「ねえ、俺、告白されちゃった」

「告白じゃねえだろ。通報だろ」


 昼のピークを過ぎた店内に、客の数はまばらだ。在庫の補充を確認する凪に、ピンチヒッターのメンバーがイライラと答える。担当じゃない曜日に呼び出されて機嫌が悪いのだ。凪はかまわず話しかける。


「動画けっこう送られてくる。夢に向かってがんばってるんだってさ。プロポーションもいいし、才能あると思わない?」

「女子高生に手出すクソ野郎じゃん」

「ちがう、ちがう。女子大生。二十歳。ギリギリセーフ」

「お前と付き合って何が楽しいんだか」

「たとえば、さ。悩んでいる時に話をひたすら聞くっていう才能がある。俺は」

「ふーん。てか、就職どうすんの?」

「あと一年踏ん張るって」

「ふーん。みんな何かになりたいのかねえ」


 同僚はぽつりと言って、奥のカウンターに引っ込む。凪はレジ棚の釣り銭を確認する。空から金が降ってくればいいのになあと妄想しながら、この日の仕事を終えた。



「まゆの踊ってるジャンルって何?」


 恋人を自宅へ送る帰り道、凪は聞いた。まゆのしなやかな手足を毎日鑑賞しているわりに、自分は無知であるのをそれとなく気にし出した頃だった。


「うーん、凪はあまりダンスについて知り過ぎることないよ。私、博識家きらいなの。凪は頭でっかちにならないで」


 少しつり気味に上がった目もと、よく整えられて綺麗な体裁を保った眉、口調からにじみ出る溌剌とした声が、まゆの手垢のついていない若さを強調していた。


「俺はずっと素人でいいの?」

「そうそう。私のお客さんだから。私だけの」


 まゆは満足そうに、こちらに腕を絡めてくる。彼氏としての優越感を感じるとともに、ある種のしこりのようなものが凪の心に巣くう。


(いろいろと、憤ってるんだろうな。自分にも人にも)


 横断歩道を渡りながら、まゆがこちらをじっと見上げているのに気づいていた。


「凪こそ、いつも何飲んでんの?」

「ああ、あそこの自販機でしか売ってないマイナーな飲み物」

「レアもの?」

「そう、売れ筋じゃなくて一点もの。みんなの口には合わないんだよなー」

「私の口にも合わない?」

「まゆには難しいだろうなあ」


 ふうんと言ったきり、まゆは会話をやめた。

 信号機が点滅する。小走りで歩道を渡り終え、何となく話を続けるのも気だるい感じがした。


 まゆの手が腕から指先に絡み始めていた。

 何となくそれっぽい行為をする空気になったのを察知した凪は、恋人の頭を自分の方に引き寄せた。


 鼻筋にそっと唇をのせた後、ゆっくりと下って、口にたどり着いた。

 数秒、柔らかな時間を楽しんだ。


 幸せな瞬間が自分にはあった。

 甘えられる異性に思いきり甘えて、最後にとんでもない奈落の底まで突き落とされたいという劣情。立ち上がれなくなるくらい倒れ込んで、溺れてすがりつきたいという、消し炭のような欲望が。


 常に自分の内に眠る動機のままに生きてきたつもりだ。これからもずっと遊ばれて、受け入れられて、そして五月女凪という形を溶かして分解され続けるだろう。理念も概念もいらなくなるほど、這いつくばりたかった。


 口を離すと、まゆの瞳にいつにも増して暗い陰が差していた。


「……まゆ?」

「私はおかしい?」


 まゆの瞳は何かに揺らめいていた。


 熱いものを感じた。火。自分が付き合う恋人はいつも何かに燃えていた。火だと思った。自分自身へ向けるものもいれば、社会に向かっているものもあった。それは形容しがたい感情だった。まゆの中から身体を超えて噴き出しているその様が、凪にはわかっていた。


「もう一度言うけど、まゆは何に怒ってるの?」


 恋人は再び口をつぐんでしまった。


「現状? まゆは踊ることで何を伝えたいの」


 ひりっとした感覚にふれた。

 ああ、苦手だな。

 相手の核心をつく時にあふれ出る殺伐とした緊張感が、凪は苦手だった。そのくせそこを無自覚につくのは誰よりもうまい。


「多分ね」

 壊そうかな、と思った。


「合ってないんだと思うよ」

 冷静に出した声は低い響きを伴っていた。


「まゆのやりたいことと、目指すべき方向性が」

 相手が目を見開く。


「私にダンスは向いてないってこと?」

「違う。方向性って言っただろ。ポップなことやってるじゃん、今。でも周りがお前に求めているのは、それじゃない。お前の笑顔は怖い。笑いながら、美しい顔で踊るお前がすごく怖いよ」


 きっと自覚があるのだろう。まゆの瞳が揺らいでいた。不安そうに交差する互いの視線。彼女の目に自分の無表情な顔が映り込んでいる。


「まゆは知ってるはずだよ」

 掴まれている腕が痛い。きつく指を食い込まれている。


「今のままじゃ飛べないってこと」

 まゆは押し黙った。


 この子は、本当は気づいているのではないか。自分が彼氏に求めているものと、凪が自分のどこを見ているのかという視点に。


「まゆは俺にどうしてほしいの」

「……私は」

「まゆの理想の通りに生きてあげたいよ。ああしてって言われたら、いくらでも叶えるし、何も知らないファンでいてほしいのなら、ずっとそうしててあげる」

「私は」


 言葉が途切れた。

 重苦しい空気が流れる。

 時間だけが無常に過ぎていく。


「何がしたいの」


 凪は尋ねた。

 まゆは言葉を失っていた。


 この子の中に何が眠っているのか、何にわだかまり、何に心動かされ、何を手放せるのか、凪は指し示すことをずっとためらっていた。

 凪の方もわかっていたのだ。

 まゆは凪を心のよりどころにしている。まゆが満たされれば、自分たちの関係も終わることを。


 まゆは夢が叶えば旅立てばいい。けれど凪は空っぽだ。凪が何かで満たされることは、凪自身を慰めるものは、ないのだ。凪に自分を説明できるものは備わってないのだ。


 強いて言うなら、それは女か。

 凪は女に――異性に、すべてを求めていた。


 ずっと誰にも伝えていないことがあった。

 凪は、子どもの頃から、真夜中に外出していた。

 保育園から家に帰る時。小学校から家に帰る時。

 凪は一人だった。

 両親はいる。凪を送り迎えし、食事を作り、寝床を提供していた。

 けれど凪は、一人だった。


 凪は、二十五年間生きて、自我が芽生え始めた時期からずっと、泣いたことが一度もなかった。

 泣いても誰も自分のもとには来ないことを、知っていたからだ。


 凪の両親は、赤子の凪を――凪自身にその記憶はすでにないけれど――ベビーベッドに置いておいた。ぐずる凪を、あやそうとしなかった。凪が泣き止むまで、どんなに大声で訴えても、両親は凪に近づこうとしなかった。凪がやがて、涙を流すのは無駄なことだと悟るまで、黙り続けた。


 家には静寂が流れていた。他愛ない話や、世間で流行っているもの、それらを共有する秘密の「五月女家」としての意識のつながりが、なかった。不気味な静けさだけが凪の育った家庭を示唆していた。


 その奇妙な冷たさは、ある日突然、終わった。

 凪が小学校を卒業し、地元の中学に進学する頃だった。


 両親が、凪の誕生日にケーキを用意した。

「家族らしいことをしよう」と、二人は、それまでの互いの張りつめた空気感が嘘のように、仲良くなり出した。


 凪にほしいものを買い与えるようになった。スマホがほしいと言えばすぐに契約し、ゲームがしたいと言えば専用の機器を探し出し、小遣いを上げろと言うと、額は二、三割増しになった。

 十五歳になる頃、両親からもらえる金額が月四万を超えた時――凪は、ねだるのをやめた。


 おそらく、あの不思議な冷え切った家は、二人の不仲が原因だろう。親は共働きだ。仕事のことや、互いの心の距離、育児ノイローゼの問題もあったのだろう。凪は自分の家族を責めたりはしなかった。二人も人間だ。追いつめられている時、人は自分が情を失っている事実に気づかない。


 誰かに抱きしめられたかった。

 その対象がなぜ、女になるのか。

 父親でもよかったのに。

 求めているのは、なぜ、母親だったのだろう。

 まゆが自分に応えてくれない理由は、どこにあるのか。

 知り合った女たちは、どうしてみんな、離れていくのか。


 凪にはわからない。

 凪は空っぽだからだ。


「もう、いい」


 まゆの瞳から涙がこぼれ落ちた。


「凪にはもう何も求めない」


 掴まれている腕からまゆの力が抜けていく。

 恋人の心が、自分の懐からすり抜けていく気配がした。


「わかった。じゃあ最後に言っておくけど」


 凪はわざとらしくため息をつき、冷徹な目を向けてやった。


「まゆ自身の、”ダンスを好きな理由”を見つけられない限り、まゆはずっとそのままだよ」


 まゆは返答せず、凪から目をそらした。凪の手を振り払い、怒りをあらわに立ち去った。いっそ前につんのめりそうになるほど速く、まゆは後ろを振り返らずに家路への道を突き進んでいった。



   第二章へつづく。

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