第29話

 短い通路を抜けて、中に入るよう促される。靴を脱ごうとした時、セラフが少し笑って言った。

「靴は脱がなくていいですよ」

 ソファに浅く腰かける。大きな壁掛けテレビに、額に入った写真がいくつか。キッチンには食器棚と納められた数多の食器、カウンターにはシリアルやチップス類と、未開封の缶詰等が乗っている。

 セラフは鞄を置いてキッチンに入る。コップを二つ取り出すと、冷蔵庫からジュースのボトルを出して置く。

 ずっと我慢をしていただろう。シズクが本格的に暴れ出す。鋭い爪で引っかいて、身体を捩る。慌ててシズクを手放すと、私を踏み台代わりに蹴り跳んだ。一目散に部屋の中を駆けていく。今までに見せた事の無い俊敏さで本棚の間に消える。そっと覗き込むと、一番奥でうずくまっていた。

「そっちの部屋を片付けてスズネさんの部屋にしましょう。あっちは僕が普段仕事で使用しているので、入る時は一言ください。あと、風呂はそこです。洗濯機もそこにあります。家の物は自由に使って頂いて構いませんが、鍵とか閉めて下さいね。うっかり鉢合わせなんて嫌でしょう?」

 黒色をした液体に氷が浮かぶ。コーヒーにも似ているが、一目で違うと理解できる。小さな気泡がどこからともなく現れて、弾けて消えてはまた浮かぶ。

 服の入った袋を置いて隣に座る。お互いしばらく黙っていたが、やがてセラフは軽くため息をつき、諭すように口を開いた。

「彼らの事を気にしているようですが、絶対に助けようとしてはなりません。一人を救うのは簡単です。が、一人救えば、我も我もと寄ってきます。自分も不幸だ、助けてくれと。ですが数が多すぎる。だから無理だと言って聞かせても、彼らは聞く耳を持ちません。それどころか、手を差し伸べた僕たちを恨み憎しみ、攻撃してくるようになる。どうしてアイツは救われて、俺達のことは無視するんだと。

 僕らが攻撃されている内はまだ良いです。法と警察が守ってくれていますからね。しかし僕らが救った一人を攻撃する様子を目にするのだけは我慢なりません。何も変わらない人間なのに、少し幸福になったからと不幸の底に叩き入れるのです。僕らが救ったその人は、やがて憎悪を募らせて、攻撃先を僕らに向ける。よくも私を助けたわね、ってね」

 セラフが一気にジュースを飲み干す。空になったコップの中で、氷が崩れて音を立てる。改めて大きなため息をつくと、立ち上がって言った。

「スズネさんの部屋を片づけてきます。疲れたでしょうから、休んでいて下さい」

 私も、と立ち上がるもセラフが止める。大丈夫です、一人で十分ですからと、小さな声で彼は言うと、一人で部屋の奥へと姿を消した。

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