第四章 思惑交錯その二
何匹もの犬の鳴き声がする。それに加えて部屋に差し込んできた光が、ベッド上のまりんを照らし、眠気を急速に発散させていった。
「ん、もう朝みたいですね……」
まりんはゆっくりと瞼を開くと、ベッドの上で上半身を起こす。そして大きく背を伸ばし、欠伸をしてから、今日の予定を頭の中で思い返した。
正午に、救世ボランティアの過激派達との交渉がある。まだ戦うか決めかねているが、成り行きで戦うことになる可能性の方が高い。
そのため朝っぱらからすでに気が重いが、ミリルとの約束である、夢に出てきた父の言葉を教えてもらうためには仕方がないとも思う。
まりんはそそくさとベッドから下り、スリッパを履いて、パジャマ姿のまま洗顔と歯磨きをする。
その際、鏡に映っているのは、元はミリルの身体だった西欧人の女性だ。
つい見惚れてしまい、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。グラマーな体型に、流れるような美しいストレートの銀髪をしている。
特に乳房のサイズなど、元の自分のものと比べるのもおこがましい豊満さだ。
それに首筋の火傷痕は、綺麗さっぱりなくなっている。女性なら誰でも喉から手が出る程、追い求めるであろう非の打ち所がない美貌が、そこにはあった。
だが、まりんはその姿を見て、軽く溜め息を一つつく。いくら美しくても、他人の身体になってまで欲しいとは思えなかったためだ。
「やっぱり元の自分の身体が一番いいですね。親から貰った大切なものですから」
そうぼやいたまりんは、防寒マスクやウールニット帽、フリースを着用していく。
身体に炎を宿す彼女にはこんな防寒具など不要なのだが、ミリルから着るように指示されていた。
理由は理解できる。集落の人達に、中身が変わったと知られたくないためだ。ミリルの都合に過ぎないものの、まりんも悪戯に騒ぎを起こす気はなかった。
だから、ここは素直に従い、誰からも怪しまれないように振る舞うのが最善だ。
身支度を整えた彼女は、自分に割り当てられた部屋から廊下に出た。
「起床したようだな。そのまま俺について来いよ」
「あ、貴方は……」
「俺は集落で護衛隊長を務めている者だ。まあ、よろしくな」
廊下に出るなり、扉の横に立っていた男に声をかけられる。男も防寒着を着込み、防寒マスクで顔半分は隠されているが、彼とはすでに面識があると気付く。
集落までやって来る時に、ミリルとまりんを乗せた車を運転していた人物だ。ただあの時とは違い、手には鞘に納まった刀を握り締めている。
見た所、肌がくたびれているから、年齢は五十代ぐらいだろうか。黒人だと思われるが、侍を気取って日本かぶれしているのだろうか。
心の内でそんなことを考えつつ、まりんは歩き出した男の背後に付いていく。
まだ早朝のためか、通路を歩いている人の姿はまばらだ。それでも会う人からは、すれ違う度に挨拶をされ、まりんも頭を下げて挨拶を返していく。
その道すがら、男はふいに前を向いたまま背後のまりんに話しかけてきた。
「まあ、その……なんだ。身体を奪われて災難だったな、東郷まりん。まったく、あの完璧主義にも困ったもんだ」
「えっ!? あ、あのっ! 貴方は……どこまで知ってるんです? その口ぶりだと、私がミリルじゃないってことも知ってるんですよね」
「ああ、俺はお嬢を幼少期から知っているんだ。憑依の能力のこともな」
ミリルの秘密を知っている人間が、集落内にいたとは意外だった。情報が洩れれば、真相が広がっていく恐れがあると思っていたからだ。
そんな、この王国の牙城を崩しかねないことをミリルが許すとは考え難かったが、彼だけは特別だというのだろうか。
そんな疑問に答えるように、男は話し続ける。ショッピングセンターの一階を、どこかに向かって二人で歩きながら。
「お嬢の本来の姿は、やんちゃ坊主でな。俺は親代わりとして、あいつにこの極寒の世界で生き抜く術を教えてやったもんだ。一度、女の身体に憑依してからは、自分の心の性別が女性だと気付いたようだが」
「元は、お、男の子だったんですかっ? あんなに……なんていうか、女性らしい立ち振る舞いをしてるのに」
「お前があいつに身体を奪われた被害者だから教えた。他言はするんじゃねぇぞ」
まりんは十年前、東京の街で出会った男児のことを思い出す。ミリルとまったく同じ位置に火傷痕を持った、あの少年。
性別と外見が違うため、何か引っかかりを覚えつつも別人だと思っていたが、他人の身体を奪い取れるなら話は別だ。
やはり同一人物だったのだろうか。けれど、なぜ彼女に他人の身体を奪い取る能力が身に付いたのかは不明なままだ。
ただ、そんな性に関わることを本人に聞く勇気は、まりんにはない。
とはいえ、まりんの炎を発する能力と、彼女の憑依能力。あの時に接触した以外に共通点はないが、そこに特殊な力が発現した原因がある気がした。
「駐車場でお嬢が待っている。車に乗れ、待ち合わせ場所に向けて出発するぜ」
「え、今からですか?」
「そうだ、ちと場所が遠いからな。それに外は雪道だ。約束の時間より遅れれば、あの男との交渉に支障をきたすんでな。それを踏まえて余裕をもって出るんだ」
男が出入り口の自動ドアを手で左右に開くと、寒気が中まで押し寄せた。まりんにとっては何でもないが、外では今日も雪がちらちらと降り続けているようだ。
入り口近くの駐車場に停車したワゴン車の側に、ミリルが立っている。こちらに気付くと、彼女は手を振って笑いかけた。
着ているコーデはミリルがまりんに選んでくれた、あの服装だ。車内で待っていると思っていたのに、髪とその服装には雪が付着している。
目はこれまでに増して生き生きとしていて、今日という日を強く待ち望んでいたであろうことが分かる。
自身が敵と呼んでいる相手と真っ向から戦うための切り札を得た、この日を。
「今回は私が運転するよ。たまにはいいよね、大佐」
「俺は構わんぞ、好きにすりゃいい」
「もう相変わらずぶっきら棒なんだから、ちょっとは笑ってよ。私が本当に心を開いているのは、昔馴染みの貴方だけなんだからね」
ミリルの軽口を無視し、大佐と呼ばれた男はドアを開けて助手席に腰かける。そしてマスクを外し、紙巻煙草に火をつけて吸い始めた。
その態度に不満げな顔を見せたものの、ミリルは続けて運転席に。最後にはまりんが、後部座席に乗り込んだ。
全員が乗車し終えたことを見届けてからミリルは、予めエンジンをかけていたワゴン車のアクセルを踏んで発車させていく。
そのままショッピングセンターの駐車場を出ると、出入り口付近で一旦、停車する。
数台の重戦車を伴って哨戒している人達に、外出する旨を伝え、それが済むと、いよいよ集落の敷地を出て、公道に入った。
ここから先は、もうデストック社製の兵器に守られた安全地帯ではない。いつどこでキャンサーが出現してもおかしくない、奴らの領域だ。
遭遇すれば戦わなくてはならないが、極力避けて通りたいとまりんは願った。炎の力を行使してみて身に染みて分かったが、かなり体力を消耗するからだ。
それに激しい感情の発露によって、前のように能力が暴発することもある。リスクを取るのは、あくまで最終手段にしたい。それがまりんの本心だった。
「ううう……やっぱり戦いなんて、私に向いてないんですよねぇ……」
まりんは出発早々、胃が痛くなる思いをしていた。何でもないはずの風の吹く音がキャンサーの鳴き声に聞こえてしまい、びくびくしながら窓の外を眺める。
車内では誰も口を開かず、無言のままだった。あの陽気なミリルですら、集落の外では僅かでも油断できないといった面持ちで気を張り詰めさせている。
だが、まりんの心配を余所に数時間経過しても、トラブルは起きなかった。ここまで何事もなく、ワゴン車はずっと雪道を走り続けられている。
ミリルの運転技術のお陰だろうか。いや、もしかすると事前にキャンサーの位置を察知して、避けて通っているのだろうかとも思う。
やはりこの二人は、つい最近、荒廃した地球で目覚めたまりんと違うのだ。死線を幾度も潜り抜け、この氷の世界を生き抜く手段を心得ているのかもしれない。
「もうすぐ着くよー? キャンサーが近くにいる気配はないし、心配の種はあいつとの交渉の行方だけになりそうだね」
「じゃあ、いよいよ……救世ボランティアの過激派とのご対面、なんですね」
「そう、気をつけてね、まりんちゃん。あいつ、かなりヤバい奴だから」
ミリルに警告されて、まりんは気を引き締め直す。窓の外を見ると、降り注ぐ雪のために気付くのが遅れたが、この辺りの街並みは見覚えがある。
まりんですら知っている、東京の有名な観光地の一つ。高級ブランド店や有名レストランが立ち並ぶ大人の街歩きスポット、銀座だった。
銀座中央通りの愛称で呼ばれるその道を、ミリルが運転するワゴン車はスピードを落とすことなく走り抜けていく。
前方から雪が吹きつけてきて視界が悪いのに、よくハンドル操作を間違えないなと、彼女の運転技術にまりんは素直に感心した。
そうこうする内にワゴン車は、徐行しながら大きな百貨店の駐車場で停車する。そしてミリルは、後部座席にいるまりんに振り返って言った。
「さ、到着したよ。降りて、まりんちゃん。ここが待ち合わせ場所なの。でも、どうやらあの男の方が先に着いてたみたいね」
「ああ、そのようだ。しかし、腕はますます磨きがかかってやがるな。まさか、これだけの数のキャンサーを仕留めているとはよ」
「え、どういうことですか? どこにキャンサーなんて……」
半信半疑でワゴン車から降りたまりんは、辺りの光景に目を疑う。いつの間にそこに立っていたのか、十数メートル程、向こうにいたのは一人の男だった。
だが、まりんが驚いた理由は別にある。車内からでは気付かなかったが、男の背後には、息絶えて巨体を横たわらせている死骸が無数にあったのだ。
しかし、一見した所、男は武器らしきものを所持していない。正確にはあれほどの巨躯のキャンサーを仕留められそうな兵器を持っていない、というべきか。
ただ唯一、男の右手には反りのない片刃の刀身を備えた刀が握られていた。
そして皮製の黒いライダースジャケットとズボンに身を包み、頭と顔全体をカバーする同色のフルフェイスヘルメットを被っている。
特に異質なのは、男のその佇まいだ。声をかけるのも躊躇ってしまう程の、鬼気迫る雰囲気を纏っているのだから。
どうすべきかまりんがおろおろしていると、ミリルと大佐が恐れもせず、つかつかと雪が積もった駐車場を歩いて男に近づいていく。
「やあ、ごきげんよう、カルジ・カーティケヤ。今月も会いにやってきたよー?」
「誰だ、貴様」
殺伐とした姿とは裏腹に、顔を上げて放たれた男の声は穏やかに聞こえた。
だが、なぜだろうか。まりんは全身から危険を振り撒いているこの男の声を、前にどこかで聞いた覚えがある気がしていた。
「つれないこと言わないでよね。また身体は変わったけど、私よ」
「なるほどな。お前か、同志ミリル。今度はずいぶん若い女の身体を奪ったもんだ」
カルジと呼ばれた男は、ヘルメットで顔を覆い隠しているため表情が窺いしれないが、その口調は親しげだった。
彼は刀を腰の鞘に納め、ミリルに近づくと、その身体を抱き締める。
「まあ、いい。一カ月ぶりだな。相変わらずいい女だ、同志ミリル。予定時間より早いが、今月の交渉を始めるとするか」
「ええ、お手柔らかにね」
カルジはミリルの腰に回していた両腕を放し、上着のポケットから取り出した無線機でどこかに連絡し始めた。
すると、程なくして、空からバタバタとヘリコプターの飛行音が響く。合計で三機のヘリコプターが上空に姿を見せ、その内の一機が地上に降り立った。
あの漆黒の配色と髑髏の死神をモチーフにしたロゴは、デストック社製のものだ。着陸した機内から五人の男達が現れ、カルジの背後で横一列に整列した。
まりんは彼らを見て、びくりとする。彼らの顔を覆った黒い全面マスク、身体に着用している同色のコンバットスーツは、今もまりんの記憶に新しい。
自分や東京の人々を殺し回った、心のトラウマ。十年前にも見た、あの救世ボランティアの武装歩兵達の姿のままなのだから。
「人は資源だ。この時代、人が数多くいればそれだけで価値を生む。知っての通り、彼らは貴重な人的資源を注ぎ込んで俺達の協力で完成させた人造兵達だ。すでに三個大隊程、この部下達で構成された部隊を造り上げている」
「単刀直入に言ってよ。今度は何がお望みなの?」
「まだまだ人が足りない。お前の集落には、三百人程いたはずだな。そいつらにも俺達の血を投与し、新たな人造兵を造り出す」
その要求を聞かされるなり、ミリルの血相が変わった。
「ふざけないで! 血による施術は、完璧じゃないのよっ!? 何人の犠牲者が出るか分からない人体実験に、皆を付き合わせる訳にはいかないわ!」
激高したミリルがカルジに詰め寄り、胸倉を強く掴み上げる。ここまで怒りを露わにした彼女を見るのは、まりんも初めてだった。
彼女にとって集落で暮らす人達は、それほど大事なのだろう。
そこに属する人々をただの自己啓示欲を満たすための駒ではなく、心の底から大事に考え、全力で守ろうとしているのかもしれない。
だが、カルジにとって、そんな抵抗は事もない行動だったようだ。ミリルを突き飛ばし、尻餅をついた彼女の前で、再び腰の刀を抜いた。
「これは大儀だ。弱き正義である国連を打ち倒し、キャンサーの根城と化した北海道札幌市に攻め込んで、世界を人の手に取り戻す。そのためには兵力がいる。これまで通り俺に従え、同志ミリル」
「馬鹿じゃないの? ただの正義中毒だったあんたが、救世主気取りだなんて」
「交渉……決裂だな。もうこれ以上の話し合いは時間の無駄か。早急に話を進めさせてもらうぞ。残念だ、同志ミリル」
カルジが両手持ちで刀を大上段に振り上げ、躊躇いなくミリルに振るった。だが、刃が届く前、それは大佐が握る刀の刀身によって受け止められていた。
金属がぶつかり合った音が響き、二人は一歩も譲らず、刀を押し合う。まりんが大佐から少し目を離した一瞬に間合いを詰めたその足運びは、かなりの素早さだ。
この時代に刀だなんて時代錯誤だと思っていたが、考えを改めざるを得ない。事実、あのヘルメットの男の方は、キャンサーをあれで仕留めているのだから。
「貴様のような老害が出しゃばるな、大佐。世界は俺が変える」
「態度がでかいぞ、若造が。お前は最後まで不出来な弟子だったぜ。デストック社を利用し、歪んだ正義を振りかざさなければ、見逃してやったのによ」
大佐はしばしの鍔迫り合いの後、カルジの腹部に蹴りを喰らわし、そのまま後方へとふっ飛ばした。
しかし、カルジは難なく体勢を立て直し、刀を構え直す。そこへすかさず背後で待機していた歩兵達が援護に入ろうとするが、カルジは手で制止させた。
手出しするな、という指示だろう。数に頼らなくても勝てる自負心がなければ、そんな決断はできないはずだ。
それにまりんは、あの男が自分達と同じく、特殊な能力者だとミリルが言っていたことを思い出していた。
あの男が危険な思想の持ち主であることは、すでに分かった。このまま放置すれば、良くしてくれた集落の人達に危害を与えるであろうことも。
救世ボランティア過激派のリーダー格、カルジ・カーティケヤ。実際に本人を見てから戦うかどうか決めると約束していたが、すぐに答えは出てしまったようだった。
「お前達は補給基地に待機させている部隊と合流し、先にヘリで集落を襲え。俺も元同志のこいつらを始末してから、後を追う」
カルジは振り返ることなく、背後にいる歩兵達に命令を下す。そこから先の歩兵達の行動は迅速そのものだった。
瞬く間に、着陸していたヘリコプターに搭乗したかと思うと、上空で滞空していた二機と共にあっという間に飛び去っていく。
それを見たミリルの顔が、みるみる青ざめていった。飛び立ったヘリコプターを追って走り出そうとするが、大佐が彼女の肩を掴み、思い留まらせる。
「もう遅いぜ。今はあの男との戦いに集中しろ、お嬢」
「ぐっ……分かってる、分かってるよ、大佐っ」
だが、口ではそう言っていても、ミリルの錯乱は収まらなかった。怒りの形相で、カルジを睨みつけている。
「皆に手を出したら殺してやるから、あんたのこと! ここまで許せないと思ったのは、あんたが初めてよ、カルジ・カーティケヤっ。地の果てまでも追い詰めて、必ず殺すからっ」
「出来るものならやってみろ、元同志ミリル。俺も愛した女をこの手にかけるのも悪くはないと思い始めているぞ」
カルジは刀の切っ先をミリルに向け、ミリルも応じるように拳銃を抜いた。そこに音はなく、無駄な言葉もなかった。ただ、あるのは譲れない切実な決意のみ。
十数メートル程の距離を置いて、ミリルと大佐はカルジと対峙する。そんな中、まりんもまた戦う決意を固め、その場から一歩を踏み出した。
「私も手伝いますから、ミリル。約束でしたからね」
まりんは防寒マスクとウールニット帽を投げ捨て、素顔を露わにした。以前はミリルのものだった西欧女性の顔を見て、カルジも初めて彼女に興味を向けたようだ。
この面子の中では余所者に過ぎなかった彼女のその行為と言葉が、一触即発だった戦場にあって今、開戦の合図となった。
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