《四度目の夢》③

 そっと左肩を触れられる感覚。

 そして、背後からゆっくりとした動きで、あの人形が差し出されてくるのが見えた。

 白峰が部室でずっと準備していた、あの猫だか何だかよく分からない人形だ。

 人形の毛並みはピンク色だった。

 ピンクは──確か三秒だ。緊急用として決めた色。


 そういうことか。

 やるしかないんだ。今、ここで!


 被覆室の奥に視線を置きながら、人形を手に取り、もう片方の手でその腹をそっと押し込む。

 そしてそれを、先ほど自分たちが出てきた調理実習室の奥まった場所目掛けて放り投げた。

 静寂の中、それが床に落下する微かな音が聞こえた、気がする。

 中から音楽が流れ始める。

 ひときわ緊張が高まり、視界が暗転する。

 一瞬、ここで夢が覚めてしまうのかと焦ったが、そうではなかった。

 夢の中の自分が目を閉じたのだ。

 それと同時に目の前を何かが物凄い勢いで通り抜ける気配を感じた。

 遅れて生温い風を頬で受ける感覚がやってくる。


 目が開かれると、調理実習室の中、人形が落ちたあたりに、黒い大きな影のようなものが蠢いているのが見えた。

 それはもはや、人の形を為しているとも思えない奇怪な塊だった。

 大きな拳を作って振りかぶり、床に向かって振り下ろし、という動作を繰り返すように激しく伸縮を繰り返している。

 先ほど床に落ちていたスピーカーの残骸のヴィジョンがチラつく。

 音の鳴るあの人形を、物理的に破壊しようとしているのだろうか。

 考えている暇はない。

 事実、夢の中の自分は少しも逡巡することなく、調理実習室に向かって歩き出していた。

 〈モヤゾンビ〉を視界に捉えたまま目の前のドアに取り付き、右に向かってスライドさせ始めている。

 やはり、アレをこのまま中に閉じ込める気だ。

 急いでいるはずなのに、ドアを閉じる動きはスローモーション映像を見ているように遅い。

 音を立てないようにしているのだろうが、見ていることしかできない身としてはその緩慢さが狂おしい程にもどかしい。


 半分ほど扉を閉めた段階で、中の〈モヤゾンビ〉から視線を逸らし、廊下の左手へと視野が移った。

 後方のドアに向かった吉岡は、今ようやくそのドアに手を掛けたところだった。

 だが、そこで吉岡の動きが止まる。

 眉をへの字に曲げ、今にも泣き出しそうな表情でこちらを振り返った。

 まさか、ドアが閉まらないのか!?

 恐怖で思わず嘔吐きそうになる。

 吉岡との距離が絶望的なほど遠くに感じられた。

 音楽は終わりに近づくフレーズを奏で始めていた。

 夢を見ている自分に音は聞こえていないが、その事実が伝わってくる。

 夢の外、現実の世界では何度も聞いた。

 聴き馴染みのあるクラシック音楽に重ねて、白峰の肉声による警告音声が録音されている。今、それが再生されているはずだった。


 ──音は間断なく鳴り続けていて欲しいけど、音を鳴らしている意図とか、何秒間鳴るのか、みたいな情報も周りの人に知らせたいでしょ?


 そう白峰が言っていた。

 現実どおりの設定なら、再生される音楽は三〇秒間。

 もうすぐ残り五秒のカウントダウンが始まるはずだ。

 現実で得た知識と夢の中で感じる生の情報が、ない交ぜになったような感覚で頭がおかしくなりそうだった。

 自分が誰で、いつ、どこにいるのかを見失ってしまうような酩酊感。

 ……駄目だ。もっとしっかり見なければ。見届けなければ。

 気が付くと吉岡の周りには広瀬と長谷川の姿があった。

 いつ、どこから現れたのか、まるで気を失っていたかのように間の記憶がない。

 広瀬と長谷川は、吉岡の頭越しにドアの上部に手を掛け、上に持ち上げるようにして力を加えているように見えた。

 滑車が何かに引っ掛かっていたのだろう。それでドアは上手く横にスライドし始めた。

 三人掛かりでそろりそろりとドアを横に滑らせる。

 閉め終わるのと音楽が鳴りやむのはほぼ同時だった。


 三人は同じ姿勢のまま固まって動かなくなる。

 自分も含めた全員が、教室の中に動きがないかと気配を窺っているようだった。

 ……中から物音はしない。

 成功したのだ。

 夢の中の自分が全身の緊張を解くのが分かった。

 ややあって、広瀬も力を抜き、ゆっくりとドアから離れる。

 続いて長谷川もドアから離れた。

 吉岡は最後まで固まったままだったが、広瀬が吉岡の肩に手を置くと、それで緊張が解けたようにそのままストンと床の上にへたり込んだ。

 どうにか事なきを得たらしい。


 三人の姿越しに動くものが見えたのはその直後だった。

 そこに意識の焦点を合わせると、右手の曲がり角から、神妙な面持ちの磯辺が顔を覗かせているのが見えた。

 磯辺はこちらの無事を確認すると、相形を崩し、吉岡のもとへ歩み寄った。へたり込んだまま両手を広げ迎え入れる吉岡に応え、磯辺も腰を落として吉岡に抱き着く。

 当然言葉はない。

 だが、互いの無事を確認し、心から安堵している様子が伝わってきた。

 この異変が起きてから初めて顔を合わせた。そんな印象を持つ。

 計画のとおりだ。

 白峰と磯部は別行動で放送室から避難誘導をする役割。

 だからそのことに違和感はないはずだ。しかし……。


 依然抱き合い続けている吉岡と磯辺。

 傍らでそれを見つめる広瀬と長谷川。

 その光景を見ていると、理由もなく、何かが抜け落ちてしまったような物悲しい気持ちが込み上げてきた。

 部室棟には中原と岩見がいたはずだが、あの二人はどこに行ったのだろう。

 何か理由があって遠くで別行動をしているのだろうか。

 あと姿を見ていないのは倉田と……、それに、白峰の姿が見えない。磯辺と行動を共にしていると思っていた白峰の姿がない。

 そうだ。夢に映される未来の中で、白峰だけはまだ一度も見ていないのだ。

 〈モヤゾンビ〉を閉じ込める計画も、あの音が出る人形も、全て白峰が準備を整えたとおりの世界だというのに。

 それを意識した途端、視界から急速に光と色が失われていくのを感じた。

 待て! 誰か答えてくれ。白峰はどこなんだ?

 薄れ行く意識の中、視界の先の四人に向かって必死で問い掛ける。

 その答えが得られないまま、視界は暗く閉ざされていった。

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