《二度目の夢》②

 だがしかし、その歩みは遅い。

 何人かの生徒が同じ経路を走り、後ろから追い抜いていったが、自分や広瀬たち一行は歩く速度を変えなかった。

 なるべく靴音を立てないよう、着地に気を遣いながら歩いているのが分かる。

 夢を見ているこちらとしては、もう少し首を左右に振ったり後ろを振り向いたりして欲しいのだが、夢の中の自分は進行方向からアレが現れるのを警戒しているのか、長い廊下の突き当たり付近だけをジッと凝視して歩いていた。

 物理や化学などの専門教室の横を抜け、文化部の部室が集まっている区画へ。

 徐々に教室棟の喧騒が遠退いていくのを感じる。

 美術部が使っている大部屋に突き当たり、その左手の先へと進むと、外に面する階段が──。


 あっ!


 と、思わず夢の中で声を上げそうになる。

 そこには古い階段があるはずだった。

 だが、目の前に現れたのは、明らかに自分の記憶とは異なる景観だった。

 現実の学校では、簡素なアルミ製のドアを挟んだ先に、外に突き出した無骨な金属製の階段があったはずだが、今その場所には真新しいエレベーターと、その場所へと通じる、しっかりとした造りの内壁で囲われた区画が形成されていた。

 この校舎の雰囲気には似つかわしくない、妙に煌びやかな印象がある。

 やはり、これはただの夢に過ぎないのか?

 現実とまるで区別が付かないぐらい完璧に再現された世界──この学校の校舎が、この夢を特別足らしめる象徴であるように感じていた。

 その前提が崩れた今、この夢をどういうものだと解釈すれば良いのだろうか。

 思いがけないものを見たことによる動揺。

 だが、当然というべきだろうか。夢の中の自分はこの校舎を、当然そういうものだと認識しているようで、一切ためらいを見せることなく、真っ直ぐそちらに向かって歩いていく。

 そのままエレベーターを使うのかと思ったが、ボタンに手を伸ばす素振りはない。

 よく見るとエレベーターの左右には階段が伸びていた。エレベーターに正対し、右手が下り、左手が上りになっている。エレベーターを中心にして階段が螺旋状に巻き付いているような構造だ。

 右手の、一階に続く方の階段を一瞥する。

 階段は緩い勾配で旋回しながら下に続いているので、その先を見通すことはできなかった。

 視線がそちらを向いているため、そのまま階段を下りていくのかと思ったが、何故か微妙な間があった。

 遠くから何かが近づいてくる気配がある。

 何故そう思うのかと自問する。

 その答えは足音だ。それから人の声。

 姿は見えないが、階段を伝って反響する音で、その先から、かなりの人数が向かってきているのが分かった。

 校舎に入れ、と誰かが叫んでいた。

 冗談ではない。そんなに大声を出して、そんな大きな足音を立てて走り込んで来ては、アレをこちらに呼び寄せるようなものではないか。

 反射的に苛立ちを覚えるが、しかし、外に居る者にしてみれば、遮蔽物がある校舎内の方が、まだしも安全に思えるのだろう。おそらくアレが音に反応することにも気付いていないのだ。

 すぐ下から、ひときわ大きく、こっちだと叫ぶ声が響いた。

 ふと、体育教師の中村の顔が思い浮かんだ。

 その直後、バシャリ、と水が床を叩いて落ちるような、あの奇妙な音。

 ……それきり何も聞こえなくなった。

 バタバタと響いていた足音もやみ、一帯が静寂で満たされる。

 離れた教室棟の方で続いている悲鳴や怒声が、これまでよりも強く意識された。

 一気に緊張が張り詰める。

 もう、すぐこの下にまで、アレが来ているのだという直感があった。

 背後の吉岡たちを振り返った後、今度は三階へ続く階段へゆっくりと向きを転じる。

 ゆっくりと……。ゆっくりと、音を殺して階段を上り始める。


 階段の下まで来ていたヤツは、まだそこにいるのだろうか?

 それとも、すでに次の獲物を目指して別の場所へ行ってしまったのだろうか?

 分からない。見えない。……故に恐ろしい。

 階段を上り始めると、まるで、スピーカーの音量が絞られたかのように、入ってくる情報の量が極端に減った。視界に無機質な階段の列しか映らなくなったからだ。

 しかも、足音が鳴らないようにしているせいで、上に向かう歩みは至極遅い。少しでも音を立てればヤツらに見つかってしまうかもしれない。そんな恐怖があるから、どうしても慎重にならざるを得ないのだ。

 長く単調な時間によって、自然とこれまでに起きた出来事の反芻と内省が促される。

 階下で声がした中村と思われる男はアレにやられてしまったのだろうか。

 おそらくそうなのだろうが、抵抗する音やうめき声すら聞こえなかった。

 これまでの情報から考えても、そもそもアレに組み付かれて助かるとは思えないのだが、あのバシャリという水のような音は一体何なのか。吸血鬼の眷属のように同化してしまう場合と、適合せずに身体が溶解してしまう場合の二通りのパターンがあるとでも?

 分からないことが多過ぎる。

 人を襲っているのはアレの意志だろうか。

 輪郭が崩れているとは言え、ヒト型であることから、何らかの意思を持つのだと思いたくなるが、大きな音に反応して襲ってくる振る舞いを見ると、ただの機械的な現象に過ぎないという気もする。

 いや、考えても分からないのは当然だ。

 そもそもあんなものはこの世に存在しない。

 自分が創り出した空想の産物だ。

 だとしたら、アレは自分の心が描く何らかのメタファーなのか。

 周囲の人間を襲い、自分を追い詰める得体の知れない影が何を表している?


 視界には、なお変わり映えのしない階段が続いていた。

 この階段も謎だ。

 こんな階段は現実には存在しないものだ。

 学校以外の別の場所でも思い当たる階段はない。

 この夢の世界は、自分の脳にある記憶から精緻に再現されているものだと思っていたが、だとすれば、この階段を構成する情報は一体どこから来ているのだろうか。

 ただ……、こうして階段を上る映像を見ながら思うのは、屋内の、しっかりとしたコンクリート造りの階段で良かった、ということだった。

 現実の学校にあるような、あの古ぼけた鉄の階段を使い、音を立てずに上るというのは、なお至難であっただろうと思う。

 もしやと思うが、自分がそう思ったからこうなのだろうか。

 音に反応する怪異という、自分が作り上げた安直な怪異に対し、生存を勝ち取るには、あの古い階段では駄目だったのだ。だから都合良く作り変えられた……。そんなふうに考えるのは、妄想が過ぎるだろうか。


 いつしか思考は、この夢が一体何なのかという疑問へと移っていく。

 そして、意識し始めると、この夢の異常な長さにも居心地の悪さを覚え始めた。

 夢だと自覚してから、これだけ長い時間持続する夢があり得るだろうか。

 目が覚めたとき、果たして自分は、今見ている夢のことを憶えていられるのだろうかと不安になる。

 いいや。そもそもこの夢は〈覚める〉ということがあるのだろうのか。夢を見ているつもりが、どこか別の世界に迷い込んでしまっていて、戻れなくなっているのではないか。


 そんな取り留めもないことを考えていたためだろうか。意識が朦朧とし始める。

 その変化は、徐々に進行していたのかも知れないが、気付いたときには、夢の世界と意識の乖離は、取り返しが付かないほどに進行していた。

 確かにあったはずの、あの底冷えするような恐怖感もまるで感じなくなっている。

 夢が……、夢のようだった。

 本来夢がそうあるべき姿に戻りつつある。

 自分とは関係のない、虚構の世界を覗いているような、ぼんやりとした感覚。

 間もなく目が覚める。そのことが自覚できた。

 全く真逆なのだが、布団の中で微睡み、深い眠りに落ちる瞬間に似ていた。

 すでに視界はかなり暗い。

 だが、まだギリギリ意識を保っている。

 何故だろうか。まだここで目覚めるわけにはいかない、という焦りか決意か、よく分からない意思が自分の中にあるのを感じた。


 そうして、ようやく視界に三階の風景が飛び込んでくる。

 こちらは自分が憶えている部室棟三階の様子と変わりないようだ。

 真っ直ぐ進んで、左に曲がればオカ研の部室がある。そこを曲がらず、さらに奥に進めば教室棟と、その手前には下の階へと通じる別の階段がある。

 夢の中の自分はそのどちらでもなく、すぐ手前の角を右へ……、実習室棟側へと向かって曲がった。

 まるで始めからそこを目指していたかのような、迷いのない足取りで。

 視界の先に〈視聴覚室〉の入口を捉えたとき、ああそうか、と妙に腑に落ちる感覚があり、そして、不意に夢から覚めた──。

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