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同数の暗証番号を4桁連打でスマホを解錠する。



先月は2222。来月は1111。セキュリティの期待できないことを引き換えとして月一で数字を変える。それに意味があるのかは到底分からないけれど、ホーム画面にびっしりと敷き詰められたアプリたちがこちらを嘲笑する。


青い鳥のアイコン、無駄に派手やかに目立つSNS、時間割、課題用の文字カウント、音楽、いつ入れたやら分からないなけなしのフィットネス、娯楽動画、などなど。




窓際の角席は学生の狙いの的であるから素早くリュックを滑らせるとバサバサと音を立てて書物が落ちた。この時代―――ましてやワールドワイドな世界を作るだなんだとふかす教授が教鞭を取るくせに、未だにデータはプリント配布とかイカれてる。この講義の教授はいつも寝癖がなおらず、紐のようにヒョロヒョロと伸びている。




「よッ」

「…今日早くね」




予鈴の響いたタイミングでスライド式のドアを開いたこの男は、大学に入ってから口を利くようになった。


入学式初日、俺の学籍番号と間違えてロッカーに荷物を投げ入れた迷惑な奴である。


アルファベットと数字の組み合わされた妙な暗号みたいな学籍番号を視線でなぞりながら、初めて踏みしめる廊下に並んだロッカーを確認していたら、ズカズカと横を通り抜け、それから豪快にテキスト類を投げ入れたのである。


無駄に厚い書物を買わされた初日に見知らぬ此奴が付けた凹みが俺のロッカーには未だにある。廉価な缶ジュースのごとき箱箱はしっかりと凹凸を作り、気の毒にさえおもえた。


あまりに自然と荷物を投げ入れるものだから目を疑ったが、番号は何度読み上げても僕のもので、蚊の鳴くような声で「ァの、」と声をかけたのが始まりであった。


べつに男同士の関わりに始まりも何も無いが、人との関係が面倒にしか思えない僕にとって唯一業務連絡以外の会話ができる相手である。




破天荒ではあるが、彼は兎にも角にもイケていた。


間違えて僕のロッカーに投げ入れたテキストの端々には「ハヤセ」と乱暴に書き殴られていた。それは「早瀬」のものもあるし、「はやせ」或いは「HAYASE」のものもあった。最初は漢字で丁寧に書き加えていたであろうそれらは既に所有者の傘下で丁寧に散らばっていた。


学生会館での購入後、この歳にもなって早々にひとつひとつ記名するなどいやに律儀だが、ハヤセという名前の字列まで美的である。"イケている"という表現が死語と言わずに現代でも扱うのか定かではないが。



異性であれば耽溺するであろう甘やかな匂い。これは単なるシンプルな香水ではなく、いくつか香水をレイヤードしているという。ワインの飲み合わせみたいなものだと彼は言った。


それから全身洒落たモノトーンのコーディネートにほどよく整えられたヘアセット、そして左右対称の美しい顔。同性であるが、それでもわかる。顔が良い。


その証拠に、コイツと並んで歩くと表参道ですれ違う女の視線が途切れない。その視線は確実に僕の隣に向けられている。かつ、此奴はそれを自覚している。だからと言ってそれをステータスにはしないし、何に対しても興味が無い。


本日の天気が嵐であろうと、地球がひっくり返ろうと、この世から昼という概念が無くなろうと、彼にとってどうでもいいのだ。人生に悲観せず、期待せず、対等に呼吸する。此方が持ち得ないものをコイツは持っているし、僕の欲しいものを持っていなかった。おそらく、だから、互いに卑屈にならなくてすむ。楽なのだ。




「課題、なんだっけ」

「お前課題やんの?」

「さすがに留年はごめんだわ」




いつもは堂々たる態度で課題を放棄する早瀬から出た一言二言に感心するもつかの間、「てかどのページ?見せて」などと聞き捨てならない言葉が続いたので長机に突っ伏した。ケチ、と呟いて早瀬も突っ伏した。肘が当たるので起き上がると、本鈴が鳴ったのと同時に教授が入室してきた。僕は確信する。コイツがこの講義中に起きることは無い。




講義室の暖房が轟轟と唸る。教授のつらつらと綴られる説明は無きものとして吐き出された二酸化炭素に溶け、半分以上の生徒が早瀬と同じ体勢で突っ伏している。


もう半分は下を向いてスマホ操作に夢中で、それらは当人からすると上手くやっているような態度ではありつつも、見事に教授からは筒抜けであり、そして見破られていることを実際生徒も見抜いており―――といった攻防戦が繰り広げられている。大学は静かなる戦場である。


音という音はウンと唸るエアコン程度のこの教室で、僕達は正を求める。


人は音という音が爆ぜるほど鳴り響かない時音を探す。自分では無い誰かが作り出す音を手探りで模索し、耳鳴りでさえ本当は孤独と乖離するために人間がいつだか編み出した方法なんじゃないかとさえ思う。




大学二年、とは、最も生産性の無い放浪者の塊だ。偏差値もランク付けするなら上部には並べない中辺文系私立大に通う僕達は、世間から爪の先で弾かれるくせに、首の皮一枚で幸か不幸か生きながらえている。


銀座線沿線の立地はそこそこ便がよく、かつ建てられて間もないため倍率の低さにあやかり、適当な理由をつけて滑り止めで決めた。


本命には惨敗した。あんなに熱心だった塾の先生も、電話一本で不合格を伝えれば「そうですか」と一言告げられるだけだった。


結局滑り止め は正直大したリサーチもせずネットの情報のみで出願したがゆえ、実際入学してみればサイトのパンフレットに掲載されていた上等な建物はA棟、対して生徒の講義が行われるのは大抵B棟。地形上、入り組んだ細道に無理やり立てるしか無かったのだろう。B棟はA棟から数十メートル離れ、ましてや細道に建てたものだからとにかく狭かったし、チャチであった。本命に落ちただけでなく、綺麗な校舎でキャンパスライフの幻想さえもあえなく砕け散ったが、それでも立地だけはそこそこいい。




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