した。

 狩谷もうなずくしかなかった。罠師が法に反する存在であることは最初から承知している。それでも宗八の言う通り、行動を共にしなければ危機は乗り切れない。宗八が秘めていた血筋の重さにも圧倒された。古くからのつき合いからも微塵も感じ取れなかった過去だった。

 狩谷は溜め息とともに言った。

「しかし、知らなかったよ。この家にそんな大きな秘密があったとはね……」

 宗八は、激怒したことも忘れてにこやかに笑った。

「いいってことよ。お天道様の他にゃぁ知られちゃなんねぇ事だ」

 狩谷の胸に疑問がわいた。

「おまえも、罠師として働いたことがあるんだろう?」

 宗八は目を輝かせた。

「あたぼうよ。罠がかけられなけりゃぁ罠師は名乗れねぇ。細っけぇ仕事なら年に一度ぐれぇかね。でっけぇ奴も、五、六度な。聞きてぇかい?……おっといけねぇ、てめえが検察の兄さんだってぇ事を忘れてたぜ。ま、くたばる時にゃぁ教えてやらぁ。気長に待ってるこったな」

 狩谷は口ごもった。

「いや、そんなつもりじゃ……。どうせ俺は追われる身だ。ところで、罠師っていうのはおまえたちの他にもいるのか?」

 宗八は哀しげな表情を見せた。

「ああ……何人か手下はいる。情報屋も少なくねぇ。でもな、昔っからの血を引てるなぁ俺たちだけになっちまった。あと何年かすりゃぁ、この世から消えてなくなっちまうんだろうねぇ……」

「おまえ、親類はいなかったもんな」

「娘だけさ。罠師ってぇのは、やっぱりどっかやましいところがあるんだろう。みんな、子供を残したがらねぇ。……おぅ、そうだ! 忘れちゃあいけねぇな。実は娘は双子の片割れで、奴の姉貴がいらぁ。もっとも生まれてすぐに女房が死んで、里子に出したんでねぇ……。今となっちゃぁ、生きているかどうかも見当がつかねぇ。死ぬ前には、会って詫びてぇと思っちゃぁいるんだがな……なんせ、年が行ってからの子供だから、こっちの身体がいつまで保つものやら……」

 それも初耳だった。

 宗八の妻が出産の無理がたたって死んだとは聞いていた。双子だったことが原因だったのだろう。

 宗八はぼんやりと両手で握った湯呑みに目を落としていた。その姿は苦い過去に胸をかきむしられる老人そのものだった。

 狩谷はふと思った。

〝こいつ、生き別れになった娘との再会を待って、この土地にしがみついているのかもしれないな……〟

 だが、納得できないこともある。

「しかし、それほど誇り高い罠師が、なぜ〝ダビデの星〟を? どう言いつくろっても、あれは盗みだ」

 宗八は目を伏せたまま悲しげに微笑んだ。やがて、言った。

「違げぇねぇ。後悔しちゃぁいる。獲物があんまりでっけぇもんで、柄にもなくはしゃいじまってな……。ありゃぁ引退記念のつもりだったのさ。俺のじゃねぇ、罠師のだ……」

「と言うと……」

「俺たち罠師は江戸の街が一人前になってこのかた、ゴミさらいみてぇな真似ばっかりしてきた。そりゃぁ好きでやってたこったし、いい目を見たことだってあるだろうさ。罠の仕舞いにゃぁ、たいがい大金を巻き上げてきたからな。ま、その金だって大方は町人たちにばらまいちまったらしいがね。だがよ、逆に根絶やしにされかけたことだって一度や二度じゃねぇ。そんな罠師もここにきて先が見えちまった」

「やめるのか?」

「俺の代で、きっぱりとな。娘にゃぁ継がせねぇ。ただ、今まで世の中のために命を張ってきたんだ、褒美があったっていいんじゃぁねぇのかい。かといって、誰かにくれたぁ言えねぇやな。で、てめえで取ってきたってぇ寸法さ。はなっから金に換える気なんぞありゃぁしねぇ。罠師にゃぁこんな大仕事だって出来るんだってぇ証をたててみたかっただけの事よ。散るときぐれえは、ぱあっと派手な花火を打ち上げてみたかったのさ。どのみち俺が死んだら〝星〟は娘に返ぇさせるつもりでいた。そしてそん時ゃぁ、奴も足を洗う。それがこんなに面倒なことになっちまって……。まったくドジな話さ。前から気づいちゃぁいたが、どうやら俺は罠師としちゃぁ出来が甘いらしくていけねぇ。短気でおっちょこちょいで、後先を考えられねぇんだな」

「まあ、訳は分かった。〝星〟を返すなら、暗殺者だけは防げるかもしれない。中田事件で手柄を立てられれば、逮捕を見送ることもあり得る。〝星〟が盗まれたことを公にして恥をかきたくはないからな。で、〝星〟は今どこに?」

「ちょっとした知合いんとこに預けてあらぁ。小悪党だがね」

 狩谷の眉が上がる。

「信用できるのか?」

「誰だって、命に関わる弱みを握られてりゃぁ逆らえねぇさ。ま、そんなこたぁどうでもいいや。モサドとやらの追っ手がかかりそうなら、おちおち寝てもいられねぇ。さっさと片づけちまおうぜ。二日しかねぇんだろう? それだけでも、文書とやらがどこにあるかぐれぇは調べがつくかもしれねぇ。それが分かったら、もうちっと時間を融通してくれよ。時間さえありゃぁ必ずかっさらってきてやらぁ」

「うん……確かな情報なら、何とかできるかもしれないが……」

「ま、よろしく頼んだぜ。とにかく時間がねぇ。その若林ってぇ野郎のことできるだけ詳しく教えてくんな」

「ああ、そうだな」

 狩谷は、持ってきたカバンを引き寄せると、中から薄いファイルを取り出した。

「検察の資料室でコピーを取ってきた。若林について地検が掴んでいる事実だ。目を通してくれ」

 ファイルを受け取った宗八は不思議そうに言った。

「ずいぶん薄っぺらじゃぁねぇか。てめえの話ほどの剛の者なら、本一冊ぐれえはあってもよさそうなのによぅ」

 宗八はファイルを開いて目を通し始めた。

 狩谷は悔しそうに答えた。

「切れ者なのさ。陰で中田軍団をコントロールしていることは確実だが、まるで尻尾が掴めない。実際、若林自身はほとんど行動を起こさない。奴の支配力を確かなものにしているのは、コンピューターに収められた情報なんだ。政官界、そして経済界のスキャンダル情報は検察の持っている量をはるかに超えているらしい。実態は本人しか知らないから、正確なところは判断しようがないがね。しかし、日本の権力者のほとんどが若林を恐れている。しかも暴力団や右翼とのつながりが深く、組織を手足のように使いこなす。若林が汚れ仕事を引き受けなければ、中田や小高も今の権勢を誇れなかっただろう」

 宗八はファイルに目を落としたまま言った。

「根っからの黒幕、かい?」

「若林自身が政界に進出しようとしたことは一度もない。会社の主な仕事は大口の土地取引だが、業績もここ数年は横ばいで、目立った変化は現われていない。その陰で政界への支配力を増している。とんだ策士だよ」

「陰から日本を操る了見か……」

 狩谷はうなずいた。

「着々と布石を打っている。中田を首相に押し上げる工作にも手腕を発揮した。疑獄事件発覚以後は、守りに全力を傾けている。証拠隠しはもちろん、重要参考人の死にも関与が疑われている。奴の臭いは至る所に残っている。しかし、証拠がない。ご丁寧に私生活にまで秘密主義を貫いている。ただし、ここ一年ほどは永田町でも奴の気配がほとんど感じられなかった。どうやら、ポスト中田の時代に備えて、じっくり力を貯えていたらしい。〝立木文書〟がなかったら、中田への判決が下るまでは沈黙を守り通したはずだ。様子見、ってところだな。中田が有罪をくらって権力基盤が揺らげば、あっさりと切り捨てる可能性もある。そうなると、次は若林自身が政界をコントロールするだろう。いろいろな議員たちにそれとなく当たってみたが、彼らは例外なく若林を恐れていた。奴が握っている裏情報が自分を葬るのではないか、あるいは暴力組織が動くのではないか――そう考えると、敵には回せないようだ。このまま放置すれば、五年後にどれだけの権力を握るか見当もつかない」

「天下の検察様がそう言うんなら信じるしかねぇな」

「まれに奴の名前が誰かの口から漏れても、次の日には決まって証言を翻す。立場が右でも左でも同じだ。奴が握っている戦闘部隊がそうさせるんだ。本当に危険な行動を取ろうと決断すれば、政治家であろうと処分されるしな」

「おっそろしいオヤジだねぇ……」

 しかしそうつぶやいた宗八はかすかに笑っていた。ファイルをめくり続ける。

「しかし、策士っていう奴ぁ、案外罠にかかりやすいもんさ。てめえが引っかかるたぁこれっぽちっも考えちゃぁいねぇからな。まあ、この俺様が乗り出したんでぇ、大船に乗った気で見物してなって。しかしてめえ、いい話を持ってきやがったねぇ。ここんとこ罠らしい罠をかけてなかったんで、正直言ってイライラしてたんでぇ。それであんなつまらねぇ盗みを働いちまったんだがよぅ……。若林ってぇ奴が噂通りの大物策士なら、引退記念にゃぁもってこいの獲物じゃぁねぇか。おっと……なんでぇなんでぇ、資料ってぇのはこれで仕舞いかい? ここにゃぁ二十年前までの記録しか入ちゃぁいねぇぜ。生まれとか育ちとかは分かっちゃいねぇのかい?」

 狩谷も不満げだった。

「特捜部でもそれだけかき集めるのが精一杯だったんだ。戦前戦中、戦後の混乱期の記録は何も出てこない。かろうじて足取りがたどれるのは行動派右翼として売り出し始めてからで、当時はほとんど注目されていなかった。特捜が目をつけたのは、中田が出世のレールに乗り始めてからだ」

「隠さなけりゃならねぇ傷がある……ってことか?」

「青年期を南方の特務機関で過ごしたという噂はある。小高とのつながりを考えれば、うなづける。しかし、確かな記録は一つもない。むろん戸籍はあるが、不法に手に入れたという可能性も高い。戦犯から逃れるために意図的に過去を消した者も多かったからな」

「南方か……。嫌なところだったね。俺もフィリピンでアメちゃんの弾を三発食らったよ。生きて帰ぇれたのは奇跡だ。ひょっとすると、どっかで顔を拝んでいたかもしれねぇな」

「年令さえはっきりとわからない男だ。可能性は否定できない」

「しかし、弱ったねぇ……。素性が分かってりゃぁ、親類の伝とかなんかをでっち上げて近づけるんだがよ。取りつく島がねぇ。戦中の写真なんか……あるわけねぇよな、このていたらくじゃぁ」

「すまない。写真は、そのファイルの一枚きりなんだ。それも、検察が撮ったものじゃない。半年ほど前に創刊したばかりの写真週刊誌が盗み撮りしたんだ。そいつは素顔だが、普段はぶ厚い付け髭とサングラスを欠かさない」

「週刊誌? なぜ?」

「噂さ。『中田軍団の大頭脳』ってな。派手な見出しをつけたのはいいが、カメラマンはその後暴力団員にからまれて重傷を負った。広告依頼もぱったり止まって営業が悲鳴を上げたそうだ。結局、記事は無視され、今じゃあ誰も若林を狙わない。奴がマスコミの上層部に圧力をかけたという声も聞く。手がつけられない相手だ」

「たかが写真一枚で、か……。ファイルにゃぁ、役に立ちそうなこたぁ書いちゃぁいねぇし……」

 宗八は折り込まれていた図面を引き出した。

「ビルの図面かい?」

「奴の砦。若林不動産の本社ビルだ。建設した業者に別件の取り調べに入った時に押収した。何かの役に立つかと思って取っておいたんだがな……」

「このビルの中に文書が隠してあるってぇなら役にも立つがよ……。それにしても、やっかいなオヤジだぜ。過去も分からねぇし、ちょっかい出せば殺されっちまう、か……」

「どうにかなりそうか?」

「ま、やるしかねぇだろう。こっちの手づるを使っても調べちゃぁみるが、これほど用心深い相手じゃぁ、足しになる話が掘り出せる望みはねぇだろうな。過去がねぇならそれもいいさ。それなりの手を打ちゃぁいいことよ」

 宗八はさらにファイルをめくった。

「それにしても、女にも金にも堅ぇってぇなぁ気に入らねぇな。しかも家にゃぁ、病気持ちの女房が寝込んでる。浮ついた話はなし、ぼろ儲けの話もなし、ときやがっちゃぁなぁ……。お、宝石収集が趣味とあるじゃぁねぇか。値打ち物でも集めてんのかい?」

 宗八は狩谷を見上げた。

 狩谷の表情が曇る。

「まさか〝星〟を取り引きに使う魂胆じゃないだろうな」

「いけねぇかい?」

「当たり前だ! 他国の財産だぞ! それに、どうせ望みはない。これも噂にすぎないが、奴にとっての宝石は完全に現金の代わりらしい。取引業者の話から、家にも会社にも数億円相当のダイヤを隠していることが分かっている。だがどれも石だけの個性のないもので、指輪とかには加工されていない。パッケージの封さえ切っていないようだ。万が一の時の逃走資金なんだろう。紙幣はかさばるし、金では重すぎる。だからダイヤを、という発想だろうな。間違っても〝星〟になんか手を出すものか」

 宗八はがっくりと首を落とした。

「厄介者を押っつけられるかと思ったんだがね……」

 その時、遠くからくぐもった音が聞こえてきた。どんどんと、一定のリズムを刻んでいる。同時に、部屋の裏手から犬の遠吠えが起こった。

 宗八の顔が一気に曇った。

「くそ……またおっ始めやがった……」

 狩谷が首をかしげる。

「こんな時間に、道路工事か?」

 宗八は吐き捨てるように言った。

「大家だよ。このアパートのいちばん端っこに住んでらぁ」

「何の音――」

 狩谷が言いかけた途端に、イントロが終わってかすかな歌声が流れ出した。

『♪北ぁのおぅーーー』

 同時に、犬の吠え声も調子を合わせて高まる。

『♪キャイキャイキャイイイーーーン』

 宗八が重たい溜め息を絞り出す。

「最近、細川たかしってぇ歌手に凝ってるそうだ。始まると、最低三回は歌うぜ。今夜は喉が冴えてらぁ。十回の新記録に挑戦しやがるかもしれねぇ」

「カラオケか……」

「まったく、近所迷惑だろう? 警官使って、とっ捕まえさせてくれや」

 狩谷は苦笑する。

「特捜の仕事じゃないな」

「大家じゃねぇ。腹が立つのは、一緒に歌ってやがる犬でぇ。ゴンスケの野郎、大家の飼い犬だと思って店子をおちょくりやがって。『犬の歌がうるさい』って保健所に談判したんだがよ、連中、はなっから信じなかったんだぜ」

「犬にやめる気がないなら、おまえがここを出ていくしかないだろう」

「へっ、役に立たねえ小役人だな」

「おまえが〝立木文書〟をかっさらってくれば、手を打ってもいいぞ」

 カラオケの音が続く中、宗八は熱心にうなずいた。

「その言葉、忘れるんじゃぁねぇぞ。若林とやらは必ず始末してやる。取り入る手は一つっきりしかねぇようだがな」

 狩谷が真顔に戻って身を乗り出す。

「どうする?」

「もちろん、乗り込むのよ」

 狩谷は息を呑んだ。

「乗り込むって……?」

「そんなに心配するんじゃねぇって。何事にもやりようってぇもんがあるんだ。女って奴ぁ、そういう仕事に向いてるんでぇ」

「まさか娘さんを……」

 宗八がにんまり笑った瞬間、再び扉が開けられた。待ち構えていたように娘が現われたのだ。

 肩にかかった髪はきれいにとかされていた。服も和服に替えている。うって変わったようにしおらしい物腰だった。

 娘は部屋に上がると膝を揃え、上品に指を突いた。

「いらっしゃいませ。先程は失礼いたしました。大熊の娘でございます」

 宗八が口に含んだ酒を吹き出しそうになった。

「なにが、ごぜぇます、でぇ。とっくに化けの皮ぁはがれてらぁ、この出来損ねぇが!」

 娘は上目で宗八を睨みつけつぶやいた。

「黙れ、死に損ねぇ」

 宗八はその言葉を無視した。またも苦笑を誘われた狩谷に言った。

「この長屋……じゃなかったアパートにゃぁ、大家の他にゃぁ俺たちしか住んでいねぇ。隣が俺の仕事場で、その向こうの部屋にこいつが入ぇってらぇ。二階は全部空き家さ。今夜は好きな部屋を使ってくんな」

 狩谷は黙ってうなずいた。

 宗八が娘に言った。

「なにを堅くなってやがる。こいつぁ幼なじみの狩谷だよ。今じゃぁ毛色の変わった商売をしてるが、佃の出にゃぁ違ぇねぇ。遠慮ぁいらねぇぜ。仕事を持ってきやがったんだ。さっさと上がって話に入ぇんな」

 娘の目の色が変わる。狩谷を値踏みしながらつぶやく。

「仕事……?」

「本業の話でぇ」

「罠……かい?」

 宗八がうなずく。

「てめえの出番もちゃんとこしらえてあらぁ」

 娘はぴょんとはねると、素早くコタツにもぐった。

 宗八が娘に質問した。

「てめえ、若林孝則って野郎を知ってるか?」

 狩谷には、たった一度報道されただけの名前を娘が知っているとは思えなかった。それを記憶しているとすれば、並外れた注意力と記憶力を持っていると言わなければならない。

 だが、娘は答えた。

「若林……なんかで読んだことがあったかねぇ……。あ、あの『中田の知恵袋』って言われてるおっさんかい?」

 狩谷が目を丸くした。

「知ってるのか⁉」

 宗八が言った。

「女だぜ。噂話にゃぁ目を皿にしてらぁ。三文雑誌に載った記事なら知らねぇはずがねぇ」

 狩谷は絶句したまま二人の会話からとり残されてしまった。

 娘が狩谷の表情をうかがいながら言う。

「相手はそいつかい?」

「家に入ぇってもらうぜ」

「居つくのかい?」

「時間がねぇ。それに、家にゃぁ病気持ちの女房が居座ってらぁ。女にも堅てぇ」

「するってぇと、また車……?」

「そういうこった」

「いいとも!……ってなわけにゃぁいかねぇぞ。こないだのアザ、やっと消えたばかりなんだからよぅ」

「ケツのアザなんざぁ気にしてる場合じゃぁねぇ。若林って野郎は相当用心深くてな、これっぽっちも引っかかりがねぇ。替われるもんなら替わってやりてぇが、こんな爺いが車の前に飛び出してみろ、そのまま轢きつぶされちまうのが落ちだろうが」

「そりゃぁそうだけど、なんだってそんなに焦ってやがるんだい?」

 宗八はつぶやいた。

「すまねぇ。〝星〟に手ぇ出したことがばれちまった」

 娘は腰を浮かせた。

「なんだと、てめえ! 一大事じゃぁねぇか! またドジ踏みやがったんだろう! あれほど言っただろうが、年甲斐もなく大それたお宝にちょっかい出すんじゃぁねぇって! 黙って隠居してりゃぁいいもんをよ!」

「しかたねえじゃねぇか、そういうことになっちまったんだからよぅ……」

「どうするんだよ⁉ え⁉ どうやって逃げる気なんだよ!」

「そう熱くなるんじゃぁねぇって。別嬪が台無しだぜ。でえいち、いちばん喜んだなぁてめえなんだぞ」

「そりゃぁ、そうだがよ……。てめえが『やる』って言うから、つい……」

「心配するんじゃねぇ。〝星〟は安全な場所にあるんだからよ」

 娘はじっと宗八を見返す。

「安全だぁ? てめえの言うことなんざぁ信じられねぇ」

 宗八がにやりと笑う。

「俺は信じられなくたって、弁護士様なら大丈夫だろうが。ちゃんと預けてあるんでぇ」

「弁護士だぁ……? てめえにもそんな上等な知り合いがいたのかよ?」

「上等も上等、借金抱えてサラ金から逃げ回ってる坊やよ。渋谷じゃ有名な嫌われ者でぇ」

「渋谷の……って、おい、まさか薫のあんちゃんか? あいつが弁護士だったって⁉ 俗な遊び人だとばっかり思ってたぜ。なーるほど、類は友を呼ぶか……半端者同士、てめえにゃぁぴったりのお友達だな。でもよ、あんなあんちゃんじゃ、余計に危ねぇだろうが」

「てめえが心配することじゃぁねえやぃ。脛に傷がある男だから、こっちの言いなりになるんでぇ。奴は荷物の中身は知らねぇし、どうせあんな雑魚じゃぁさばけねぇ……」

 と、宗八の目が狩谷に向く。

「……って、こんなことべらべら喋らせるんじゃぁねえやい!」

 娘が鼻を鳴らす。

「てめえが勝手にバラしてるんだろうが!」

 宗八は慌てて話題を変える。

「それはともかく、モサドとかいう恐い兄さんまで嗅ぎ回ってるそうだ」

 娘は恐怖に目を見開いた。

「モサド……。おい、本当かよ。ただ事じゃぁすまねぇぜ……」

「なんでも、俺たちじゃぁ歯が立たねぇ連中らしいな。だがよ、モサドの相手はこのみの坊が請け負ってくれらぁ。で、その代わりに、若林からあるものをかっさらって来なけりゃぁならねぇ。しかも、時間がねぇ。明日の夜にゃぁ、とっかかるぜ」

 娘は疑い深そうに狩谷を見た。

「だがよ、こう言っちゃぁなんだが、この方がモサドを黙らせられるってぇのかい?」

「これでもれっきとした検事様だぜ。特捜の偉いさんさ」

 娘は一瞬息を呑んだ。

「検事だと⁉ 馬鹿野郎! とっ捕まっちまったんじゃねぇかよぅ!」

 宗八はにやりと笑った。

「今はこいつも警察に追われる身なんだとよ。助け合おうってぇ寸法さ」

 娘は目を見開いたまま溜め息をついた。

「……畜生、何が何だか分からねぇや」

「後でとっくり説明してやらぁ。それより、明日の晩の準備をしといてくんなよ。俺はもう少しみの坊と話がある。てめえはさっさと寝ちまいな。明日は寝てる暇なんざぁねぇかもしれねぇ。おっと、その前に、あれだ。あれ」

 娘は不安げに宗八を見た。

「あれ?」

「ほれ、茶だよ。客人に茶も入れねぇ娘があるか」

「そんなことかよ! てめえのケツに火がついてるって言うのに、能天気な爺いだぜ!」

 娘は憤然と立ち上がると台所へ入った。

 狩谷がようやく口を開いた。

「おい……娘さん、そんなにいつも車にぶつかっているのか?」

 宗八は笑いながらうなずいた。

「ずいぶん前から傷物よ。もっとも、あっちの方は知らねぇがな。なに、心配にゃぁ及ばねぇよ。車なんぞにぶつかったって壊れるタマじゃぁねぇや」

 狩谷は不安を隠せなかった。

「しかしな……奴の車に当たっとしても、すんなりと家に入れるのか?」

 宗八は閉じたファイルをぽんと叩いた。

「ここにゃぁ、奴の家にはお抱えの医者がいると書いてあらぁ。女房の面倒を見させるためさ。てめえの家の近所で人をはねてみろ、家に引き込んじまうのが一番目立たねぇじゃねぇか。用心深い奴なんだろう? 面倒事を好いてるはずがねぇ」

「だが、たとえ家に入れてもすぐに役に立つことがあるのか?」

「電話に盗聴器を仕掛ける。そうすりゃぁ外からの電話は筒抜けだぁ。面白ぇ話が聞けるかもしれねぇ。罠を考えるのはそれから、ってぇ事だな」

「のんびり構えている暇はないぞ」

「つまらねえ心配ばっかりしていちゃぁ胃が保たねぇぜ。奴が動かねぇなら、こっちから揺さぶって尻尾を出させるまでさ」

 狩谷の目には激しい不安が渦巻いていた。

「まあ、任せるしかないがな……。しかし娘さん、盗聴器なんか使いこなせるのか?」

「あまっ子のくせしやがって、電気にゃぁめっぽう強いんでぇ。俺にゃぁ訳の分かんねえ細っけぇ機械を年中いじくって喜んでやがる。マイコンてぇオモチャだって、真っ先に買ってきやがった。日がな一日、電卓のボタン見てぇのをがちゃがちゃ押してやがって。あんな流行もんより、生身の男の方がよっぽどいじくり甲斐がある思うんだがね」

「そうなのか……。まあ、うまく行けばいいがな……。お、そうだ。ところで娘さん、名前は何ていったっけ?」

 宗八はにたっと笑った。

「八兵衛」

「はちべえ……?」

 キツネにつままれたような顔を見せた狩谷に、盆を手にして現われた娘が言った。

「竜子と申します」

 狩谷に茶を差し出すと宗八をにらんだ。

「なにが八兵衛だ。いい加減な与太ばっかりぬかしてやがると、酒ぇ取り上げるぞ。年中呑んだくれていられるなぁ、いってぇ誰のおかげだと思ってやがるんでぇ。あたしがマイコンのゲームプログラムで稼いでるからだろうが。それにな、これからはコンピューターの時代なんだぜ。IBMの産業スパイ事件だとか、三和銀行のオンライン詐欺だとか、犯罪も捜査もコンピューターがなけりゃぁ動きが取れなくなるんでぇ。天下のNHKだって『マイコン入門』って番組を始めたぐれぇなんだからな。それから、男のことも大きなお世話だよ。あたしゃぁ、このままで結構なんですからね」

 竜子は宗八の前に茶の入った湯呑みを叩きつけた。

 宗八は熱い茶がはねた指をしゃぶりながら、もごもごと言った。

「だがよぅ、とっくに潮時は過ぎちまったんだぜ。孫の顔ぐれぇ拝ませろよぅ」

「うるっせえ野郎だねぇ、土左衛門のETみてぇな面ぁしやがって。てめえと同じ不景気なツラのガキなんぞ拝んだって、首でもくくりたくなるのが落ちだぞ。それに、一人前の親みてえな口をききたかったら、一人前の親みてえなことをしてからにしやがれってぇんだ。あたしゃぁ、寝るよ」

 竜子は盆をコタツの上に残したままさっさと玄関へおりる。

 その後ろ姿に向かって宗八が怒鳴った。

「へっ! どこの家だって親はうるせぇもんと相場が決まってらい。このはねっ返ぇりめ! 寝る前に大家の犬を散歩させろよ。半時も走り回らせりゃあ、喉が枯れて唄も歌えなくなるだろうからよ」

 竜子は振り返りもしないで応えた。

「あたしゃぁゴンスケの『北酒場』が気に入ってるんでぇ。子守歌にゃぁちょうどいい塩梅だぜ。まだ『与作』ほどこなれちゃいねぇがよ。散歩したけりゃぁ、てめえで行ってきやがれ!」

 叩きつけるように閉じられたガラス戸が、またもびりびりと震えた。

 宗八は、返す言葉もなく長い溜め息をもらした。

 狩谷が茶をすすりながらつぶやく。

「知らなかったよ……おまえがこんな暮らしをしていたとは……」

 宗八は弱り果てたように答えた。

「若ぇ頃はこんな暮らしが大ぇ好きだったんだがねぇ……。この町だって、もっと賑やかだったしな。だが、こう老いぼれっちまうと、俺だって心細くならぁ。なにせ、娘があんな調子だろう? 罠師なんざぁ止めっちまおうと何度考げぇたことか……。だがよ、困ったことに、あいつも罠師に惚れ込んじまってやがる。血ぃってぇもんはつくづく恐ろしいねぇ……」

「だからこれを最後に?」

「そういうこった。これで奴にだって男がつくかもしれねぇしな……」

 狩谷はかすかに微笑んだ。

「ところで、八兵衛って何の事だ?」

「あはは、あばずれ女の符丁さ」

「どおりで竜子さん、怒ったわけだ」

 宗八は真剣な目で狩谷を見つめた。

「俺も聞きてぇことがある」

「何だ?」

「いーてー……てなぁ、何だ?」

 狩谷は苦笑をこらえながらゆっくりと湯呑みを置く。だが、昨年大ヒットした『ET』を説明しようとした狩谷の目は、ひどく眠そうだった。

 じっと狩谷を見つめていた宗八が、にっと笑った。

 と、狩谷はがっくりと首を落とした。コタツに突っ伏して寝息をたて始める。

 玄関の扉が、からりと開いた。竜子がそっと首をのぞかせる。

「〝行った〟かい?」

「ああ、ぐっすりでぇ。どれぐらい保つ?」

「朝にゃぁ醒めるよ」

「話は見えてるか?」

「ああ。盗聴器ですっかり聞いた」

「じゃぁ、こいつの包帯を取ってみてくんな。寝る前ぇに一仕事片づけなけりゃぁならねぇ」

「あいよ」

 竜子は部屋に入ったが、不安そうにつぶやく。

「でも、いいのかい? こんなにあっさり罠師のことをバラしちまって。墓まで持ってく秘密だって、口を酸っぱくして言ってたじゃねえか」

 宗八の答えに迷いはなかった。

「検察に罠師の名前を知られたんじゃぁ、逃げ切れねぇ。手を打たなくちゃならねぇが、どこまで知られてんのか、つるんでみなけりゃ本当のところは分からねぇ。作戦もたてられねぇ」

「だからって、〝星〟のありかまで教えなくたってよぉ……」

「十手先で効く布石よ。それぐれぇ読めねえと、罠は任せられねぇぜ」

 宗八ものっそりとコタツから這い出し、眠り飽きた猫のようにのんびりと背を伸ばす。だが禿げた丸顔の中では、小さな目だけが獲物を待ち伏せるヒョウのように輝いていた。

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