第23話

 イヌの仮面のさらに奥。どこを見ているのかもわからない目に影が落ちる。伸ばした髪が歩くたびに揺れ、波打ち背中を叩いている。

 一瞬、私を見た気がした。気のせいだったのかも知れない。ほんのわずかな短い時間、伏せた目の中に小さな火が宿ったように見えた。

 すぐにイヌは顔を背け、慌てて私も目を逸らす。少し間を置いてまた見上げると、イヌとキツネが同時に座るところであった。

 本を消す。同時に短刀と御簾が現れる。白鞘に収まる刀がキツネとイヌを、御簾が二人と私を阻む。湿気を含んだ風が木の香りを運ぶ。髪を引く力は無いながらも、灯台に灯る火だけをくすぐった。

「聞かせてくれる? アナタの話を」

 シシオドシが鳴った。

 灯りと、それがもたらす影の他に、動くものは一つもない。向かい合った二人の影をそのままにして、もう一度シシオドシが響く。イヌは深呼吸した素振りを見せると、ゆっくりと話し始めた。

「私には十四になる娘がいるの。誰に似たのか目つきがとても悪い子でね。いつも一人で暗い所にいて、顔を合わせる度に睨まれたわ。まるで猫みたいに。昔は素直で可愛げのある子だったのに、親の言うことも聞かずに一人でゲームばかりやっていた。会話だってしようともしない。それもずっと」

「いつから?」

「小学生の時からよ。私が娘と同じ年齢の時は、友達と一緒に過ごしていたわ。雨だろうと、雷だろうと、雪だろうと。毎日毎日学校に行って勉強をした。夜まで一緒に部活して、ボールを追いかけ回していた。プレーで失敗すればコーチに怒鳴られたけれど、友だちや、仲間のみんなで励まし合った。勉強だって難しかったし辛かったけど、今ではそれも良い想い出よ。今でもあの時代に戻りたいと思うわ。

 でも娘には、その友達がいない。作りなさいと言ったのに。それどころか学校を辞めたい、なんて言い出したのよ。もちろんちゃんと怒ったわ。学校があの子にとって必要なんだから」

 ここまで言って座り直す。二人の影が揺れた後、センが静かに口を開いた。

「娘さんの名前は?」

 シシオドシがまた鳴った。今までは気にもならなかったのに、今日はやけにうるさく響く。もう一度、空の竹を叩く音が聞こえた時、たった一言、呟くようにして言った。

「スズネ」

 瞬きをする。

 聞き覚えのある境遇にあまり驚きはしなかった。だが急に名前を呼ばれて心臓が跳ね上がる想いをしたのは確かだ。

 おそらく知ってて尋ねたのだろう。センらしからぬ質問に、すぐにそう思った。イヌの人を最後にしたのも、きっと私に何かさせたい事があるに違いない。

「昔から娘のために生きてきた。泣いていれば励ましたし、私も沢山我慢した。スズネが起きている時に気が休まる時なんて一度もなかった。少しでも目を離そうものなら、自分から危険に向かって行くのよ。どれだけ心配させられたか、私の身にもなってほしいわ。

 体内端末だって三歳の頃にはあげたのよ。スズネは算数が得意だったみたいで、四歳の時には掛け算や割り算ができるようになったわ。それであの子に才能があると思ったの。だからあの子を小学校に入学させた。その時にはね。私が中学の数学でやったような、変数や方程式なんて使っていたのよ。それがどれだけすごいことか、コンピューターのアナタには理解できないかもしれないけど」

 キツネがコチラを見たような気がした。御簾に映った影に目を凝らして見るものの、影は火に合わせて動くばかりで、実際のところは分からない。

「こんなに大事にしていたのにスズネは私を無視するようになったわ。小さいうちは素直で聞き分けのある良い子だったのに、小学校に入ってから会話を避けはじめたの。私の質問に、首を振るだけで済まそうとしたし、返事をするにも単語だけで返すし。いつも自分の部屋に籠もって、ゲームばかりやってたの。それで私は心配したわ。いつかそのうち、学校に行かなくなるんじゃないかって。だから私は毎日スズネに声を掛けた。学校で何があったのか、勉強はは今何をしているのか。友だちと遊ばないのか、そもそも友だちが居るのか、とかね。

 スズネは自分から話さないから、私から聞くしか無かったの。何かあったら相談できるようにと思ってね。そうしていればいつか話してくれるかもって思ったのよ。

 でもそれ以上の事は求めなかった。学生として最低限の勉強はしていたみたいだし、なんだかんだ学校も続いていた。中学に進級だってした。必要な事以外は話さないけど、その気になったら話してくれるって信じていた」

 大層立派な母親ぶりに鼻で笑う。マイクに斜線のミュートマークが表示される。

「なのによ。スズネは学校を辞めたの。それも相談もなく、突然に。あり得ないでしょ。不満があるなら普通は誰かに話すし、ましてや私は母親なのよ? なんの連絡も無く自分の判断で辞めるなんて信じられない。親をいったい何だと思っているのかしら」

「詳しく聞かせて」

「本当に何もなかったのよ。今まで通り学校に行くのを見送って、家事を始めた。そしてひと息ついた時、メッセージが来ていないのに気づいたの。いつもは登校しました、って通知が届くのにその日は来なかった。で、私はスズネに、どこで、何をしてるか聞いたのよ。そしたら既読だけつけて無視してきたのよ。あり得ないでしょ。

 私は母親なのよ。メッセージを受け取ったらすぐ返事するように言っているのに無視した。それですっごくイライラしちゃって、電話したわけ。なのにスズネは電話に出ないでそのまま切りやがったの。

 これもう絶対ワザとだって思って、位置情報とか、自動車の乗車履歴とか要求したのに、本人の意思に反するからって全部却下された。それで本当は嫌だったけど、私はアイツに連絡した」

「アイツって?」

「昔捨てた元旦那よ。もしスズネに何か吹き込んだのならアイツしかいないと思ってね。で、嫌だったけど話してみたら、アイツも居場所を知らないじゃないの。それどころか、そういう年頃なんだから諦めろ、って言ってきたのよ。

 諦めるも何も、まだ中学生なのよ。何もできる訳無いじゃない。だから心配で探しているんだって言ったらアイツ、欲しかったのは子どもじゃなくて従順な犬なんだな、って失礼すぎるでしょ。

 私がこんなに心配しているのに。アイツには人の心が無いのよ。だから自分の娘だろうと、どうでも良いって思っているんだわ。私には、スズネしかいないのに!」

 ため息が出る想いだった。気づかなかったが実際に漏らしていたのかもしれない。浮かんでいたミュートアイコンが消える。

 もうこれ以上、聞く事なんて無さそうだ。

 ゴーグルに手を伸ばす。そして外しかけた時だった。センがそっと口を開いた。

「辛かったんだね」

「辛かった?」

 イヌが顔をあげる。

「うん。だってそうじゃない? たった一人で、子どもを十四になるまで育てあげた。昔と比べて楽になったって人がいるけれど、それでも子どもを育てるのってとっても大変な事だと思う。嫌な事でも、好きな事でも我慢して、いつも自分を後回しにしてきた。今だってそうじゃないかな」

「そう。かな」

「そうだよ。うん、絶対そう。だってさっき言ったよね。本当は嫌いな旦那さんに、わざわざ連絡だってしたんだもん。もしも自分を優先していたら、連絡なんてしないと思う。それだけアナタはスズネちゃんを大事にしている証拠なんだよ」

 ゴーグルに伸ばした手を離す。離した手はいつの間にか降りていて、気づけば膝に乗っていた。手を組んで、膝と膝の間に挟む。そして硬く両目を閉じると、二つの影に目を向けた。

「そっか。私、辛かったんだ」

 穏やかな声だった。今まで聞いた事が無い。小さくて弱々しい。幼い少女にも似た声だった。

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