(12)ガラスケースと月光
──ゴボゴボゴボ。
柳井揚水機場に侵入した僕達が初めに耳にしたものは水槽のポンプの音であった。
玄関口から入ってすぐそばのところに水が茶色く濁った小さな水槽があり、赤い何かがひらひら泳いでいるのを目の当たりにした。
「これが、幻燈魚……?」
「こちらは水質調査用に飼育されている金魚のようですね。川水を問題無く農業用水として使えるかどうか見ているのです」
柳井さんの腕を背後で捩じり上げたまま歩く時子さんが優しくそう教えてくれた。
玄関口から広間へ向かう。二階建て相当のコンクリート造であるこの施設は中が吹き抜けになっており、外側から見た時に想像していたよりも広々とした空間がそこにあった。
広間には河川の水を引き揚げるための大型ポンプが四基並べられて設置されていた。横から眺めてみると灰色で無機的、でっぷりとした丸みを帯びたフォルムが巨大な爆弾に見えなくもない。
「爆弾製造工場か」と自然に声を漏らしてしまった。
「ほう、地下があるのか」
伯爵の声がコンクリート造の壁面に響いた。
広間の入り口から奥にある大型ポンプで隠れて見えない場所に階下に続く階段を発見し、僕達はゾロゾロと地下への階段を踏み締めていった。
「何だい? このパイプ類は」
目出し帽を被っていてよく分からないがミルキーさんが顔をしかめているであろうことは容易に想像できた。
階段の壁面には無数のパイプが張り巡らされていて、ゴウン、ゴウンと音を立てて脈動しているかのようだった。
「あれは……!」
直角に曲がる構造のかね折り階段なのだが、途中の踊り場に柳井家の物と思われる家財がまるで物置のように無造作に積まれていた。
その中で僕が発見したのは埃を被ったガラスケースである。中にはオカッパ頭の市松人形が入れられていて、その人形が着ていた振袖が佳雨音と同じ柄だった。
階下に降り立つと一階程ではないがまたもや広間があり、この場所も壁面にパイプが張り巡らされていた。
室内には使われていない桶型の大水槽が3つ、タンク機材とパイプで繋がれて水で満たされた大水槽1つが置かれていた。機材は水の貯蓄と循環機能を兼ね揃えているらしく、大水槽に満たされた水は透明度が高く透き通り、酸素供給用のポンプが細やかな泡を吐き出していた。
「テレビで見たことがある、水族館の裏側みたいなところだな……」
使われていない水槽に大小異なるヒビが入っているのを見て柳井さんの言葉をふと思い出した。
『大震災で水槽が倒れてお前達の親は死んだ』
水で満たされた大型水槽に半透明のホースが繋がっていて、それが更に別室へ続くようであった。
「ククク……どうやら、柳井清路が幻燈魚にどのような仕打ちをしていたのか、ついに解明する時が来たようだな」
ホースでつっかえられて半開きになっているスライドドアの先に足を踏み入れた僕はゾワゾワと足のつま先から頭頂部にかけて気持ちの悪い何かが伝っていったのを感じた。
スライドドアの先は通路になっていてその壁面には壁の隙間なくぎっしりと沢山の書架が並べられていた。
「おい、これって……」
ミルキーさんでさえ、書架に入れられている
雑誌類やDVDケースを見て、僕と同じような心持ちになったようである。
仮にも柳井さんは妻子持ちの男である。僕自身も彼に何度か会ったことがあり、至って普通の人柄であると思い込んでいた。
書架に入りきれなかった雑誌の束が床に置かれていて、僕はそれを一つ手に取った。
表紙には学生服を着た若々しい女性が胸や下着をはだけた写真が掲載されていた。
「アダルト雑誌だ……」
今まで響きを殺すような含み笑いをしていた伯爵がコンクリート造の通路に怖いぐらい響く高笑いを上げた。
「クッハッハッハ! なるほど、祖先である柳井蔦郎は幻燈魚を喰らい、現代を生きる柳井清路は幻燈魚を食っていたということか」
「反吐が出ますね」
抵抗すれば骨を折ると言っていた時子さんが何もしていない柳井さんの腕を更に捩じり上げた。
「があ、が、がああああ!!」
書架に隙間なく入れられている雑誌類は全て女子高生もので占めるようであった。これが柳井さんの性癖、そして──幻燈魚を育てている理由。
「これが育ての親の本性だ。長女・由良奈よ。柳井家の人間はそなた達一族を長い年月をかけて食い物にしていた」
伯爵の発言に僕は振り返った。七姉妹の長女・由良奈は門口からいつの間にかこの場所に現れていた。真っ黒な瞳は一層深く濃い黒に染まっている。
ミルキーさんが書架を見つめて酷く気味悪がった。
「不法侵入の件で柳井清路が何故、警察を呼ばないのだろうと考えてはいたが……これを見てくれ。最近の雑誌に加え、平成初期に出版された雑誌もあるみたいだ。児童ポルノに認定されてもおかしくない一品も置かれているぞ。立派な犯罪者だ」
柳井さんが突然怒号を上げた。
「クソっ! 誰だ、誰が外のやつにチクリやがったんだ! 由良奈あ! 姉妹の監視役にお前を任命したんだぞ、何だこの
は! どいつが外へ逃げ出したんだ! があっ!」
──ミシッ。
柳井さんの肩から鈍い音が鳴った。それ以降、彼は額から多量の汗を流したまま押し黙ってしまった。
「ふーっ、ふーっ」
コンクリート造の通路に中年男性の荒々しい呼吸音が伝わっていく。
「長女・由良奈よ。そなたの祖先、九唄螺は人に対する情が厚かったために柳井家の人間に反抗することが出来ず、一族を地獄へと引き連れてしまったのだ。奴の望みを止める方法などいくらでもあったであろうに。ククク……育ての親を殺せばよかったのだ」
「……」
「そなたには、人に対する情があるだろうか」
伯爵はそう言い残し、歩を進めていく。
その先にあったものは、佳雨音が夢の中で見せてくれた硝子の明かり取りがある見覚えのある扉だった。
○
扉の先に進んだ僕達はあっと声を漏らして立ち尽くしてしまった。
10畳間の部屋の中には夢で見た通り、壁際に7つの小さな水槽があり、その中に泳いでいる魚を見て僕は
「美しい……我輩がかつてインドの隠し寺院で見たものと同じだ」
透き通る水の中に紅色の魚が優雅に泳いでいる。長い尾やヒレは天女の羽衣の如く軽やかになびき、身をくねらせるたびに綺麗に並んだ紅色の鱗が光を乱反射させる。
僕は色からして金魚に類似したものを想像していたが、この魚は全く違った姿をしていた。あまりの神々しさにそのまま膝をついて手を合わせ拝み伏してしまおうかと思案してしまうほどの尊い存在であった。
「あと少しで……あと少しで成熟するところだったのに……ううっ」
柳井さんがうわ言のように呟き続けていた。
「もう幻燈魚はメスしかいないんだ……もう増やせない、7匹しかいない。あの大震災のせいだ」
「ククク……何度でも言うがいい、性欲猿めが」
不意に伯爵が僕にステッキの先を向けてきた。柳井さんに配慮して僕の名は告げなかった。
「後ろを振り向くがいい。幻燈魚・佳雨音が満月の夜にしか現れない理由がそこにあるぞ」
僕は唾を飲み込んでゆっくりと振り向いた。そこには先程閉めたドアがあるのだが、ドアに備え付けられている明かり取りのガラスが僅かに光っているのが分かった。光の源が何なのか、それに気付いた僕は打ち震えた。
この部屋から見た通路の先には水槽のホースにつっかえて半開きになったドアがあり、その先には階段、柳井家の家財が置かれている物置状態の山が形成されている。市松人形が入れられたガラスケースが光を反射していたのだ。そしてその光源は──恐らく揚水機場の窓から差し込まれたものだ。
「月光……!」
「そうだ、そしてその月光が偶然にもこの部屋の水槽に届く。この光の強さならば満月の夜にしか光度を保てないであろう。そう、佳雨音はこの月光を辿って柳井揚水機場から外の世界へと抜け出していたのだ。幻燈魚が創る幻覚の正体、それは『光』である!」
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