第11話

 センが去った後の部屋は、やけに静かなものだった。部屋の中に居ながらも、波風の音が聞こえてくる。

 私はシズクのご飯を出す。そして少し離れた位置に転がした。

「シズク」

 反応はない。

「シズク。ご飯だよ」

 少し動いた。

 ご飯に興味はあるらしい。それなら大丈夫そうかなと、帽子を取ってシャワーに向かう。

 シャワーを済ませて戻ってみれば、ご飯は無かった。

 縮こまったままであったが、少しだけ灰色の尾が見て取れる。右左右、左右左と、床の上を掃くように、尾の先端が揺れ動く。

 ご飯を食べて機嫌が良くなったのかもしれない。

 なら大丈夫。あとは時間が解決してくれるだろう。ほとぼりが冷めたら自分からきっと出てきてくれる。

 予想通り、時間は見事にシズクの機嫌を直してくれた。

 まだ朝早く、私が寝ているにも関わらず、近くでしつこく鳴いていた。さながら鶏のように、朝っぱらから驚くほどの大声だった。来た時からそうだったが、わずか三日でこの図々しさである。

 シーツで頭の先まで包み込む。

 シズクの声が和らいだ。と思ったら、全体重を乗せてくる。

 しばらく我慢していたが、すぐに耐え切れなくなった。目を閉じたまま団子状のフードを出すと、なるべく遠くに転がした。

 足蹴を置き土産に飛んでいく。シズクは平然としているが、あまりの強さに咽かえる。

 やりたい放題な灰色の悪魔に心の内で悪態をつく。でも、いつものシズクが戻ったようだ。シーツの下で少しだけ口元を緩める。

 起き出したのは普段よりも更に遅い昼過ぎだった。

 寝てしまったシズクをそのままに、例の如くゴーグルを取る。いつものように着けようとして、やっぱり止める。代わりに本を取り出すと、温かな紅茶と共に本を開く。

 手垢と脂と埃にまみれた灰色をした暗い世界で、惹かれる男女。人目を忍んで繰り返し会うも、監視の目は隅々にまで行き届いている。

 まったく減らない紅茶のカップに手を伸ばす。カップの代わりに温かな、毛玉に触れた。

 目を向ける。シズクが鳴く。

 起こしてしまったのだろうか。撫でようとして手を止める。どうせ避けるだろうと思っていたら、自ら身体を擦りつけてきた。

 差し出された猫の額から、頭、そして首を伝って背へと流す。流れるように繰り返す内に膝の上へと飛び乗る。

 正直に言えば重かった。だが膝の上で無防備にくつろぐ姿を見せつけられたら、無理に退かす気も失せてしまう。人より少しだけ高い体温を、膝に感じながら本の続きに手を着けた。

 日が暮れてアラームが鳴った。そろそろ出かける時間だった。

 朝食で、昼食で、夕食にもなる食事を頼む。うたた寝をするシズクの名前を囁きかけると、大きな耳が反応した。

 シズクが頭を持ち上げる。そして膝の上から飛び降りた。クッションとしての役割を終え、立ち上がっては伸びをする。

 身支度を整え食事する。気合いを入れて切り身を一つ食べきると、シズクに留守番するよう言い聞かせて、私は一人で家を出た。

 夜の星の下、海の横、波風の音を聞きつつ歩く。時折周囲を見渡してシズクが着いて来ていない事を確認する。

 シズクにしては珍しく、言うことを聞いてくれた。玄関にまで見送りに来た澄んだ瞳が脳裏に焼き付き、今も目に浮かぶようだった。

 運よく今日も彼がいた。

 カメラのフラッシュを焚いて、海にレンズを向けている。

 ポケットに両手を突っ込んだまま、撮り終えるのを待つ。二、三枚ほど撮ったところで彼は私に気が付いた。

「アナタは、昨日の」

 無骨なカメラを離す。ネックストラップが張って胸元で止まる。

「また会いましたね。僕に用ですか?」

「そのカメラ」

 彼は提げたカメラを見下ろす。

「見せて」

「え?」

「いいから」

 ストラップを首から外すのも待たずして、彼のカメラを奪い取る。レンズにフラッシュ、ファインダーと目立つ異常は見当たらない。シャッターを三度切ると、同じくフラッシュが三度瞬く。

 特別おかしな所はない。シズクはただフラッシュの光に驚いただけのようだ。

 呆れたようにため息をつく彼を無視してカメラを回す。底面に着いたツマミを動かすと、カバーが大きく跳ねあがった。

「あぁ、ちょっと!」

 詰まっていたフィルムが弾け出す。飛び出た先から感光されて瞬間的に黒くなる。慌てて戻そうとしたが、かえって全てを出してしまった。

「僕の写真が」

 うな垂れる彼にごめんと伝える。彼は優しく、ため息混じりに笑いながら、まぁいいですよと、言ってくれた。

「何していたの?」

 ベンチに並んで腰を下ろす。風に揺れる水面には星と月の光が映る。夜の海に冷えた風が私達を包み込む。

「海を撮っていました。この国の海は綺麗ですから」

「フラッシュを焚いて?」

「えぇ、まぁ。正確にはこの国を撮っていたんですけどね」

 彼は笑う。

「違う国からやってきました。ありのままのこの国を皆に伝えたいと思っています。人、自然、社会に文化、なにもかもです。だからこうして写真を撮っていた訳ですよ」

「そんな古いカメラを使わなくても良いのに」

「ただの趣味ですね。確かに最新のカメラなら高画質の写真を撮ってすぐに国へ送れるでしょう。でも、古い物には古いなりに良さがあるんですよ。例えばうっかりフィルムをダメにされてしまったり、ね」

 いたたまれない気持ちになって、ごめん、と改めて伝える。彼はいたずらっぽく笑って見せると、冗談ですよと、更に笑った。

「僕の国はもっと賑やかです。車や船に飛行機が行き交って、もっと大勢の人達が外に出てみんなで一緒に過ごしています。そう言えばこの国は人が少ないですね」

 目の端に現在人口三千万の記述が浮かぶ。そのことを彼に告げると、目を見開いて絶句した。

「ありえません。ご存知かもしれませんがこの国は、最盛期で二億の人が住んでいたんですよ、二億。それが今では三千万だなんて。いったい何があったんですか」

「私もあまり詳しくはないけれど」

 災害や戦争、その他多くの原因が考えられる。だが最も強い影響を与えたのは、この国が究極社会主義に移行した事だろう。貯蓄のあった富裕層は、カネが徐々に廃止される社会に危機を感じて自身の資産と一緒に、こぞって海外へと出て行った。

 例にあげれば、まずは政治家。次に大企業の重役以上の肩書きを持つ資産家、その他、株や為替のトレーダーなんかを筆頭に、資産のある上流、および中流家庭。加えて社会の変化に恐れを成した人々も国外転居の流れに乗った。

 当時のテレビに新聞、ラジオはセンセーショナルに面白おかしく報道をした。

 日本が崩壊する時が来ただとか、自由主義の終焉だとか、勤勉な日本人が堕落した、等々である。

 もちろん全てデマだった。だが時を経るにつれ究極社会主義化が顕著になると、かもしれない、で煽る彼らに踊らされて多くの人が我先にと出て行った。

「驚きました。博識ですね。僕なりにも勉強したつもりでしたが、まだまだのようですね。日本人は皆そうなのですか」

 私は無言で頷いた。

 体内端末によって、この程度の情報ならば誰でもいつでもアクセスできる。普及率は九割九分を超えるらしいから、事実上、日本人なら全員が博識だと言うことになる。

 例外はまだ幼い子どもで、大概は六歳前後で身に着ける。もし端末が無ければ遠距離の会話はもちろん、交通機関を利用することも、スマートホームとの連携も煩わしくて面倒になる。日々の食事にありつくだけでも毎回口で注文せねばならないからだ。

 スペックを抑える代わりに自由に外せるようにしたのが、目の前の彼が着けている入国者グラスだ。一部のシステムとの連動機能と、通話とメッセージ機能しか備えていない。

 もちろん体内端末を使用していてもハイエンドゲームで遊ぶには、まだスペックが足りない。だからこそ、ゴーグルによる処理能力の底上げが必要とされるのだった。

「この国の人は皆、学校に行っていないのですよね。僕の国では学校に行って、段階を踏んで学ぶような内容です。小学校から始まって、中学、高校、そして大学です。アナタくらいの年齢ならば」

「中学でしょ。知ってる」

 何度もしつこく聞かされたからと、心の中で付け加える。彼は私の気持ちも露知らず、楽しそうに笑って続けた。

「学校は学校で良いものですよ。先生にクラスメイトに友人、そして恋人と一緒に過ごすんです。教室で、部活で、そして授業が終わった放課後に。好きな人とかけがえのない時間を共に過ごすんです。アナタには居ないのですか?」

「へ?」

「大切に思える誰か。ずっと一緒に居たいと思える誰か。要するに、彼氏ですよ」

「そんな人いない」

 素気なく聞こえる様に努力する。

「一人もですか」

「いない」

「本当にですか」

「いない」

 聞こえたのかも怪しいくらい。自分でも度が過ぎると思うほど小さな声だった。

 海風が吹く。

 早くここから立ち去りたい。本気でそう思った。

 幸いにもタイミングよく通知が届く。センからだった。私は用事が入ったと伝えると、慌てて立ち上がった。

「あの!」

 彼は私の服を摘まんだ。

「僕はセラフって言います。お名前は?」

 振りほどこうと思えばできた。でも私はそうしなかった。彼に背中を向けたまま、正確には彼の顔を見る事もできないで、私は小さく口を開いた。

「スズネ」

「スズネさん。また明日、同じ時間にここにいます。もし良ければまた僕に、もう一度会ってくれますか」

 私は肩越しに彼を見やると、胸いっぱいに空気を吸ってゆっくり息を吐き出した。

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